真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

明治新政権による「仏教抹殺」NO2

2020年06月10日 | 国際・政治

 下記に抜萃した文章(「仏教抹殺」)で分かるように、歴代天皇の尊牌を祀ってきた天台宗般舟院(ハンジュウイン)が、明治新政権の神仏分離政策によって消滅しています。
 また、明治時代に入るまで天皇の葬儀・火葬・埋葬を執り行ってきた泉涌寺(センニュウジ)も、苦境に陥り、現在もなお、秋篠宮文仁親王を総裁とする「御寺泉涌寺を護る会」が、その存続につとめているといいます。

 したがって、建国神話に基き、天皇を「現人神」とした皇国日本における「神仏分離政策」が、深刻な矛盾を抱えたものであったことがわかります。
 それは、明治天皇が崩御される前に語ったといわれる、「朕は一生に於いて心残りのことは、即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかったことである」にもあらわれていると思います。

 もともと、明治維新を成し遂げた薩長を中心とする尊王攘夷急進派の「尊王」が、幕府を倒すための単なる方便であった思われる事実がいろいろありました。

 その一つに、幕末、薩長両藩に下された「討幕の密勅」があります。この「討幕の密勅」は、「偽勅」であるといわれていますが、討幕の方針で手を結んだのは、「関ヶ原の合戦」で敗戦した藩が中心であったといいます。また、ながく反幕府の精神を持ち続けたといわれる長州藩が、「討幕の密勅」が下るまえにも、くりかえし幕府と衝突していた事実も忘れてはならないと思います。
 でも孝明天皇は、いやがる妹和宮を説伏せ、江戸降嫁を求める幕府からの申し入れを受け入れて、和宮を徳川家茂(14代将軍)に嫁がせた関係で、一貫して公武合体を主張し、長州をはじめとする尊王攘夷急進派が主張するような過激な討幕運動には反対だったといいます。
 ところが、「討幕の密勅」の文章には、”賊臣慶喜を殄戮(テンリク)…”とあるのです。「殄戮」というのは、「殺し尽くす」というような意味ですが、孝明天皇の死後、満14歳で践祚した明治天皇が、父、孝明天皇の思いに反し、徳川慶喜を”賊臣”と呼び、”殄戮”を命じる理由があったとは思えません。

 朝廷と幕府の間に深刻な対立があり、幼い明治天皇が常々父親の孝明天皇から、それを聞かされて育ったというのなら話はわかりますが、孝明天皇は幕府の要請を受けて妹の和宮を降嫁させ、その後も和宮を気遣っていたといいます。攘夷を望みつつも、公武合体の立場をとっていたのです。だから、後に明治天皇となる息子に、徳川慶喜を賊臣と呼ぶような教育をしているはずはないと思います。
 したがって、薩長両藩に下された 「討幕の密勅」はありえず、「偽勅」であり、天皇の意に反するものであったと思います。

 さらに言えば、「天皇家の歴史(下)」ねずまさし(三一書房)には、孝明天皇の死後”ただちに毒殺の世評おこる”と題して
このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。
 とあります。そして、
典医の報告でも毒殺を暗示する
 として、毒殺が疑われる事実をいくつかあげ、”天皇は討幕派の闘争の血祭りにあげられたといってよい”と結論していることも見逃せません。

 孝明天皇が生きていては倒幕が不可能なので、薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、天皇を毒殺し、「偽勅」を発し、政権奪取を図ったと思うのです。考えられるのです。


 だから、明治維新を成し遂げた尊王攘夷急進派の「尊王」は、政権奪取の単なる方便であり、前述したような皇室に容赦のない神仏分離政策も、既存の敵対勢力を骨抜きにし、天皇を絶対不可侵の存在とすることによって、自らの政権を盤石なものにしようと意図した面があるのだと思います。
 明治維新は尊王攘夷急進派という破壊的カルト集団によって成し遂げられた、と私が思う理由はそこにあります。

 神仏分離は、1868(慶応四)年三月の太政官布告に始まりますが、「仏教抹殺」(文藝春秋)の著者、鵜飼秀徳氏が指摘するように、それをきっかけとする破壊的な廃仏毀釈によって、多くのものが失われ、きちんと調べられもせず放置されているという事実を忘れてはならないと思います。

 下記は、同書から「第六章 伊勢神宮と仏教の関係」「天皇行幸から大混乱に」の一部と、「天皇として初めて参拝」、「第八章 破壊された古都──奈良、京都」の「天皇の葬儀は仏式だった」と「消滅した天皇家の菩提寺」を抜粋しました。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                第六章 伊勢神宮と仏教の関係

 天皇行幸から大混乱に
 伊勢の廃仏は、他の地域の廃仏とは大きく異なっている。その特徴は、1869(明治二)年に実施された明治天皇の伊勢神宮参拝に端を発し、スピーディーに、連鎖的に実行されいった点にある。
 そもそも伊勢の神域では仏教忌避色が強かったが、その一方で、神仏習合の側面も持っていた。だが、国策としての神仏分離が始まると、日本を代表する”神域”でもあるこの地に仏教寺院が存在するのはまずいとされ、地元の行政府である渡会府(ワタライフ)が「天皇行幸の目障りになるから寺を壊せ」と命じたのだ。
 そこから、伊勢の仏教界の大混乱が始まる。京都の本山を通じてロビイ活動をして、お取り潰しを回避した寺院もあったが、多くの寺院が壊された。廃絶になった寺の中には、伊勢の神宮ゆかりの巨大寺院も含まれていた。
 ・・・
 
 天皇として初めて参拝
 明治新政府による神仏分離の通達を受け、神道の頂点に君臨する神宮のお膝元である伊勢の地でも、渡会府によって神仏分離政策が推し進められることになる。
 その廃仏毀釈が本格化するきっかけは明治天皇の神宮行幸であった。
 実は、明治天皇は歴代で初めて伊勢の神宮に参拝した天皇であった。天皇自身が神宮に足を向けてこなかった理由は、諸説ある。
 ひとつの説が八咫鏡(ヤタノカガミ)にまつわるエピソードだ。第十代崇神天皇の時代に疫病が大流行する。それを神鏡の祟りと恐れた崇神天皇は、それまで宮中で祀っていた八咫鏡を外へ出すことを決めたという。大和や伊賀、近江、美濃など諸国を転々とした後、最終的には第十一代垂仁天皇の時代に伊勢・内宮の地に落ち着いた。そこに社を建てて祀ったのが伊勢神宮の始まりである。八咫鏡は本体が神宮に、形代(カタシロ)が皇居に鎮座する。したがって、崇神天皇以降、八咫鏡は畏れ多き存在として天皇が近寄ることはしなかったというのが、天皇が神宮を参拝しなかったひとつの説である。
 明治天皇の神宮への行幸。それは明治の新時代を迎えるにあたって、極めて象徴的な出来事であった。伊勢市に通称・御幸通り(ミユキドウリ)と呼ばれる道路がある。現在、御幸通りは外宮と内宮を結ぶ神宮参拝の基幹道路となっているが、明治天皇の行幸の際に使用されたことでそう呼ばれるようになった。行幸に伴い、渡会府より次のような御触れが出された。

 今般 行幸 御参拝被遊候ニ付
 神領中ニ山道ニ有之候仏閣仏像等 尽(コトゴトク)取払可申、尚向後宇治山田町家ニおゐて、仏書仏具等商売致候儀不相成候 此段郡市末々迄不洩(モラサヌ)様相達候事
    ニ月                                     渡会府

   

 明治天皇の行幸は1869(明治二)年三月七日に京都御所を出立、十一日に伊勢に到着し、十三日に伊勢から京都に戻る予定で計画された。それに先立ち、渡会府の知事橋本實梁が、伊勢の神域(宮川から神宮までの領域で「川内」という)に存在する寺院の撤去、仏教に関する商売の中止命令を通達したのである。
 この通達により、伊勢の廃仏毀釈の幕が上がる。
 その内容は次の通りである。川内の神域において、一切の仏式の葬式を廃止し、神葬祭にすること。また、住職にたいしては檀家総代と連署して「廃寺願書」を出し、復正(フクショウ・還俗)するよう迫った。
 御幸通りから見える寺院については、特に強い圧力がかかった。にわかに始まった廃仏毀釈の動きに、地元仏教界は大いに戸惑った。が一方で、有力な神社に取り立ててもらえる好機とみる僧侶も少なからずいた、とする向きもある。
 京都にある浄土宗総本山知恩院の日記『知恩院日鑑』慶応四年閏四月二十日には、当時の伊勢の浄土宗寺院からの懇願が、つぎのように記されている。
 「このたび明治維新になったので、神領内の寺院について、特に伊勢神宮近辺の参宮道の道筋にあたる十八の寺院は取り潰すよう御勅使が知恩院に出向して、連絡するようにとのことであるので、何分とも取り潰しにならぬよう配慮してほしい」
 つまり、伊勢の末寺が本山知恩院に対し、「お取り潰しにならないように、本山の方から当局に働きかけてほしい」とのニュアンスである。  
 京都の本山から渡会府当局への懇願により、板塀や陣幕で境内を目隠しし、御幸通りから見えなくする策を講じ、廃寺を免れた一部の寺院もあったという。1868(明治元)年十一月から翌1869(明治ニ)年三月までのわずか四ヶ月間で、伊勢の196カ寺が廃寺となった。これは宇治山田に存在した寺院のうち四分の三が整理されたことになるという。
 内宮の参拝時に見つけやすい廃寺が、おはらい町にある旧慶光院であろう。普段は門が固く閉ざされているが、参道からかつての寺院建築の様式を確認することができる。慶光院は、もとは尼寺で、住職は神宮の勧進職を務めた時期があったという。しかし、1869(明治二)年に入って、廃寺処分となり、その後は神宮司庁の所有となり、元の伽藍に唐破風を建て増しし、現在は神宮の祭主職舎になっている。
 現在、旧慶光院前には往時を知るための看板などは何もない。普段は内部にはいることはできないが、毎年秋には一般公開している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               第八章 破壊された古都──奈良、京都

 天皇の葬儀は仏式だった
 最後に、京都の廃仏毀釈が天皇家にも及ぼした事例を紹介しよう。
 実は、神道そのもののシンボルとなった天皇家もまた、神仏分離政策に翻弄された存在だった。それもそのはず、天皇家自体が非常に熱心な仏教徒であったからだ。いまより遡れば六世紀、外来宗教の仏教に帰依し、国家仏教の枠組みを導入したのは、用明天皇や推古天皇、用明天皇の皇太子である聖徳太子であったことは多くの日本人が知る史実だろう。
 その流れを受け、天皇家と寺院とは切っても切れぬ関係にある。千年の古都であった京都において総本山・大本山と呼ばれる寺院は、何かしら皇室にゆかりのある寺院であったりする。出家した皇族が住職をつとめてきた門跡寺院だけでも、青蓮院、仁和寺、大覚寺、聖護院、曼殊院など三十カ寺に及ぶ。その門跡寺院の一部は、神仏分離をきっかけに大きく衰退していくことになる。
 皇室ゆかりの寺の最たる存在が、東山に位置する真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺だ。泉涌寺では、多くの天皇の墓や位牌が祀られており、天皇家の菩提寺と位置づけられる。
 1242(仁治三)年、四条天皇が十二歳の若さで崩御する。その際、泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは「皇室の御寺(ミテラ)」と呼ばれるようになった。さらに、南北朝時代の1374(応安七)年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬されたのを皮切りに以降、九代続けて天皇の火葬所となった。江戸時代の歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている。
 泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経される。各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝がおこなわれるという。
 天皇陵といえば、仁徳天皇陵をはじめとする巨大墳墓というイメージが強い。しかし、泉涌寺における天皇陵は実に質素である。天皇の墓は九重の石塔の意匠が特徴の典型的な仏式墓であり、月輪陵(光格天皇以降は別区画の後月輪陵)に二十五陵と五灰塚、九墓(親王らの墓)が祀られている。江戸時代最期の孝明天皇・皇后については、尊王攘夷運動の最中に造築されたために、月輪陵に他の天皇と一緒に祀られることなく、泉涌寺境内に墳丘型陵墓として特別に祀られている。それでも、泉涌寺の天皇陵はすべて合わせてもおよそ千六百坪ほどであり、さほど広いイメージはない。
 天皇の弔いは、長年、火葬であった。厳密に言えば、中世以降の天皇は、仏式の火葬と神道の建前である土葬が混在する形で弔われていた。第百八代の後水尾天皇以降は表向きには火葬、実質は土葬という不思議な形態をとっていた。正式に土葬になるのは、明治天皇の父孝明天皇からである。しかし、孝明天皇の葬式は神仏分離令より前であったために、仏式で行われた。


 
 消滅した天皇家の菩提寺
 こうした史実から見ても、天皇家は明らかに仏教徒であった。ところが、神仏分離政策の波は天皇にも押し寄せてきたのである。
 まず、宮中から仏教色が排された。御所にあった御黒戸(仏間)が潰されて、そこに納められていた仏像や尊牌、真影が泉涌寺に集約されることになったのだ。その上で泉涌寺には、「尊牌・尊像奉護料」として年千二百円を下賜されることになった。
 さらに、泉涌寺における天皇陵の墓域がすべて上知され、官有地とされた。それまで天皇、皇后の葬儀は泉涌寺が一切を執り行ってきたが、その習慣は明治天皇以降、消滅したのである。
 泉涌寺は天皇家の菩提寺であったため、檀家はいない。そのため、陵墓域の上知後、とりわけ戦後、憲法二十条で政教分離の原則が規定されると、国費が投入できなくなった。そのため、天皇の私費に加え、真言宗系新宗教の解脱会の奉納金などで維持されてきたのである。1966(昭和四十一)年には「御寺泉涌寺を護る会」を発足させ、現在その総裁には秋篠宮文仁親王が就いている。このようにして、皇室ゆかりの寺院を維持する努力がなされているのである。
 実は、かつて京都には泉涌寺と並ぶ皇室の菩提寺が存在した。上京区千本今出川にあった天台宗般舟院(ハンジュウイン)である。天皇の葬儀・火葬・埋葬を執り行うのが先の泉涌寺だったのにたいし、般舟院は歴代天皇の尊牌を祀ってきた。しかし、神仏分離政策によって尊牌は泉涌寺に移され、天皇家の菩提寺としての歴史に幕を閉じてしまったのである。
 現在、般舟院のあった場所は京都市立嘉楽中学校になっている。嘉楽中学校になる前は、1869(明治二)年、全国で学制が発布される前にできた上京第七番組小学校である。般舟院の上知に伴い、小学校に転じたのだ。
 1925(大正十四)年にまとめられた廃仏毀釈関連の史料が生々しくその様子を語っている。

 「(前略)皇室の御喪事は、山陵制に復古せられた故に、尊牌を奉安しても、保護料の御下附がないから、将来維持の見込みがなければ、護持もなり難く、自然不敬に渉る取扱に、ならんとも限らず、斯ては恐れ多き次第である。故に尊位を、泉涌寺に奉還し、宸殿を小学校に仕(ツカッ)たら、市の公益になり、当院の重圧も軽くなり、寺の為にも、結句よからうでないかと、相談的、説諭に及んだ府知事が一面、般舟院の為に諮(ハカ)るが如くして、一面に官権を以て、威圧的に、強誘したのである(後略)」『(維新前後仏教遭難史論』)』
 
 境内地の大部分は学校になり、そのほかの敷地に総門と講堂が大正期まで残っていた。しかし、それも1923(大正12)年の関東大震災の折、被災した鎌倉の建長寺に寄付されたという。
 筆者が2018(平成三十)年九月に訪れた際には、その跡地には皇室ゆかりの寺の面影はまったく感じられない、鉄筋コンクリートでできた一間だけの無住の堂宇が建っていた。
 実は、この般舟院、2011(平成二十三)年の六月に、残された境内地(約三百八十坪)が競売にかけられ、一億三千万円で北海道の不動産会社の手に渡っていたことが判明している。安置されていた重要文化財指定の阿弥陀如来坐像、不動明王坐像も一時、住職によって持ち出され、民家に隠蔽されていた。この住職は2012(平成二十四)年に書類送検され、宗門を破門されている。
 皇室の菩提寺が、廃仏毀釈をきっかけに衰退し、いまの時代になって消滅してしまったのである。
 いずれにせよ、当時は天皇家ですら、神仏分離政策には抗えなかったのだ。明治・大正期の浄土真本願寺派の僧侶で龍谷大学財団理事長を務めた松島善海は、このような興味深い言葉を残している。

 「明治天皇が崩御されるとき、『朕は一生に於いて心残りのことは、即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかったことである』と仰されたということは、天皇の御心情として察するに余りあるものがある」(「松島善海師談」)

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明治新政権による「仏教抹殺... | トップ | 不敬罪、相馬屋事件「天皇ご... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事