真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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戦時中の朝鮮人労働者募集に関わる証言と日本の人権無視の体質

2020年02月14日 | 国際・政治

 戦時中、徴兵による労働者不足で、日本のあちこちの炭鉱や工事現場から、大勢の関係者が働き手を求めて朝鮮に行ったようですが、その実態が、下記の「朝鮮人狩り」の文章で分かります。「募集」という言葉が使われていますが、特に大戦末期は、事実上人権を無視した強制連行であったと思います。

 長田氏は、自分は強制連行していないというようなことを、「朝鮮人狩り」の文章の最後に書いていますが、下記は、強制の圧力がかかっていたことを物語っているように思います。  
ある面に行くと、どうしても集まらないと募集係が泣きそうな顔をしていた。その募集係を読んで事情を聞くと、割り当ての人数を供出するには、強制的にならざるをえない。もし、自分の兄弟とか身内を外すと、他の者から文句が出る。身内のものを決めると、親戚のくせに思いやりがないと今度は責められる。無理に連れて行くと、一生恨まれてこの面におれなくなる。いっそのこと、自分を日本に連れて行ってくれないかと哀願されたこともある。
 
 また、「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)には、元日炭遠賀鉱業所高松炭鉱第一抗労務係長・野村勇氏の証言なども取り上げられていますが、その中には、
募集業務というのは、炭鉱側が是非とも労働者が欲しい熱意と、郡役所の募集担当、面長、面の募集係、それに面巡査の協力がないと絶対に集まらなかった。大東亜戦争になると、もう朝鮮の現地では労働者は底をついている時代で、以前のように日本に行くことを希望している連中は一人もいない。それだけに十分対策を立てなければならない。何処の炭鉱でも大っぴらに賄賂を使うとか、関係者に飲ませ食わせしました。それが一つの習慣となって、最後の清算がつかなくなってしまうんです。
とか、
募集を通じて一番痛切に感じたのは、面事務所とか面巡査との人間関係がうまく出来るかどうかにかかっています。来ましたからお願いしますじゃ、とても集まるものじゃありません。農村にとって、働き手を持って行かれると困るから、どうしても嫌がることになる。
というような証言もあります。
 
 こうした証言から、戦時中の朝鮮人労働者募集は、まさに相手の立場を考慮しない人権無視の強制であったと思います。そして、こうした人権を考慮しない日本人の考え方が、戦後の日本に、いろいろなかたちで残っているのではないかと思います。

 私は、最近の若い人たちに、人権意識の高まりを感じることもありますが、政権中枢やいろいろな分野で大きな力を持つ人たちには、戦前・戦中と同じような人権無視の姿勢が受け継がれているように思います。
 それが、すでに触れた、「人質司法」の問題や「外国人技能実習生」の問題、入管収容施設の問題等に現れているのではないかと思うのです。
 いろいろなスポーツ団体や学校の部活動における体罰や暴力、パワハラなどの問題についても、その背景に「陸軍現役将校学校配属令」に基づき配属された現役将校の軍事教練・学校教練などの軍国主義的教育があるとする説や、戦後、軍隊経験者が学校やスポーツ団体の活動に関わり軍隊の行動様式を持ち込んだとする説などもあるようですが、そうした戦前・戦中の人権意識の欠如を引き継いでいるからこその日本独特の現象である側面があると思います。


 最近、「ブラック校則」などといわれる丸刈りや黒髪を強制する校則なども、そうした流れと無縁ではないように思います。
 そういう意味で、過去の人権無視や人命軽視の事実をきちんとふり返ることは大事であると思うのですが、安倍自民党政権の戦前回帰の動きに合わせて、むしろ人権無視や人命軽視の考え方が復活しつつあるように思います。
 明治維新以来、先の大戦における敗戦に至るまでの軍国日本(皇国日本)の人権無視や人命軽視の体質は、いまだ乗り越えられていないばかりでなく、根本的なところで復活しつつあるように思われるのです。

 下記は、「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)から抜粋しました。
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                    第十二章 朝鮮人狩り        

                     1 鉱業報国会
                                   元福岡鉱山監督局・元日炭遠賀鉱業所福利課

                                            北九州市在住 長田信俊

(1)鉱業報国会
 明治42年、私は門司の大里で生まれた。
 昭和9年、早稲田大学卒業後、商工省に入って、翌10年、福岡鉱山監督局に転勤した。鉱政課の監督官として、鉱業出願、労務登録を担当した。その当時は柏原局長で、炭鉱事故が発生すると労務担当と技術担当の監督官が調査にいった。私の仕事は鉱山監督行政で、その権限は絶大なものがあった。
 日中戦争が勃発すると、石炭増産が急務となって、その体制づくりで各鉱山と炭鉱を指導して回った。
 「長田君、ちょっと来てくれ・話がある」
 ある日、榎本勝造鉱政課長から呼ばれた。
 「実は、戦局がこんな状態で、石炭掘れ掘れと炭鉱にハッパをかけるばかりじゃ駄目だ。
 その基本となる精神運動を、各炭鉱で盛り上げたいが…」
 「私にそれを企画しろというのですか?」
 それから二人で構想を練って、運動のやり方として、”鉱業報国運動”をやることに決まった。二人だけで計画を立てるよりも、福岡鉱山監督局全体が協力して旗振りしないと、各炭鉱は動かないぞということになった。立山方(タモツ)、佐久洋の二人をスタッフに加えて、運動としてどう波及、広めて行くかを研究して素案をづくりをした。
 日中戦争になるとそれまで激しかった労働運動は、急に影をひそめました。
 社会大衆党が労働問題に介入してくると、炭鉱側の鼻息のほうが強くて、「お前たちが交渉に入ったら、金を払ってよらないぞ!」と、逆にはねつけることもあった。
 鉱業報国運動の基本は、労使一体となって石炭を増産、国のために尽くそうではないかということだった。戦争遂行のために裸になって石炭を掘り、労働運動なんかをして利己的に考える時代ではない。資本家も石炭を掘らせて、儲けることだけを考えるなと、戦時体制へ向けての精神運動にすることにした。
 ・・・


(2)医者連れの募集・・・略


(3)虎の鳴き声
 ・・・
 昭和16年でしたが、そう簡単に労働者は集まらない。最初は医者を連れて行ってサービスをしたからとたかをくくっていたが、都市部と田舎では全く違っていた。面の中では、誰でも若い働き手をすべて募集できるわけではない。一家の主もおるし、炭鉱という危険性もあって嫌われる。二年契約ということで、長期間家を空ける不安がある。途中で一回も帰さないので、先祖の法事などが出来ないと思い込んでしまっている。
 ある面に行くと、どうしても集まらないと募集係が泣きそうな顔をしていた。その募集係を読んで事情を聞くと、割り当ての人数を供出するには、強制的にならざるをえない。もし、自分の兄弟とか身内を外すと、他の者から文句が出る。身内のものを決めると、親戚のくせに思いやりがないと今度は責められる。無理に連れて行くと、一生恨まれてこの面におれなくなる。いっそのこと、自分を日本に連れて行ってくれないかと哀願されたこともある。
 小さい面になるといろんな人間関係があって、送り出す側にも深刻な問題があることを知って驚いた。
 募集状況を知りたいので、慰労を兼ねて郡役所の幹部と郡の警察関係者を沃州の町の料理屋へ招待した。募集係の説明によると、二十人の予定をまだ十人しか集めていないところがあった。朝鮮巡査をしていた池田が酔い始め、宴の席がたけなわになると、じわじわとからみ始めた、朝鮮時代はこの地方の警部補で、警察署長は昔の部下だといった。出席していた郡長も、池田には頭が上らないほどの顔だった。朝鮮の内情に詳しいし、風俗習慣や住民の心情も知り尽くしている。第一、朝鮮語を自由に話せるということで、日産化学工業が特別採用で労務係にした男だった。その顔を利用して、募集係の一員に入れていた。
 「大体、お前たちは誠意をもって募集しているのか。お土産はただで持って来たんじゃないぞ。募集を頼むからこそ頭を下げているんだ。もし予定の募集人員に達せんやったら俺にも考えがある」
 「いえ、私たちは悪意じゃありません。毎年、毎年いろいろなところからの募集が続いて、あなたが要求するような該当者が非常に少なく、ほんとに申し訳なく思っています」と、郡長はいいわけをした。
 「何をほざいているか! 医者を連れて、何のために朝鮮くんだりまで来るかっ。田圃や畑にゃ若い者がいっぱい仕事をしとるじゃないか。お前たちは俺の顔を潰す気か!」
 いきなり立って、テーブルを倒してしまった。
 「池田君、止めんか!」
 私は池田の肩を押さえてもう一度座らせた。
 せっかくの酒席は、そのことで目茶目茶に壊れた。一時はきまずい空気が流れた。
 「お前たちはもう一度それぞれの面に催促して集め直せ! そして二日以内に確実に集めて俺に報告しろ。もし不足したら承知せんからな」そういう池田は、怒って席を立った。
 私は池田の無礼を彼らに詫びた。私にも割当て人数を募集する責任があるから、是非協力して欲しいと彼らに頼み直した。炭鉱にしても、これから先、沃州地方で募集のことでお世話になる。もし郡長や警察を怒らせると、それ以後の募集は絶対に集まらない。それから場所を変えて、別な料亭に席を移し、芸者を上げて大騒ぎした。
 第二陣百人は沃州に集まり、四十日目に釜山から関釜連絡船に乗った。
 私は福利係の仕事で、炭鉱の配給所の関係の仕事も担当していたので、特配などの物資を各訓練所(朝鮮人寮)に渡したので、労務管理については直接タッチしていない。

(4)首吊り
 ある日、訓練所の外勤労務係の池田が、福利係の私のところに顔色を変えてやって来た。二百人強制連行して来た者の一部が、逃亡していなくなったから、探してくれといった。私は朝鮮から帰ると、時々訓練所に遊びに行って、彼らと卓球などして親しくなっていた。
 「お前、探してくれといっても、どの訓練所で何時逃亡したのか、それを話さんと分からんじゃないか」
 訓練所に入ってから、まだ10日しか経っていなかった。
 「芦屋の飛行場の飯場におるらしいです。あそこは軍関係の飯場なので、長田さんしか行く人はありません」
 叔父が予備役の志岐中将で、私も福利係で兵事関係をしているので軍関係者には知り合いが多い。  
 「芦屋に行っても追い返されます。一歩も踏み込めんとです」
 「そんな馬鹿なことがあるか。暑い夏を四十日もかけて朝鮮から連れて来て、それは困るよ」
 津守先生と一緒に、山の中を歩き回った苦労を思い出した。当時、飛行場や軍の工事場の飯場に逃げ込んだら、そこに確かにいると分かっても、民間人は一切手出しが出来なかった。軍関係の仕事にお前たちはケチをつけるか、そんな人間はいないといわれるとそれまで。あげくの果てには、軍の工事を妨害したから憲兵隊にわたすぞとすごまれる。
 炭鉱のトラックを出して、池田を乗せて憲兵隊芦屋分遣隊に行くと、知り合いの隊長に事情を話して許可をもらった。
 飛行隊の本部で司令官に会うと、そんな朝鮮人は一人として軍で使用していないから帰ってくれと突っぱねられた。憲兵隊長の許可をもらっていることを話すと副官を呼んだ。
 「ここの飛行場の飯場におる証拠でもあるのか?」
 すると池田が、「はい、逃げたうちの一人がうちの訓練所の朝鮮人を誘いに来て、それらを捕えてやきを入れると、ここの飯場に五人ほど逃げ込んでいることを白状しました」
 司令官は嫌な顔をしたが、副官に命令して私たちを飯場に案内するようにいった。土砂をモッコで運んでいる者、避難用の地下壕を掘っている者を片っ端から探して回った。私にはそこで働く朝鮮人はみんな同じ顔に見え、誰が訓練所から逃亡して来ているのか見分けがつかなかった。
 四、五百人働いている中から、池田は二人を見つけた。その二人を連れ出すと、芦屋警察署の留置場へ放り込んだ。逃げないように池田が一人ひとり両手を結び、それを首にかけて窓の鉄格子に止めた。残った三人を探して帰って来ると、一人が苦しそうにもがいていた。もう一人は頭をぐったりと垂れて、鼻水を垂らして意識を失っていた。私たちはあわてて縄を解くと、二人を床に降ろした。逃げようともがいているうちに、縄が二人の首を縛めてしまったらしい。ちょうど首を吊った状態であった。仮死状態なので、カツを入れると息を吹き返した。
 「池田、早う医者を呼べ!」
 医者が来て診察を始めると、二人は狂ったように暴れ出して訓練所に帰るのは嫌だといった。「哀号! 哀号!」と泣いて助けを求めた」
 「池田、この五人は俺が軍からもらい下げた朝鮮人やから、訓練所に連れて帰ってリンチなんか手荒なことをしたら承知せんぞ」
 彼らは訓練所から逃亡しているので、労務係から報復されることを極端に恐れていた。
 「それは分かっています。長田さんのお陰で探し出したのですから」
 それを聞くと五人は、私に手を合わせて拝んだ。
 何処の炭鉱でも逃亡には手を焼いた。私の持論として、逃亡者を捕まえてひどい目に遭わせることは反対でした。叩けば労務係の気はすむだろうが、体を痛めて働けないようにしたら、それだけ炭鉱にとってはマイナスになる。ただ飯を食わせるためにわざわざ朝鮮から連れて来たわけではなく、働かせるために連れて来たのだからね。そうかといって彼らの自由にさせるわけにはいかない。逃亡させないように労務係が監視するし、捕まえると当然見せしめの仕置きをする。そうしないと、朝鮮人の労務管理は出来ないからね。
 日産コンツェルンの鮎川義介が三好鉱業を買収して、日炭になって近代的な労務管理に切り替えたが、以前の高松炭鉱の労務係の残党がいて圧制の伝統は残っていた。高松炭鉱時代の労務係は、ピストルをと仕込杖を持ち歩いていた。高松キナコとか、サガリグモなどのリンチは有名だった。
 昭和18年頃でも、まだ暴力的な名残りがあって、朝鮮人抗夫を虐待した。古賀訓練所に行くと、寮生の一人が反抗したといって、労務係のSが労務の詰所のコンクリートの上に正座させていた。バリカンで頭を十字狩りにして、「おいちょっとこっちに来い」と水道の蛇口のところに連れて行った。頭の上から水をかけて、鉄製のブラシで頭をごしごし洗った。
 「お前の頭はフケが多いか、石鹸をつけたほうがよかろう」というと、石鹸をつけてさらに鉄ブラシで洗った。 
 「哀号! 哀号!。先生こらえてくださ」と、ひーひー泣き叫んだ。石鹸の泡が血だらけになっても、Sは何時までも鉄製ブラシで洗い続けた。
  朝鮮人抗夫は、不真面目で全部逃亡したりするわけではなく、日本人抗夫の模範になるような抗夫もいた。ドイツの鉄十字章にちなんで、福岡鉱山監督局は優良抗夫に黒十字章を与えた。昭和18年には、朝鮮人抗夫の一人が選ばれた。七、八千人の中から選ばれるので、抗夫代表として神前に玉串を捧げましたから。黒十字章が二つになると、商工大臣から表彰された。
 強制連行というけど、私なんか現地で強制的に連れて来たのではない。炭鉱の知らないうちに、郡役所や面事務所が強制的にやったのなら別ですがね。向こうでは日本の内地にきたがっているのを連れて来るという、そんな感じでしたからね。彼らがこちらに来るためには募集費用をかけているので、逃亡されたりすぐ止められては炭鉱としては困る。炭鉱に慣れて真面目な者は故郷に送金して、結構楽しくやっていた。
 強制連行といえば、日本人だって勤労報国隊とか徴用工には、徴用令を適用して強制的で同じこと。静岡とか、富山からどっと徴用されて合宿所に入れられたからね。
   

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