真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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北方領土問題 千島列島の範囲 NO2

2013年03月06日 | 国際・政治
 ヤルタ協定があったからであろうが、日本の千島列島放棄を盛り込んだサンフランシスコ平和条約(第1章 第2条(c)日本国は、千島 列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」) の締結を主導したのはアメリカである。
 そのアメリカが、米ソ冷戦が深刻化すると「日本が2島返還に応じて日ソ平和条約を締結するならば、沖縄返還はあり得ない」と日ソ関係改善に警戒心を強め圧力をかけた。したがって、そういうアメリカに追随する日本の北方領土返還の主張は、事実を曲げても「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島の中にも両島(国後島・択捉島)は含まれていないというのが、政府の見解であります」(<昭和31年>1956年2月11日森下政務次官国会答弁「政府の統一見解」)ということにならざるを得ない。

 日本のポツダム宣言受諾を受けて発せられた一般命令第1号で、アメリカは「千島諸島」にある日本軍の武装解除その他の降伏処理を「ソヴィエト」極東最高司令官に任せた。それが、一般命令第1号(ロ)『満州、北緯38度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東最高司令官ニ降伏スベシ』である。

 また、連合国軍最高司令官(SCAP)から日本政府宛てに出された 訓令( Supreme Command for Allied PowersInstruction Note 、スキャッピン)の第677号において日本の行政権の行使に関する範囲に言及し、その3で日本から除かれる地域として「(a)うつ陵島、竹島、済州島 (b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島、を含むその他の外郭太平洋全諸島(c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島」とし、千島列島のみならず、歯舞・色丹も日本から除かれる地域に入れた。

 にもかかわらず米ソ冷戦が深刻化するにつれて、アメリカはその方針を転換し、歯舞・色丹2島の返還による日ソ平和条約の締結を認めなかったのである。アメリカは、米ソ冷戦下における極東政策上、日ソの関係改善を恐れたのであろう、日本が2島返還に応じて日ソ平和条約を締結するならば、沖縄返還はあり得ない(いわゆる「ダレスの脅し」)、と圧力をかけたのである。

 以後、日本の外務省は、西村条約局長の講和条約締結に関わる国会答弁(昭和26年10月19日)「条約にある千島の範囲については北千島、南千島両方を含むと考えております。しかし歴史的に北千島と南千島はまったく立場が違う」を無視し、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島の中に国後島・択捉島は入らないという見解をとるようになった。それが、1956年2月11日の森下政務次官の国会答弁(政府統一見解)である。

 前述したように千島列島を放棄させたアメリカが、2島返還ではなく、4島返還でないと日ソ平和条約の締結を認めてくれないのである。だとすれば、日本としては北方領土返還を諦めるか、それとも「千島列島の中に(国後島・択捉島)は含まれていない」というしかない、ということであろう。

 ところが、「北方領土を考える」和田春樹著(岩波書店)「日本の国境問題ー尖閣・竹島・北方領土」孫崎享(ちくま新書)には、千島列島の範囲について、どう考えても、外務省の見解は事実に反するものである、と言わざるを得ない記述がある。下記はその抜粋である。

 まず、一般命令第一号に関するトルーマン発スターリン宛返信(1945年8月18日受信)に「一般指令NO1を、千島全てをソ連軍極東司令官に明け渡す領域に含むよう修正することに同意します」とある。

 また、ダレス自身が講和会議で「クリル諸島には1万1千人の日本人がおりました」と述べている。当時北千島には日本人はほとんどおらず、国後・択捉をクリル諸島に含めない限りありえない数字である。

 さらに、講和会議で、日本代表吉田茂は「千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議も挟まなかったのであります」とささやかな抵抗の演説をしている。国後・択捉は千島南部なのである。その千島南部の二島を含め、千島全島を放棄させたのがアメリカなのである。外務省は、そのことを正面から取り上げようとしないで、「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません」という。

 戦後の日本は、米ソが関わる北方領土不法占拠の経緯をきちんと明らかにしないで、日本に強大な軍事基地を持つアメリカとの同盟関係を強め、その極東政策に全面的に従っている。そして、北方領土について、ロシアの不法占拠の側面だけを追及している。でも、それでは北方四島の返還は遠いと考えざるを得ない。

「北方領土を考える」和田春樹著(岩波書店)---------------
三 
講和会議は1951年9月4日サンフランシスコのオペラハウスで開会された。
9月5日ダレスは条約を説明し、領土問題について、次のように述べた。

 「第2章第2条に包含されている放棄は、厳格に且つ慎重にその降伏条項を確認しています。第2条(c)に記載された千島列島という地理的名称が歯舞諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります。しかしながら、もしこの点について紛争があれば第22条に基づいて国際司法裁判所に付託することができます。

 たしかに、ソ連代表が予想に反して、この会議に出席している限りにおいては、その調印の可能性も抽象的には存在した。そうなれば、ソ連の同意をえて、国際司法裁判所に付託はできる。しかし、ソ連が調印しないことは明らかに予想されたので、この部分は条文の不備をカムフラージュする煙幕であったとしか言いようがない。ただし、ここでダレスが明瞭に千島列島の範囲問題が歯舞諸島問題だということを明確にしたことは重要な点である。


 さらに、演説の後段で、彼は、「ポツダム降伏条項に従って日本の領土を制限する講和」によって、8000万を越える日本人は本土だけで暮らして行かなければならなくなるが、それは十分可能だと述べた。「日本国民が自由に移民できる広大な植民地帝国を有していたときにも移民したものは殆どいなかったという事実」が根拠となる。ダレスは、例証として、台湾は35万人、朝鮮は65万人、を吸収したと数字を挙げ、さらに「南サハリンには35万人の日本人、クリル諸島には1万1千人の日本人がおりました」と述べた。

 この議論は8月6日付けのワイリー上院議員あての手紙の後段ですでに開陳されていたものであった。そこでは「サハリンは39万8000人、クリルは1万1500人という人口がダレスがいう「クリル諸島」の範囲をはっきりと示している。昭和9年北海道庁刊の「千島概況」によると、前年昭和8年10月1日現在の千島列島の人口は1万4524人であり、その内訳は、国後島7041人、択捉島5842人、色丹島953人、得撫島19人、新知島31人、占守島638人であった。得撫島にはじまる北千島18島にはほとんど定住民はいなかったのであり、千島列島の人口はほぼ南千島に集中していたのである。外務省が毎年出しているパンフレット『われらの北方領土』に掲げられている昭和20年8月15日現在の数字によると、択捉島3415人、国後島7259人、色丹島1028人、歯舞諸島5043人である。択捉島、国後島合わせて1万674人、これに色丹島を加えると、1万1702人、このいずれかがダレスの挙げたクリル諸島の人口であろう。歯舞諸島は完全にクリル諸島の範囲外に置かれており、ダレス演説は首尾一貫しているのである。

 ・・・

 以上の米英ソ代表の演説に比べると、日本代表吉田茂の演説が千島問題にもっとも詳しく触れたのは当然であった。吉田は日本語で演説し、通訳された。その通訳された英文が公式記録に載ったのである。ここでは日本語の原文で見る。吉田が冒頭次のように述べたのはあまりにも有名だが、先に引用したダレスの自画自賛と比較するために引用しておこう。

「ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課することもなく日本に完全な主権と平等とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会へ迎えるものであります。復讐の条約ではなく、『和解と信頼』の文書であります。日本全権はこの公正寛大なる平和条約を欣然受諾いたします。」

このように述べた吉田が、ただ一点不満と抗議を述べたのが、いわゆる「北方領土発言」であった。その部分を全文引いてみよう。

 「千島列島及び樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張は承服いたしかねます。
 日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議も挟まなかったのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混在の地でありました。1875年5月7日、日露両国政府は平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話し合いをつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥協を計ったのであります。その後樺太南部は、1905年9月5日ルーズヴェルト・アメリカ合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で日本領となったのであります。
 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月21日一方的にソ連に収容されたのであります。
 日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。」


 この吉田発言はソ連代表の発言に触発され、反駁するためになされたものとは考えられない。なぜならグロムイコは千島列島が侵略によって奪取されたものだなどとはまったく述べなかったからである。吉田の意図はソ連代表への反論という形で南樺太と千島列島の放棄に関する条約の規定に抗議を行うところにあった。南樺太さえ条約で平和的に日本領となったと考える立場からして、吉田は、この地域はカイロ宣言にいう「暴力と貪欲」によって「略取」した地域ではない、これを放棄させられるのは大西洋憲章の「領土不拡大の原則」に反していると言いたいのである。しかし、アメリカを批判することはできない。だからソ連の方向いて歴史的経過を述べてみせたというわけである。

「日本の国境問題ー尖閣・竹島・北方領土」孫崎享(ちくま新書)-------
第3章 北方領土と米ロの思惑ー大国の意図に躍る日本

1 ソ連参戦

 参戦の見返りは樺太と千島

 ヤルタ協定は日本を拘束するものではない。しかし、米ソを拘束する。米国は日本の抵抗を減じ、米軍の被害を少なくすることを望んだ。
 21世紀の今日、米国は長崎・広島への原爆投下の理由を、「米軍の被害を出さないためだった」としている。第2次大戦終結間際の米国は、同様にソ連が参戦し関東軍が日本に帰れなくしておくことを強く望んだのだった。そして、ソ連が参戦する見返りに、樺太(南半分)と千島列島という餌を与えたのである。


 このルーズベルトの約束は、次の大統領トルーマンに引き継がれた。
 連合軍一般指令作成過程での受け持ち地域に関するトルーマンとスターリンのやりとりは興味ある史実を含んでいる(『日露(ソ連)基本文書・資料集』RPプリンチング)

スターリン発トルーマン宛親展密書(1945年8月16日)
「一般指令第1号が入った貴信受領しました。次のように修正することを提案します。
1:日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島全島を含めること
2:北海道の北半分を含めること。境界線は釧路から留萌までを通る線とする」

トルーマン発スターリン宛通信(1945年8月18日受信)
「一般指令NO1を、千島全てをソ連軍極東司令官に明け渡す領域に含むよう修正することに同意します。
 北海道の日本軍のソ連への降伏についてのあなたの提案に関しては、日本固有の全島(北海道、本州、四国、九州)の日本軍はマッカーサー将軍に降伏するのが私の意図である」


 こうした経緯を踏まえ、終戦当時、米国側は千島列島がソ連の領有になることについて何の疑いも持っていない。対日占領軍総司令部顧問のシーボルトは『日本占領外交の回想』(朝日新聞社)の中で『千島列島の処分は勿論カイロ、ヤルタ両会談で決められていた』と記している。

 のちに見るように、米国は日ソ間が接近するのを警戒し、日本が国後・択捉を主張するように誘導していく。しかし、米国はソ連・ロシアに対して「ソ連が国後・択捉を領有することはけしからん」と真剣に抗議をしたことがあるか。
 冷戦時代、ソ連は米国の敵である。しかし、同時に、米国はソ連と戦略核兵器等で合意せざるをえない。この中で、米国はソ連に対して「約束を反故にする国」という位置付けにはできない。ルーズベルトがスターリンに約束したこと、ヤルタ協定、これらは効力がないと直接ソ連に言っているか。言えるはずがない。米ソの間ではルーズベルトがスターリンに約束したこと、ヤルタ協定は厳然と生きている。米ソ間でヤルタ協定が生きていれば、「日本の領域は今後決定されることのある周辺諸小島に限定される」中に、国後択捉が含まれることはない。


サンフランシスコ平和条約での扱い

 サンフランシスコ平和条約(1951年9月8日署名)において、「第2章(c)日本国は千島列島に対する全ての権利・請求権を放棄する」とした。その直前9月7日吉田首相は「千島南部の択捉、国後両島が日本領であることについて帝政ロシアも何等の異議を挟まなかったのであります」と述べている。
 この吉田首相の演説は2つの意味で重要である。
 一つは「千島南部の択捉、国後両島が日本領である」という「択捉、国後固有の領土論は国際的支持を得られず、日本は千島列島全体の放棄を受諾せざるを得なかったことである。今一つは択捉、国後を千島南部と位置付け、放棄した千島に入れていることである。


 昭和26年10月19日、西村条約局長は国会答弁において、「条約にある千島の範囲については北千島、南千島両方を含むと考えております。しかし歴史的に北千島と南千島はまったく立場が違う」と答えている。
 さらに昭和26年10月26日衆議院本会議において(サンフランシスコ)平和条約の承認を求める際、日米安全保障条約特別委員長の田中萬逸氏は「遺憾ながら条約第2条によって明らかに千島、樺太の主権を放棄した以上、これらに対しては何らの権限もなくなるわけであって、国際司法裁判所に提起する道は存しておらない。また、クリル・アイランドの範囲は、いわゆる北千島、南千島を含むものである」と説明している。

 この流れを受けて、昭和34年2月25日最高裁判所第2小法廷は「出入国管理令違反被告事件」において次のような判決を出している。
昭和27年4月28日発効の日本国との平和条約第2条(C)は、”日本国は千島列島……に対するすべての権利及び権原を放棄する”旨規定しているのであって、同日の外務省令12号で千島列島に関する規定が削除されたのも右条約の趣旨に基づくものであるから、同日以降、千島列島に属する国後島は、出入国管理令の適用上においては、同令2条1号にいう本邦には属しないこととなったものと解するを相当とする」


 国際的に見ても、日本側照会に対してフランス政府は、サンフランシスコ講和条約の千島の扱いについて「サンフランシスコ会議議事録は千島の範囲に関し言及している。
 特に日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起すると述べている。(松本俊一『モスクワにかける虹──日ソ国交回復秘録』朝日新聞社)。
 こうして日本は、サンフランシスコ平和条約においても、択捉、国後を主張しうる立場にない。

大国に利用される北方領土問題

 しかし、ここに仕掛けが潜んでいる。米英は北方領土問題を残すことによって日ソ関係の進展を阻もうとしている。丹波実元駐ロシア大使は『日露外交秘話』(中央公論新社)で、次の記載をしている。「『51年対日平和条約において日本に千島列島を放棄させるが、この放棄させる千島列島の範囲を曖昧にしておけば、この範囲をめぐって日本とソ連は永遠に争うことになろう』という趣旨の(在京英国大使館発)英国本国宛ての極秘意見具申電報がある」


 米国自身にも同様の考えがあった。
 ジョージ・ケナンと言えば、20世紀の世界の外交官の中で最も著名な人物であろう。ソ連封じ込め政策の構築者でもあるケナンは、国務省政策企画部を拠点に冷戦後の米国政策形成の中心的役割を果たした。そのケナンの立場を前提として、アリゾナ大学教授マイケル・シャラーの記述『「日米関係」とは何だったのか』(草思社)を見ていただきたい。

 「千島列島に対するされんの主張に異議を唱えることによって、米国政府は日本とソ連の対立をかきたてようとした。実際すでに1947年にケナンとそのスタッフは領土問題を呼び起こすことの利点について論議している。うまくいけば、北方領土についての争いが何年間も日ソ関係を険悪なものにするかもしれないと彼等は考えた」

シャラーはこれを裏付けるものとして1947年9月4日の国務省政策企画部会合記録を脚注で指摘している。


  http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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