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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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戦時中の炭鉱における虐待や報復と人質司法

2020年02月02日 | 国際・政治

 戦時中の日本の炭鉱で、朝鮮人労務が、同胞である朝鮮人坑夫を、死者が出るほど虐待するということがくり返され、逆に敗戦前後には朝鮮人坑夫が、虐待され、仲間を殺された報復として、朝鮮人労務を叩き殺し、その家族をも殺すという悲劇が起きたことが、下記の沈在煥の証言で分かります。
 「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」林えいだい(明石書店)によると、朝鮮人労務を叩き殺して報復した朝鮮人抗夫の一人、沈在煥は、その後、朝鮮から徴用されてくる時に日本語を話せるというだけで労務係に採用された朝鮮人が、日本人に増産を強要され、労務の仕事を遂行するために、上の命令に従わざるを得なかったことに思い至り、朝鮮人労務は加害者である一面、自分たちと同じ被害者でもあることに気付いたといいます。
 だから、私はこうした野蛮で深刻な殺し合いをもたらすことになった徴用工の問題は、日本から韓国に対して,無償3億ドル,有償2億ドルの経済協力を定めた日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決」などというような簡単なものではないだろうと思います。
 また、明治維新以来の日本の人命軽視や人権無視が、戦後の日本国憲法によって否定はされましたが、戦時中責任ある立場にいた人たちが裁かれることなく、その後の日本で再び活躍したために、今なお、そこここに人命軽視や人権無視の問題を残しているように思います。

 そういう意味で、ゴーン容疑者の海外逃亡で注目された日本の「人質司法」といわれる司法のあり方も気になるのです。
 ゴーン容疑者は当初、自らの報酬を過少に申告した疑い、すなわち金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕されました。でも、その後「虚偽記載」とされたのは、実はゴーン容疑者が、日産から「実際に受領した報酬」ではなく、退任後に別の名目で支払うことを「約束した金額」だという、驚くような報道がありました。有価証券報告書の虚偽記載罪というのは、有価証券報告書の重要な事項に虚偽の記載をした場合に成立するもので、退任後に「支払の約束」をした役員報酬は、記載義務があるかどうか疑問だといいます。だから、検察の逮捕容疑となった「役員報酬額の虚偽記載」が、まだ現実に支払われてもいない退任後の「支払の約束」だったとすると、「虚偽記載」を根拠とする逮捕には疑問があるということです。虚偽記載は、契約書を確認できれば事実は明白になり、検察の捜査によらなければ明らかにできないような話ではないというのです。
 そればかりではなく、東京地検特捜部は、その後、ゴーン容疑者が自身や第三者の利益を図って日産に損害を与えていたとして、「会社法違反(特別背任)」容疑で再逮捕しました。まさに、長期拘留によって、自白させる「人質司法」を裏づけるものではないかと、私は思います。証拠が得られていないので、取り調べで得られる供述で立証するために、自白を得ることを目的として再逮捕するというやり方です。
 さらに、妻のキャロルさんとの長期にわたる接触禁止も問題だと思います。検察は、ゴーン容疑者の指示で妻のキャロルさんが事件関係者と接触し、証拠隠滅を図る可能性を指摘しましたが、それはとりもなおさず、いまだ有罪を立証する証拠を掴んではいないということではないかと思います。弁護団が「接触禁止は大きな人権侵害。ゴーン被告とキャロルさんは精神的に弱っている」と話したことが伝えられましたが、長期の接見禁止も、取り調べで得られる供述で立証するために、精神的に追い詰めて自白を得ることを目的としているのではないかと疑われます。
 だから、私は、多くの海外のメディアが、日本における容疑者の長期身柄拘束や長時間の取り調べ、取り調べに弁護人の立ち会いが認められていないことなどを取り上げ、人権侵害であると批判していることにきちんと向き合って対応すべきではないかと思います。日本国内でも、別件による再逮捕などで被疑者を長期間拘束し、密室で自白を促すやり方が、数々の冤罪を生んできたとの指摘がくり返されてきました。
 日本も、国際人権規約14条にある
刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。”
という条文を尊重し、”日本には「推定無罪」という法治国家の原則が欠如している”などといわれないようにすべきだと思います。 
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                       第二章 死神
(2)同胞管理
 父親のかわりに
 江原道溟川郡江東面出身の沈在煥は、1943(昭和18)年10月に長崎県北松浦郡の炭鉱に徴用されてきた。西彼杵郡高島町の高台にあるアパートで独り暮らし、週に数回長崎市内の病院に、腰骨折治療のために通院している。
 長男だった沈在煥は、面の普通学校へ入学した。すると日本人教師は、朝鮮語をしゃべる子供たちに、日本語で話せと強要し殴りつけた。毎日学校から泣いて帰る姿を父親が見て、勉強どころでなく殺されると怒って、かれを退学させてしまった。
 太平洋戦争が勃発すると、面の若者たちが次々と強制連行された。半農半漁の暮らしなので漁師になった。漁に出て獲った魚は、遠くの漁港へ水揚げして、殆ど家に寄りつかなかった。帰ればすぐ徴用されることは分かっていた。それも危険になって、こんどは山の中に逃げ込んだ。長男の彼が日本へ強制連行されると、両親と弟二人の生活の面倒が見られなくなるからだった。
 面書記は毎日のように家にやってきて、息子を出せと父親に迫った。
 「息子が行かないなら、その代わりにお前が行け!」
 六十過ぎの父親が強制連行されるという知らせがあり、沈在煥は逃亡生活に見切りをつけて家に帰ってきた。江東面には炭鉱から労務係がニ、三人きていた。
 「賃金は一日五円だ。一週間に一日は必ず休ませるし、米飯は食い放題だ。どうだ、いいところじゃないか」
  沈在煥と父親を前にして、うまいことをいって勧誘した。しかし、同じ面の者が何人も事故死して、炭鉱は危険であることをよく知っていた。そうかといって父親をやるわけにはいかない。
 溟川郡で二百人が集まると、列車で釜山まで行き旅館に宿泊した。その夜、二階の屋根から数人が飛び降りて逃走した。翌朝、関釜連絡船の崑崙丸(コンロンマル)で下関港に着いた。 
 下関駅から列車に乗ると、長崎まではシャッターを降ろして、外の風景が見えないようにした。その翌朝、下関まで乗船した崑崙丸が、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈んだことを知った。
 潜龍炭鉱の隣にある、ダンゲツ炭鉱(当時そういう事業所は見当たらない、本人の記憶違いかも)に着いた。バラック建ての朝鮮人寮の一部屋に十人入れられた。二交代制で、半数が入坑すると、在室の者が空いた布団に寝て、帰ってくると交代で入坑した。
 労務係が、募集の条件として五円だといったことは全くの偽りで半分の二円五十銭だった。
 「芋ばかりで、たまに雑炊があるが、手を突っ込んんでも指先より大きいものはない。どんぶりの底に米粒が僅かやった」
 入坑する時の弁当箱には、芋の蒸かしたものが数個はいっていた。
 お汁は海水を汲んできて、カボチャとか大根の葉が浮いていた。沈在煥たちは、入坑した日から、お腹が空いて死ぬほどの苦しみを味わった。
 言葉が分からないので叩かれた。坑内ではすべての朝鮮人に通訳がつくとは限らない。坑内係や先山たちから命令されても、ぽかんと立っていることがある。
「こらっ、 貴様! 成木(ナルキ)をとれというのが分からんのか!」
 日本人の先山がいきなり坑木で殴りつけることがあった。叩かれて命令されるうちに、一ヶ月が経つ頃には、相手が何を要求しているかを理解できるようになった。
 掘進とか採炭作業は、炭鉱に慣れない彼らにとっては危険だった。目の前で落盤事故があって死んでも、ボタと一緒に炭車に積んで運び出すので、後はどうしたのかも知らされなかった。
 「朝鮮人にとっては毎日が地獄やったよ」
 沈在煥がしみじみと語るが、落盤、ガス爆発、出水、炭車の暴走事故があって、朝鮮人は毎日のように死んでいった。十人事故死すれば十人、朝鮮から強制連行してきて補充した。
 飛行機の燃料が不足するといって、山の松油を取るようになり、勤務明けの日には山に動員された。そのために体を休めることができず、実質的には連続労働となった。
 ある日、沈在煥と話していると面白いことをいい出した。
 「何処の国も松の木が枯れたら国は滅亡する前兆なんだと」
 「どうして松と国の滅亡とが関係あるんですか?」
 私は思わず問い返した。
 「松と人間の命は同じだと。松は一回切れば絶対に芽を出さないんだ。人間も首を切れば死んでしまう。普通の木は切られても、必ずそこから新芽を出すんだ。松だけはそうじゃなか」
 何処でも松が枯れたら国が滅亡すると、とてもうがった見方をしていると思った。朝鮮には、昔からそんないい伝えがあるといった。実際に松油を長く取ると松が枯れて、山の中に茶色の部分が増えた。日本は戦争に負けると予測していたのだ。

 逆さ吊り
 石炭増産命令が出て、各炭鉱が軍需工場に指定されると憲兵が派遣され、労務管理にも口を出すようになった。食事は脱脂大豆が中心となり、中にコーリャンが混じった。
 脱脂大豆の腐ったものをたべると、消化不良を起こして毎日下痢が続いた。栄養失調のところを長時間労働が続き、昇坑すると病人のように倒れた。翌日は疲労で起きられずにいると「朝鮮人はわざと生産妨害ののサボタージュをしている。怠けるな!」と、その場で木刀で叩いた。
 病気で寝ている者を殴りつけ無理に入坑させた。
 沈在煥が病気で休んでいると労務係がやってきた。
 「とても体がきつくて働けません。休ませてください」と、拝むように労務係にいった。
 「貴様、ケ病を使うつもりか、よし労務までこい!」
 労務詰所に呼ばれるとそこで何が起こるか、朝鮮人抗夫なら誰でもよく分かっていた。アイゴー、アイゴーの悲鳴が朝鮮人寮に一日中聞え、その翌日には冷たくなった人間が、車力で運び出されるのを何人も見てきた。それを知っているだけに、労務詰所に連れていかれて命が助かろうとか甘い考えは捨て、死ぬ覚悟で行かなければならなかった。
 労務詰所に入ると、外勤の朝鮮人労務がいきなり沈在煥を木刀で叩いた。何故休みたいのかとたずねることはなかった。十数回木刀で叩かれると、座ることもできずに倒れた。そこを数人で体を押さえて、足をロープで結ぶと、天上の梁にぶら下げた。頭を下にされて人間が逆さになると、それだけで意識が朦朧となる。そこをニ、三人で交代して鶴嘴の柄で叩き始めた。三十数回叩かれるうちは痛みを感じるが、それを過ぎると麻痺して感覚がなくなる。筋肉がかちかちに固くなり、叩く音だけが耳に聞こえた。
「朝鮮人の労務はひどかったねえ。それはもう親の仇打ちをするように殴りつけた。何故、同じ朝鮮人をあれほど虐待するのか、わしにはその気持ちが分からんやった」
 沈在煥は、その労務係の顔の特徴を忘れなかった。いつかは彼らに報復しようと腹に決めた。
 逆さ吊りを一週間続けられると精神状態がおかしくなる。若さがあるからそれに耐えられたが、病弱な者はひとたまりもなく死んでしまった。
 労務係の仕置きが終ると、部屋の仲間が迎えにきて、肩に担いで寮まで連れて帰った。飯になっても起きられず、ただ水を飲むだけだった。その頃、寮には一週間に一回だけ合成酒の配給があった。沈在煥は悲観のあまり、酒を一気に飲んで自殺しようと考えた。
 空腹で働けないので故郷に手紙を出して、食べ物を送ってくれるように頼んだ。親は心配して現金や朝鮮アメ、餅などを送ってよこした。品物が届くと全部労務係たちが小包をこっそり開け、金は自分たちで料理屋へ行って女を抱いて遊んでしまう。それを知っていても、抗議することさえできなかった。
 ある日、起きると隣に寝ていた同胞の一人が冷たくなって死んでいた。風邪をこじらせて肺炎を起こし、高熱が続いて前の晩まで呻いていた。労務係は肺炎で苦しんでいても、決して休んでよろしいとはいわなかった。入坑させるほど自分の成績が上がり、炭鉱からは受け持ちの抗夫の稼働率が高いという評価を受けた。そのために各寮ごとの生産競争となって、その成績を廊下に張り出し償金を出した。そうした生産競争が、圧制の一つの要素になった。
 その制度のことを”半島表彰”といった。
 沈在煥の目の前でも拷問が行われ、二人の同胞が血を吐きながら絶命した。数日前に寮から脱走して捕まえられ、全員を集めた前で見せしめのために殴り殺されたのだった。

 決死の脱走
 事故で死ぬか、拷問で死ぬか、いずれ死ぬのなら脱走しようではないかと、沈在煥たち同じ部屋の三人は相談した。
 朝鮮人寮から脱走すると、写真をつけた手配書が、県内の各警察署に配られた。炭鉱側は、交通の要所に見張り人を出張させていた。駅員なども怪しい朝鮮人の姿を見ると、すぐ警察へ連絡した。土地勘がない上に、現金を持たないので彼らはすぐ捕まった。
 沈在煥は、一度捕まった同胞から、失敗した原因をいろいろ聞いて研究した。町に出ると捕まるので山中を逃げ、お腹が減ると民家のところまで降りてきて、畑の野菜を盗んで再び山へ引き返した。三人で集団行動をとると、人目について危険だった。話し合って単独行動をとることにした。三人はそこで別れると、沈在煥は山の中を北へ夜だけ歩き続け大志佐に出た。チマ・チョゴリ姿を見て再び山へ戻り、夜になるとこっそりその家を訪ねて事情を話した。するとそこの主人が同情して、すぐ近くの朝鮮人が経営する土方飯場を紹介してくれた。そこの飯場は朝鮮人が三十人いて、みんな炭鉱から脱走した者ばかりだった。
 大志佐の仕事が終わると、親方と一緒に崎戸炭鉱へと一緒に移り、飯場の親方は坑外の土木現場を請け負った。
 ”一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島”といわれるほど、崎戸炭鉱の圧制振りは天下にとどろいていた。三千人以上の朝鮮人が強制連行され、その悲惨な姿を見るとタンゲツ炭鉱のことを思い出した。飯場の親方はそれを見て、坑内に入れられたら大変だと、工事が終わるとすぐ大村の飛行場へと移った。
 軍工事は炭鉱からの脱走者にとってはいわば安全地帯だった。労務係が探しにきても、軍関係の工事に文句をつけるのかと兵隊が追い返した。海軍関係の工事だけに、どうしたわけか白米飯を腹一杯食べることができた。ところが飯場の親方たちは、彼らが脱走してきたという弱みを握っているので、働いた賃金は一銭も沈在煥たちには支払わなかった。みんなで抗議すると、親方はやっと一日に二円五十銭支払うようになった。
 「私たちは怪我をしても病気をしても、誰も助けてくれる者はいない。怪我せんように病気せんようにと、そんなことばかり考えて、もう人間として生きた気持ちはせんやったですよ。これから私たちはどうやって生きていくのかと。
 炭鉱じゃ働いても郵便貯金をしているといって、決して現金を渡さんやったから、故郷に金を送るどころか、送ってもらったぐらいだ。現金を渡すとお前たちはすぐ脱走するというんだ」
 大村飛行場は敗戦近くなると毎日のように敵機の爆撃を受け、空襲警報のサイレンが鳴ると、艦載機のグラマンはもう上空にきて爆弾を投下して、激しい機銃掃射を繰り返した。防空壕から出て、滑走路を修理していると、すぐ空襲警報で作業を中止した。

 報復
 8月9日の長崎原爆投下以後、飛行場の工事は一時中止になった。防空壕の中では、炭鉱から脱走した朝鮮人が集まって話し合いをした。もう日本の敗戦を肌で感じとって、前に働いていた炭鉱へ行き、労務係に報復しようと相談をした。彼らの殆どの者が、一度や二度それ以上に労務係から死ぬほど虐待された経験を持っていた。報復をしないと気持ちが治まらなかったのだ。
 8・15の解放を迎えると、軍工事だけに仕事は午後から中止となった。沈在煥は仲間と相談してタンゲツ炭鉱へその日のうちに行った。
 先ず朝鮮人寮に行くと、昔の仲間たちと会った。
 約半数が脱走していたが、十数人が捕まって労務係から虐殺されたことを知った。その中には同じの人で、沈在煥と一緒に強制連行された仲間もいた。
 「労務係の奴を生かしておくな。みんなで仇討ちに行くぞ!」
 五、六百人が、どっと労務詰所を取り囲んだ。
 日本人労務係は、報復を恐れて、解放の日に姿を消していたが、朝鮮人労務係は職員社宅にそのまま住んでいた。
 日頃からみんなが受けた恨みを晴らそうと集団で襲うから、群集心理で狂暴になってくる。
 「助けて下さい、命だけは─」
 朝鮮人労務係たちは、みんなの前で土下座すると、泣きながら命乞いをした。
 「やってしまえ!」
 家族が見ている前で叩き殺した。
 「種を残さないように、みんな殺してしまえ!」
 誰かが叫ぶと、逃げようとする家族に襲いかかって皆殺しにした。
 一人で殺すとなると、ある種の良心とためらいがあるが、集団で殺せば恐くはなかったと沈在煥は語るが、怒り狂っている時は人間は見境がつかなくなる。戦争というのはそういうものであって、人間を狂喜にしてしまう。
 朝鮮人労務係の報復が終ると、今度は日本人労務係に目を向けた。
 9月になると、全国的に朝鮮人聯盟が各地に発足して、北松浦郡内に各支部が結成された。そこへ労務係と坑内係を呼び出すと、今度は彼らがやったと同じ方法で拷問を加えた。沈在煥自身、もし逃走して捕まえられたら、必ず虐殺されていたと思った。そうなると炭鉱全体が恐怖のどん底に落ちて、石炭生産はストップした。 
 戦後復興に石炭が必要なこともあって、炭鉱経営者は佐世保進駐の米軍に泣きついて派遣してもらい警備するようになった。炭鉱側からは警察が立ち合いのもとで謝罪させてくれと申し込みがあり、朝鮮人連盟はそれを認めた。
 沈在煥は彼らに報復をして、炭鉱時代の恨みを晴らし、戦前の結着をつけるつもりだった。 
 「しかし、今になって冷静に考えると、彼らも可哀そうな人たちなんだ。朝鮮人労務係もある意味で犠牲者なんだ」
 報復した直後と今とでは、相手に対する思いはずい分違っている。
 朝鮮から徴用されてくる時に、日本語を話せるというだけで、労務係に採用された者が多い。自分の意志とは別に、命令されると拒否できない時代である。職務上増産を強要されるので労務の仕事を遂行するために、上の命令を忠実に守ったわけだ。もし可哀そうだといって同胞を助けたりすると、自分の命さえ危険にさらされる。
 沈在煥は、もし自分がそういう立場になったとしたら、果たして拒否できたであろうかと、やっと近頃になってそのことに気付いたという。
 そうした朝鮮人労務係をいちがいに責めることのできない事情もある。彼らは加害者の一面を持つと同時に、被害者でもあったのだ。沈在煥がそういう思いまで到達するには、やはり長い時間がかかったようだ。
 戦後、沈在煥は帰国するため、北松浦郡内の中小炭鉱で必死になって働いた。長男であるし、帰国するには少しお金を持って帰らなければならない。平戸から密航船が出ることを知って、仲間数人と帰国を相談した。すると済州島や対馬近海で海賊が出没して、品物や現金を奪い取り、海に投げ捨てるという噂が広がって、危険を感じて遂に帰国を諦めた。そのうち一度故郷に帰って、闇船でUターンしてくる同胞たちが、朝鮮の生活は苦しいから帰国しないほうがいいと彼に話したからだった。
 沈在煥は、唯一の帰国のチャンスをそれで逃してしまった。北松浦郡の炭鉱で働いている時、同胞の女性と結婚して子供を設けた。故郷のことを思うと、やけっぱちになって焼酎を飲んで家庭内で暴れて女房を殴りつけた。日本酒なら三升(一升は1.8リットル)、焼酎なら一升を一気に飲んだというからかなりの酒豪である。家庭内暴力に耐えかねて、女房は乳呑児を連れて家出した。

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