真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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安倍晋三著「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)に対する異論 NO1

2020年02月27日 | 国際・政治

 最近の日韓関係の悪化はどうしてなのか、「新しい国へ 美しい国へ 完成版」安倍晋三(文藝春秋)読めば、何かわかることがあるのではないかと思って読みました。違和感を感じるところが多々ありました。だから、自分の考えを深めるためにも、それらをきちんとまとめておきたいと思いました。下記です。

 先ず「第一章 わたしの原点」の”その時代に生きた国民の目で歴史を見直す”と題された文章の中に、

例えば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとのひと言でかたづけられることが多い。しかし、はたしてそうだろうか。

 たしかに軍部の独走は事実であり、もっとも大きな責任は時の指導者にある。だが、昭和1718年の新聞には「断固、戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化するなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。

 とあります。当時の新聞に「断固、戦うべし」と書かれていたから、”マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか”と受けとめることには、とても問題があると思います。

 なぜなら、そうした記事が書かれた当時、日本には学問の自由や思想の自由、集会、結社及び言論、出版その他の自由がなかったからです。戦争に反対することや疑問を投げかけることなど出来る世の中ではなかったと思います。

 なぜなら、昭和17年には、「大日本翼賛壮年団」が結成され、「大東亜戦争翼賛選挙貫徹運動基本要綱」が、閣議決定されているのですが、「運動の目標」として

大東亜戦争ノ完遂ヲ目標トシテ清新強力ナル翼賛議会ノ確立ヲ期スル為衆議院議員総選挙ノ施行セラルルニ際シ一大挙国的国民運動ヲ展開シ以テ重大時局ニ対処スベキ翼賛選挙ノ実現ヲ期セントス

と掲げられているのです。

 昭和18年には、中野正剛の「戦時宰相論」を掲載した朝日新聞が、”東条英機首相の怒りを買って発売禁止”になったといいます。政府や軍の意向に反する記事を掲載することは、簡単なことではなかったと思います。

 日本の産業構造も、「戦時行政特例法」や「戦時行政職権特例」によって、軍需生産を中心としたものなり、その指揮系統も内閣総理大臣のもとに一元化されて、あらゆる企業活動が戦争につながっていった当時の状況を踏まえて受け止める必要があると思います。

 また、昭和18年には、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定されていますが、その方針に

大東亜戦争ノ現段階ニ対処シ教育練成内容ノ一環トシテ学徒ノ戦時動員体制ヲ確立シ学徒ヲシテ有事即応ノ態勢タラシムルト共ニ之ガ勤労動員ヲ強化シテ学徒尽忠ノ至誠ヲ傾ケ其ノ総力ヲ戦力増強ニ結集セシメントス

と掲げられています。「断固、戦うべし」は明らかに国の方針であり、それに逆らうことは許されない状況にあったと思います。「断固、戦うべし」は、民意といえるようなものではなかったと思います。私は、安倍首相に”たしかに軍部の独走は事実であり、もっとも大きな責任は時の指導者にある。”という言葉の意味を、しっかり掘り下げて、具体的に記述してもらいたいと思います。

第二章 自立する国家」の中には”はたして国家は抑圧装置か”と題した下記のような文章があります。

 ”国家権力は抑圧装置であり、国民はそこから解き放たれなければ本当の自由を得たことにはならない、と国家と国民を対立した概念でとらえる人がいる。

 しかし、人は他人を無視し、自ら欲するまま、自由にふるまうことが可能だろうか。そこには、すべての要求が敵対し、からみあう無秩序──ジャングルの中の自由があるだけだ。そうしないために、近代社会は共同体のルール、すなわち法を決めた。放埒な自由でなく、責任のともなう自由を選んだのである。

 ルワンダ共和国では、1962年の独立前からフツ族とツチ族が対立し、独立後、フツ族が政権の座にあったときは、ツチ族にとっては国家は抑圧装置、いや虐殺装置でしかなかった。かつてのユダヤ人にとってのナチスドイツも、そして多くの共産主義国も、その国民にとっては抑圧装置だった。

 安全保障について考える、つまり日本を守るということは、とりもなおさず、その体制の基盤である自由と民主主義を守ることである。外国では少なくともそう考える。ところが日本では、安全保障をしっかりやろうという議論をすると、なぜか、それは軍国主義につながり、自由と民主主義を破壊するという倒錯した考えになるのである。

 しかし、少し考えればわかることだが、先にあげた独裁国家では、自由と民主主義が否定され、報道の自由が認められていない。存在するのは、一部の権力者が支配する閉ざされた政府だ。問題なのはその統治のかたちであって、国家というシステムではないのである。”

 この文章には、日本の政府や軍部が、戦時中、学問の自由や思想の自由、集会、結社及び言論、出版その他の自由などを認めていなかったことも、また、厳しい報道統制や検閲があったことも抜けています。当初、共産主義者や無政府主義者を対象にした治安維持法も、その後、戦争に異を唱える人や自由主義者、宗教家らに適用が拡大されました。そして、約7万人が送検され、拷問死させられた人約90人を含め、少なくとも400人が獄死したといわれています。

 戦時中の日本も、自由や民主主義を否定する軍部独裁の国であり、国家が国民の抑圧装置であったことは紛れもない事実であると思います。なぜ、ルワンダやナチスドイツや共産主義国の抑圧の恐ろしさを取り上げながら、日本の過去の事実には何も触れず、安全保障を語るのでしょうか。抑圧された側から、日本の過去をふり返って見ることをしないので、安倍首相には、日本の安全保障がかかえる危険性や国家が抑圧装置となる危険性が見えないのではないでしょうか。

 

 また、”「靖国批判」はいつからはじまったか”と題された文章の中には、

中国とのあいだで靖国が外交問題化したのは、85815日、中曽根首相の公式参拝がきっかけである。

 中曽根参拝の一週間前87日、朝日新聞がつぎのような記事を載せた。

「(靖国参拝を)中国は厳しい視線で凝視している」

 日本の世論がどちらのほうを向いているかについて、つねに関心をはらっている中国政府が、この報道に反応しないわけがなかった。参拝前日の814日、中国外務省のスポークスマンは、はじめて公式に、首相の靖国神社の参拝に反対の意思を表明した。「(首相の靖国神社参拝は)アジア諸国の人民の感情を傷つける」というわけである。「A級戦犯が合祀されているから」という話がでたのは、このときだ。

 「A級戦犯」といういい方自体、正確ではないが、じつは、かれらの御霊が靖国神社に合祀されたのは、それより7年も前の1978年、福田内閣のときなのである。その後、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘と、三代にわたって総理大臣が参拝しているのに、中国はクレームをつけることはなかった。

 1978年に結ばれた日中平和友好条約の一条と三条では、たがいに内政干渉はしないとうたっている。一国の指導者が、その国のために殉じた人びとにたいして、尊崇の念を表するのは、どこの国でもおこなう行為である。また、その国の伝統や文化にのっとった祈り方があるのも、ごく自然なことであろう。

とあります。

 でも、中国が問題視した1985815日の中曽根首相の参拝は、それ以前の参拝と異なり、日本政府を代表する総理大臣としてはじめての「公式」の参拝であり、閣僚とともに「玉串料」を公費から支出して参拝したからではないのでしょうか。朝日新聞が煽ったからだというような主張は、いかがなものかと思います。私的参拝ならいざ知らず、日本の首相が、「玉串料」を公費から支出して、公式に靖国神社に参拝することは、政教分離の点でも明らかに問題だと思います。「玉串」は神道の神事において参拝者や神職が神前に捧げるものだといいます。だから「玉串」を携えて参拝することは宗教的行為なのではないでしょうか。

 

 さらに言えば、”一国の指導者が、その国のために殉じた人びとにたいして、尊崇の念を表するのは、どこの国でもおこなう行為である”と言うのも、大事なことを無視していると思います。

 処刑されたA級戦犯を、”国のために殉じた”ととらえ、”尊崇の念を表する”ことは、日本の侵略戦争を肯定することにつながり、日本の侵略戦争の被害者や被害国には受け入れ難いであろうと思います。靖国に祀られているA級戦犯は、犯罪者として処刑されたのであって、”国のために殉じた”というとらえ方は、日本が受諾したポツダム宣言に反するのではないかと思います。ポツダム宣言の第六項には

吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

とあります。A級戦犯は、軍国主義者であり、侵略戦争によって世界の平和、安全および正義の秩序を乱し、日本国民を欺瞞した犯罪者であるということです。その「A級戦犯」が祀られている靖国神社に、日本政府の代表である総理大臣が、公式に参拝することは許されないと、私は思います。

 ヒトラーを国のために殉じた首相として、現在のドイツの首相や閣僚が、ヒトラーの墓やヒトラーを祀った施設に、花を携えて公式に参拝しても、何の問題もないというのでしょうか。被害者は、”その国の伝統や文化にのっとった”ものとして、それを受け入れなければならないというのでしょうか。

 

 


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