真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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『陸軍80年』憲兵隊司令官・大谷敬二郎 南京の記述

2015年11月02日 | 国際・政治

 『陸軍80年』(図書出版社)の著者・大谷敬二郎氏は、「第11章、日中戦争」のなかで、南京大虐殺に関して、

そこでは30万ないし50万の中国人が虐殺されたといわれた。だが、それは、戦犯裁判対策上の著しい虚構と思われる。昭和12年12月10日前後の時点において、南京の全人口30万、ここの防衛軍5万ないし10万、合計35万ないし40万人と推定されるのに、50万虐殺といえば、おつりがくるし、30万虐殺といえばそのほとんどが殺されたことになる。あまりにも誇大なる告発であった

と書いている(資料2)。この昭和12年12月10日前後の時点において、「南京の全人口30万」は何を根拠にした数字なのかはわからない。ただ、南京大虐殺を否定する人たちが、こうした言い方をすることが多いので、「南京の全人口30万」という数字の根拠を知りたいと思う。
 
  南京大虐殺を否定する人のなかには、「ラーベの日記」の「在上海ドイツ総領事館宛」電報に関する記述(1937年11月25日)の中に

党支部長ラーマン殿。つぎの電報をどうか転送してくださるようお願いします。
 総統閣下
 末尾に署名しております私ことナチ党南京支部員、当地の国際委員会代表は、総統閣下に対し、非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、衷心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万以上の生命が危機にさらされることになります。
     ナチス式敬礼をもって。             ジーメンス・南京、ラーベ

とあることなどを根拠に、「南京の当時の人口が20万であるのに、30万の虐殺などあり得ない」などと、主張している人さえいる。しかし、この「20万」という数字は、明らかに難民区で保護しよとする中国人非戦闘員の、それも11月25日時点の概数で、南京の人口ではない。
 また、日本軍は難民区から多くの中国兵と思われる人たちや疑わしい市民を引っ張り出し虐殺したが、それはごく一部で、虐殺された中国人の大部分が、武器を捨て敗走する中国兵や一緒に逃げる一般市民であり、また、日本軍が南京攻略にいたる過程で捕らえた敗残兵や投降兵であることを忘れてはならないと思う。南京大虐殺に関する研究でよく知られた洞富雄氏によれば、当時南京周辺で南京防衛に当たっていた中国の南京防衛軍はおよそ15万に達するという。

 さらに、南京特別市は南京城区(市部)と広大な近郊区(県部)からなっており、南京城区だけで虐殺の問題を論じることはできないということも踏まえなければならない。
 1937年11月23日に、南京市政府(馬超俊市長)は、国民政府軍事委員会後方勤務部に、現在南京城区の人口は50余万と報告しているという。
 したがって、洞氏は、流動的ではあったが、南京攻略戦が開始されたとき、南京城区にいた市民、難民はおよそ40万から50万、それに中国軍の兵(戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫など含め)15万を加えてカウントすべきだという。広大な近郊区(県部)を除外しても、55万から65万の数になるのである。
 したがって、きわめて流動的であった当時の南京の人口の根拠を示すことなく、「南京の当時の人口が20万であるのに、30万の虐殺などあり得ない」などと言って大虐殺を否定する議論は、南京で何があったのかという事実に正しく向き合おうとしない議論であると思う。

 当時の南京の人口をもとに南京大虐殺を否定する人たちの中には、大谷敬二郎氏の記述をヒントにした人もいるのではないかと思われるが、かつて憲兵隊司令官であった大谷敬二郎氏は、同書の「あとがき」(下記資料1)に、戦時中の日本軍について、”すでにこの国の国民と断絶していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい”と書いていることも見逃してはならないと思う。こうした日本軍の実態を語る関係者の記述こそ、忘れることなく受け継ぐべきだと思う。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                       あとがき


 …日中戦争といえば、そのさなかの昭和14年頃 私は要務のために中国に旅行したことがある。その帰途は上海から長崎への船によって長崎に着いたが、ここでは、埠頭から長崎駅まで還送される傷病兵士を迎えいたわる婦人たちの姿を身近にみた。そしてこの国民の帰還傷病兵士への、心からなる手厚い歓待とその心遣いにに、ふかく感動したことがある。

 しかし、この敗戦の場における国民は、戦い疲れて帰還した兵士たちには、意外に冷たくきびしく、あたかも異国の人に接するように疎外していた。もちろん、敗戦の傷跡はこの国民にも大きく、かつ深かった。人々はその日暮らしにも難渋していたし、その上進駐軍の目は光っており、MPはどこにもMいた。こうした国内ではあったが、それにしても、これら復員兵士たちのみじめさと、国民の之を迎える、温かい心のカケラさえ見ることができなかったのには、わたしは、心の随に徹するほどかなしい思いであったことを、今にしてなお忘れられないのである。敗れたとはいえ、よく戦いよく困難に堪え、いく度かの死線を乗り越えて、やっと夢に見た祖国にたどりついた戦士、これをこのように扱う故国、いやそのような国民が、世界のどこにあったであろうかと。

 そして、わたしはいま、30年後の今日、ひとり首をかしげる。なぜに国民は復員軍人に、かくまでつめたかったのかと。そのわけは山ほどあろう。だがこれを端的にいえば、軍が横暴をはたらき、政治を独占し、こんなムチャな戦争をして、国民を悲惨のどん底におとしいれ、この国をこんなに荒廃せしめたからだ、と人々は言うだろう。だが、それは戦った軍人軍隊のの罪だけではないと思う。いわゆる軍閥とけなされる軍指導者の一群のいたすところが大であろう。

 しかしわたしはなお考える。この国民から冷遇をうけた、かつての帝国軍人、いや、そこでの軍隊にも大きな責任がある。その軍隊はすでにこの国の国民と断絶していたのだ。いわば、それは「国民の軍隊」ではなかったのだと言いたい。もし、これが国民と軍隊との間に血の通った、真の「国民の軍隊」であるならば、たとえ、敗れたりとはいえ、あたたかく迎えられその労はねぎらわれるはずだ。いかにそこに進駐軍の目が光っていたとしても、また、苦しい生活にあえいでいた国民であったとしても。
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 また、大谷敬二郎氏は同書の”南京「大虐殺」”(資料2)のなかで、下記のように書いていることも忘れてはならないと思う。
 ”昭和13年1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局長阿南少将が中島中将に会ったとき、「支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ」とたいへんな気炎をあげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう。
 中島中将は、南京攻略戦に参加した第十六師団の師団長であり、日記に
一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ
と書いている軍人である。〔437 捕虜(俘虜)「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」 日本軍 NO1参照〕


資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                             南京大虐殺
南京「大虐殺」
 さて、これらの戦績はいつも日本軍の勝利に帰し、そこでの日本軍は常に中国軍一師団に対しわずかに一個大隊といった兵力比の戦いであった。もちろん、中国軍は、中央軍、地方軍、雑軍といった軍隊で、その精強さにおいては雑多なるものがあり、概して日本軍に比べて劣弱であったといえよう。ことに、その地方軍などは、兵力温存の立場から、いちはやく退却するという具合で、この中国戦場では殲滅線といったものはなかった。
 したがって、ここでの戦場では、日本軍はよく戦い、つねに城頭高く日の丸をあげるいわゆる「一番のり」を競ったが、すでに、そのときは、有力軍は遁走したあとということになる。たとえ、日本軍が完全に包囲したとしても、そこには必ず隙間がある。この隙間を縫って中国軍は遁走する。しかもその退却にしても大部隊が隊伍もって退却するのではなく、例えば蜘蛛の子を散らすように四方八方に散って後退し、のち安全な場所でふたたび集結して陣容を建て直すといった退却戦法であるから、日本軍はとうてい、敵の大軍を捕捉殲滅をすることはあ不可能であった。ここから、占領後の市街粛清が絶対必要となり、入市に先だって市内の掃討作戦が行なわれた。 

 かの南京における大虐殺は、今日におよんでも、日本の非道残虐が告発されているが、たしかに、そこでは、玉石混交、一般市民に対する殺害が行われたが、一城を占領したあとは、中国戦場では大なり小なり、こうした無辜の住民がそばづえをくって戦禍をうけたのも、一般的には、こうした事情によるものと思われる。
 だが、それにしても、南京における事態は、”皇軍”の出師をいちじるしく傷つけたもので、わが対外戦史の一大汚点であろう。

 南京大虐殺は、それは戦後の東京裁判で暴露されすべての国民を驚かしたが、そこでは30万ないし50万の中国人が虐殺されたといわれた。だが、それは、戦犯裁判対策上の著しい虚構と思われる。昭和12年12月10日前後の時点において、南京の全人口30万、ここの防衛軍5万ないし10万、合計35万ないし40万人と推定されるのに、50万虐殺といえば、おつりがくるし、30万虐殺といえばそのほとんどが殺されたことになる。あまりにも誇大なる告発であった。だが、事実、そこではいく多の不幸な事態があった。東京裁判に証人として出廷した南京大学教授べーツ博士はこう証言している。
 「城内だけでも、1万2千におよぶ中国非戦闘員が虐殺され、ある中国軍の一群は城外で武装解除去れ、揚子江のほとりで射殺された。われわれはこの死体を埋葬したが、その数は3万人をこえていた。そのほか揚子江に投げこまれた死体は数えきれない。
 南京大学の構内にいた3万人の避難民のうち数百人の婦人は暴行された。占領後一ヶ月間に2万人におよぶ、こうした事件が国際委員会に報告された」
 ここで、とくに問題とされたのは、右にある中国兵捕虜の虐殺である。日本軍に捕らえられた捕虜1万5千(実数は7、8千といわれている)が、日本軍の機関銃によってメッタ撃ちされ、ために揚子江はまっ赤に染められたというのである。

 最近南京大虐殺といわれたこの日本軍の蛮行について、克明な実証をとげられた、評論家鈴木明氏の数々の労作、「南京、昭和12年12月」「まぽろしの南京大虐殺」などによって、それが伝えられるような残忍酷薄な意図的なものではなく、右の揚子江河畔の虐殺もまったく偶発的な要素が重なったものであり、その被害者も「大虐殺」といわれるにはあまりにもその数は少なかったが、後に政治的な意味できわめて拡大されたことが立証されている。だが、こうした事態の究明によってもここでの日本軍の暴虐が免罪されるものではない。南京入城式が松井司令官統裁の下に行われたのは、12月17日、その前後、市内の掃蕩、粛清間に行われた殺害、掠奪、婦女強姦の数々は、おびただしいものがあった。戦後、南京事件法廷で当時の第六師団長・谷寿夫中将は、このためにさばかれ、雨花台で銃殺され、その屍体は群衆にはずかしめられたが、占領後の南京警備司令官は第十六師団中島今朝吾中将であったのだ。

 中島は2・26事件後の憲兵司令官を勤めた人、さきに書いた宇垣組閣阻止に動いた張本人、そのあと第十六師団長となった。憲兵司令官当時、しばしば常軌を逸することがあり、部下たちを困らせていた。いささか異常性格と思わせる節がないでもなかった。この師団長が南京市の警備責任者であったのだ。昭和13年1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局長阿南少将が中島中将に会ったとき、「支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ」とたいへんな気炎をああげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう。現に彼は、のち満州の第四軍司令官当時、蒋介石の私財を持ち出し師団偕行社に送っていたことがばれて予備役に編入されている。

 当時、東京にはこの師団の非道さは、かなり伝えられていた。こんな話がある。松井兵団に配属された野戦憲兵長は、宮崎憲兵少佐であったが、あまりの軍隊の暴虐にいかり、現行犯を発見せば、将校といえども直ちに逮捕し、いささかも仮借するな、と厳命した。ために、強姦や掠奪の現行犯で、将校にして手錠をかけられ憲兵隊に連行されるといった状況がつづいた。だが、これに対し、つよく抗議したのが中島中将であった。このかんの事情がどうであったか、くわしくは覚えないが、当の宮崎少佐は、まもなく内地憲兵隊に転任される羽目となった。これでは、戦場における軍の紀律はたもてない。高級指揮官が、掠奪など占領軍の当然の権利のように考えていたからだ。すでに、軍はその質を失っていた。

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