昨日は「黒人の解放を願う!」ようなブログ内容になったが、われわれ黄色人種と言われるアジア人も白人からは差別を受けていた時代があった(こちらも現実は決して過去形ではないが・・・)。
それはジャニー(昨年の7月、お亡くなりになられたジャニー北川)さんがジャニーズ率いてアメリカへの進出を試みた1960年代後半(日本にはビートルズが来日したり、安保でワサワサしている時期)、やはり壁が厚くて売り出すことができなかったという。
英語が下手くそ、音楽水準が低すぎて等々、いろいろくだらない評価はあったようだが、そんな中、実はあおい輝彦がリードヴォーカルで「never・my・love(かなわぬ恋)」の録音がされていたという。
カスケーズなど男性ヴォーカル・グループを売り出すことが上手かったヴァリアント・レコードのオーナー及びプロデューサー、ソングライターのバリー・デボーゾンがレコーディングの指揮をとったという。
しかしその録音は決して日の目をみることなく、翌年アソシエイションズ の 「Never My Love(1967年)」としてアソシエイションがカバーし、キャッシュボックスで最高1位、Billboard Hot 100で最高2位を記録した。
このように「ジャニーズの海外挑戦!」はなんとも辛い海外進出になった訳だが、当時、白人の歌は白人のルートで、黒人の歌は黒人のルートで、スパニッシュ系はスパニッシュ系のルートで販売されることが常で、東洋系の黄色人種、イエローモンキーのそれなんかは誰にも相手にされず、曲まで盗まれるというなんとも悔しい結果となったようだ。
それはジャニー(昨年の7月、お亡くなりになられたジャニー北川)さんがジャニーズ率いてアメリカへの進出を試みた1960年代後半(日本にはビートルズが来日したり、安保でワサワサしている時期)、やはり壁が厚くて売り出すことができなかったという。
英語が下手くそ、音楽水準が低すぎて等々、いろいろくだらない評価はあったようだが、そんな中、実はあおい輝彦がリードヴォーカルで「never・my・love(かなわぬ恋)」の録音がされていたという。
カスケーズなど男性ヴォーカル・グループを売り出すことが上手かったヴァリアント・レコードのオーナー及びプロデューサー、ソングライターのバリー・デボーゾンがレコーディングの指揮をとったという。
しかしその録音は決して日の目をみることなく、翌年アソシエイションズ の 「Never My Love(1967年)」としてアソシエイションがカバーし、キャッシュボックスで最高1位、Billboard Hot 100で最高2位を記録した。
このように「ジャニーズの海外挑戦!」はなんとも辛い海外進出になった訳だが、当時、白人の歌は白人のルートで、黒人の歌は黒人のルートで、スパニッシュ系はスパニッシュ系のルートで販売されることが常で、東洋系の黄色人種、イエローモンキーのそれなんかは誰にも相手にされず、曲まで盗まれるというなんとも悔しい結果となったようだ。