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d&d京都

年末から長野→富山→金沢から琵琶湖西岸経由で奈良のオットの実家へ。
長い移動距離後に年明けは実家でのんびり。
帰路につく前に京都へ足をのばして行ってみたかったお店でランチ。
静岡市にもあるナガオカケンメイさんのお店、d&dの京都店は
歩道からあふれかえるほどの人混みでごった返していた四条河原町から
ちょっとだけ離れた場所に、そこだけ数百年前から時が止まったような
ゆるぎない貫禄でどーんと佇む古式ゆかしいお寺の中にあった。
京都造形大学の学生さんと共に運営されているというお寺の中のお店。
お寺の建物ふたつがまんまカフェとショップになっていた。中のお仏壇もそのまんま。
重要文化財クラスの建造物を誰でも入れる公な商いの場として活かす。
町と地域とデザイナーさんと学生さんと
様々な人達が力をあわせて一見有り得ないような場が形成される。
「協同」「協力」「提携」の威力をまざまざと見せつけられたよう。
難しいだろうけどおもしろそうだ。

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鬼無里周辺ちょっと寄り道

文責 杜屋オット)

ケンミンショーでやってた安曇野の円揚げをゲットしたのをつまみつつ、フラフラとオリンピック道路まで下る。

竹細工の手仕事展が旧長野県知事亭でやっているとのことで覗きに行った。

しかし気になったのは実はその敷地内にある発電所の設備展示館

いかにもという機械がでんと収まる。電子式ではなく機械のアナログ式である。

電気を引くためにみんなで共同で資金を持ち寄り自分たちで電気を得ていた時代があったんだ。

そして信じられないことに車もない頃林道を峠越えして鬼無里の裾花川まで運んだという記録。

車でさえ2から3速で登る急勾配。当時のルートはもっと厳しかったに違いない。

その山道を20km近く人力と馬で運んだのだろう。

電気に対する憧れをまざまざと見る。

そして60Hzに調整する調速機。

なんだかカエルのようで可愛い。

 

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法多山万灯祭

7月10日、袋井市の古刹、法多山の万灯祭に行ってきた。
この日一日お参りすれば四万六千日お参りしたのと同じご利益があるというお得な一日。
かなりの車、駐車場も一杯の人ごみ。聞けば、初もうでの次に多い来場者数だという。
地元民には言わずと知れた万灯祭に行くのは今年初めて。

 

日が沈む前に赴き、しばしステージアトラクションを楽しんでから本堂へ向かう。
階段のところから並べられた灯ろうの数に圧倒。
しかも電灯ではなくひとつひとつ全部ちゃんとローソクが入ってる!すごい!
これだけ灯すのも一大仕事だろうな~

ローソクの灯りは電灯と違って何が一番いいかというと、
光が微妙にゆらぐのがいい。生きもののような息吹を感じる灯り。



それにしてもこれは一見の価値あるお祭りだ。どこを撮っても幻想的な絵になる。
方々でシャッターを切っているカメラマンも多数。



だんご屋さんの券売機の横で無料配布されてたガス入り風船が
あちらこちらで時たまふわりと空に浮かびゆく。
小さい子連れのご家族やじいちゃんばあちゃんまで、ゴザに座ってのんびりステージ鑑賞を楽しむ。
津軽三味線からディジュにベリーダンスと盛りだくさん。
トリを飾ったギター弾き語りとジャンベのレイニーズのライブも良かった。
弾き語りのボーカルの声が「徳永英明に似てるね」と私が言ったら
オットは「南こうせつに似てる」と言った。年代の差明らかに。

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ジャズピアニカを聴きに

とんぼ帰りで神戸へ行ってきました。
ジャズピアニカ奏者として日本の第一人者であるトミー・チョウさんのホームグラウンド。



初めて訪れる町、神戸。
日中ゆるりと気の向くままに町並み散策。
17年前の大震災で大きな被害を受けたなんて知らなければ分からない位きれいな町。

 

情緒豊かな異人館街、震災で落下したという煙突を見て一瞬身の毛がよだつ。



てくてく歩いてたまたま見つけた「魚料理がおいしい」というイタリアンレストランでランチ。
前菜盛り合わせ・ホタルイカのトマトリゾット・デザートにティラミスのセット¥1200で大満足。
見てるだけで食欲のわく彩り豊かな前菜、程良く火の通ったリゾット、
しっかり歯ごたえがあって薄いビスコッティが添えられたティラミス、どれもとってもおいしかった。
「神戸では世界中の料理が食べられるんですよ。和洋中華ペルシャ料理にベトナム料理に・・・」
あ~~もっとゆっくり時間とって、一泊くらいすれば良かった。

トミーさんのライブを聴くためだけに神戸まで行くってどうよ?
と思ったけどやっぱり思い切って行って良かった!
オットが休みとれるか分からず、ぎりぎりまで迷ったけど、
チケットは前売りのみで完売、当日券ないですか?という多数のお問い合わせも
全てお断りせざるを得なかった、というほどぎっしり満員大盛況。

 

 

会場はトアロードという名のメインストリートに面した大きなビル。
華僑の人が建てた建物だそう。
時間に合わせて続々と集まる多数のお客様を見て「ホーム」ってやっぱりすごいと思った。



たくさんの地元ファンの人達のあたたかい眼差しに包まれて、始まる前から期待に胸高まる。
小学生からご年輩まで、幅広い年齢層に応えられるのがトミーさんのライブの魅力。

「写真撮影OK!」ってことで、最後列からパシパシ撮ったけど難しい~。
素敵なビジュアルはトミーさんのブログをご覧あれ!→こちら。



ピアニカ、キーボード、フルート、サックス、ドラムに
各種パーカッションとトロンボーンとトランペットが加わり、
幅広く厚みがありリズミカルな音楽に包まれて至福の時間。
トミーさんの軽妙なトークに思わず笑みがこぼれる。

 

ピアニカのトミーさんとフルートの住本さんの振り付け演奏もおもしろかった!
あそこまで接近してよく楽器ぶつかったりしないな~と思ったら
リハーサルではぶつかったり足踏んだりしたこともあったそう。




フルートとサックスとピアニカをひとりで代わる代わる演奏する住本さんの技量も圧巻。



スポット照明があたったシルエットがカッコイイ!やっぱ絵になるな~
そういやこの日はキーボード、伊川さんの誕生日とのこと。
打ち上げでのサプライズは見てるこっちが感激した。



今回のライブ、前半は宮城県のNPO法人「田んぼ」理事長の岩淵先生のトークショー。
生きものが健やかに生きるふゆみず田んぼという環境のこと、震災と復興のこと、
ここから遠く離れた宮城のことでも震災体験のある神戸の人達には間近に感じられることだろう。
昨年311の震災以後、何度も何度も宮城へ赴いているトミーさん達は
毎回岩淵理事長の事務局に寝泊まりされている。
「トミーさん達が帰ると来る前よりも部屋がきれいになっているから何度でも来て欲しい」
と話す岩淵先生に聞くところによると、震災以後何百人ものボランティアの人達が泊まっていったけど
後片付けをきちんとしてきれいに掃除していくのはトミーさん達くらいだそう。
こんなこぼれ話からもトミーさん達の人となりが見てとれる。

それにしても、トミーさんのワンダフルワールドはどこで聴いても何度聴いても心を打つ。
1年に1回、毎年この場所でのライブを長年毎回聴きにきてくれるファンの方も大勢いるそうだけど
神戸の震災やトミーさんのバンドメンバーの話を知っている方達には一層胸に響くものがあることだろう。

音楽は空中に消え、楽しかった記憶だけが残る。

ライブが終わり、ロビーでファンの方に囲まれてはじける笑顔のトミーさんを遠目に眺める。
なんか私、すごい人と知り合いなんだな~。



考えてみれば、吹奏楽器を2時間近くぶっ続けに演奏するって、
ものすごい体力、肺活量だ。酸欠になってもおかしくない。それでも終始笑顔。

ライブ終了後、熱気と汗の匂いが残る会場で後片付けをちょっとだけ手伝わせて頂いた。
これだけのライブコンサートを成り立たせるための膨大な数の道具や機材、そして演奏者さんとスタッフの方々の計り知れない労力に唖然とする。
私とオットの二人でよいしょと運んでたパネルをフルート奏者の住本さんが一人でひょいひょい持ち運んでいた。音楽家の体力はハンパない。

トミーさんのホームグラウンドである神戸でのライブ。
トミーさんがいかにたくさんのファンの方に愛されているか、
そしてトミーさんがいかにたくさんの人達を楽しませ
心を癒し元気付けているかということを肌で感じた。

昨年11月26日に、うちから徒歩5分のドルチェ倉庫でライブして頂いたトミーさん。
 ※その時のレポは→こちら。
また今年11月3日(土)に、再度ドルチェ倉庫ライブ企画が決定してます!
前回お聴き逃した方、「ジャズピアニカってどんなの?」という方も是非お越し下さい。

「音楽の魅力を言葉で伝えるのは難しいから、まずはライブを聴きに来て下さい。
絶対損はさせませんから!」って人様には言うんですよーーと、
トミーさんのお母様がおっしゃっていた。

2012年11月3日(土)、ドルチェ倉庫での静岡ライブをどうぞお聴き逃しなく!
   *時間、チケット等詳細は決まり次第またブログでお伝えしていきます。

ジャズピアニカ奏者、トミー・チョウさんのサイト
http://www.tommycho.info/jp.html

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京都・工藝百職さんへ

先月の静岡手創り市でお会いした、京都の工藝百職さんへ足を伸ばしてみました。

先月末に同じ京都市内から移転オープンされたお店。
町家造りの建物の雰囲気と細い路地を入った場所の佇まいがとっても素敵。
職住一致の店舗兼住宅とのこと。こんな家でのこんな暮らし、憧れる~~。

おことわりして店内の写真を撮らせて頂きました。
店長さんのお人柄そのままの清楚でやわらかな空気の店内には
木工や陶器、ガラスの器など様々な日本の手工芸品が並んでいます。

  

「心地いい」とはこういうお店のことを言うのだろう。
肌になじむ和の趣き。「和風」とは異なる日本の良さ。



パートナーである木工作家、小塚さんの木のスプーンもいろんなタイプが並び目移りする。
小塚さんは、去年6月に行った「暮らしの菓音vol.3」に出展して下さった作家さん。
理にかなう「形」のおもしろさ、人が使う生活道具としての奥深さを観る。

 

工藝百職店長さんの商品の本質や魅力を的確にとらえて説明する文章表現力は秀逸。
ブログや手作り広報誌「百職だより」を読んでいると時間を忘れる。
以前本屋さんで働いておられたという店長さん。
「好きな本は何ですか?」とおもむろに質問してみたら、幸田文の「流れる」とのこと。
今度読んでみよう~。

ベストパートナーのお二人、和やかな笑顔で見送って下さった。
今回は奈良のオットの実家から帰る途中に京都に寄り道したけど、
大都会の京都、車は無謀であった。
次回は電車でゆるりいろいろいろ巡りたい。
それにしても旅先に顔見知りのお店があるってうれしいな。
またお会いする日を楽しみに。

手しごと器・道具 テノナル工藝百職
〒606-8397 京都市左京区聖護院川原町11-18
http://kougei100.exblog.jp/

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暮らす



いつの間にやらこれでもかって位風車が林立していた。



浜岡原発手前から海岸沿いにずらり。



浜岡原発まで20kmちょっとの場所で日々暮らすということ。
こうして近くまで来てみると、やっぱりそれってどうなのかと考えてしまう。





強風による砂の造形。あるがままの自然の力。

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掛川城の桜

今月頭に立ち寄った掛川城の桜。

 

うららかな春の空に映え桜色。

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夜桜

徒歩2、3分の川原にささやかな桜並木がある。
大きな古木の桜の木の下にちょうどよくベンチがあり
プレミアムモルツと梅柿ピー片手に夜桜花見。

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夏の終わり



歩いて15分ほどの川原にて。缶ビールならぬ発泡酒をリュックに背負って町の花火大会へ。
大勢のお客さんだけど、広い芝生に大きな敷物を敷いてごろり寝っ転がっても
ゆとりがあるほどの周囲とのゆったりした距離感がいい。
吹き抜ける爽やかな海風。芝生がふかふかで気持ちいい~。



寝そべって見てる幸せなカップルも多数。





いつも8月の最終土曜日に開催される花火大会。
一輪ずつドン・・・・ドン・・・・・と打ち上がる花火を見てると、ああこれで夏も終わりだな~としみじみ思う。
花火の数は少なくなったとはいえ、最近はスターマインより単体の花火のバリエーションも豊富で
思わず「おお~~きれい~~」などとつぶやきつつ見とれる。
日中はゲリラ豪雨だったのでどうなることかと思ったが、
ほどよい曇天で空が暗く、ちょうどいい風が吹いていて煙が流され、ことのほかきれいに見えた。



弾ける色鮮やかな光の粒。天空に響き渡る音。やっぱり花火はいいな~。
シメのスターマインもさることながら、開始直後の1発目の大玉が圧巻だった。

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ふゆみずたんぼ・生き物達

農薬を使わないせいなのか、ここだけ田んぼとして水が張っているからか、ビオトープまでもあるせいか、
ことの他多くの生き物と対面。空中をかけめぐるトンボもこの田んぼの上空だけ妙に多い。



田んぼの横にはこんこんと湧き出る小さな泉水があり、休憩時の憩いの場であった。
泳いでるドジョウを素手でつかみどり出来た。



泉水の流れ際にはクレソンがわさわさ。



田んぼで息づく泥まみれの生物。

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ふゆみずたんぼ・稲の成長

5月のゴールデンウィークの時にたまたまご縁のあった、
宮城県気仙沼市大谷のふゆみずたんぼへこの夏休み中再び足を運んだ。
冬に田んぼに水をはって野鳥や小さな生物の力を借り、田んぼの土を肥沃にするというふゆみずたんぼ。
大谷地域の小中学校の生徒達が「ハチドリ計画」という授業の一環として取り組んでおられる。



海からかなり離れたこの田んぼも震災で津波に襲われ、ガレキで覆われてしまった。
そのガレキ撤去のボランティアをほんの少しだけゴールデンウイークの時にさせて頂いた。
 ↓ 詳しくはこちらの2011年ゴールデンウイークの記録記事をどうぞ。
  「覚え書き12」
  「覚え書き13」
  「覚え書き14」

その後、無事に田植えを終えたと経過を教えて頂いた。
あれから早3ヶ月。青々と立派に成長した稲が4枚の田んぼに広がっていた。感慨深い。
下の写真、田んぼの横の流されてきた家はそのまま。

出穂し、花が咲いていた。 
稲の花をこんなまじまじと見つめるのは生まれて初めて。
ほのかに甘いミルクのようなお米の香りが漂う。

今回もわずかだけ田んぼの草取りをお手伝いした。
田んぼの手入れをするのも、田んぼに素足で入るのも初体験。
最初はビーチサンダルを履いていたのだが、泥に足をとられるのでサンダルを脱いではだしになった。
もし泥の中にガラスの破片が残っていたら・・・その心配も杞憂で終わった。
何といってもこのぬるぬるとろとろの泥の感触の気持ちのいいこと!
「熱中症で倒れたらどうしよう」なーんて思っていたけれど
足が常に冷たい水に浸っていたせいか、午前中から夕方まで丸一日やっても無事だった。
それにしてもこの泥の感触にはやみつきになりそう。泥の温泉とか泥パックとか、お肌にも良さげな感じ。



この辺も5月に比べればガレキの撤去は少しずつ進んでいる印象があったが
それでもすさまじい災害の爪痕はまだまだ残っていた。上の写真は折れた電柱。



自然に生えたのだろうか。
田んぼの横の、流されてきた家の前にたたずむ1本のひまわり。

5月にはむき出しの地面にがれきが散乱していたこの地域は元来
見渡す限りの田んぼだったと思われるが、やはりほとんど雑草畑と化していた。
そんな中で、このふゆみずたんぼ以外にもう1カ所だけ、美しく再生された田んぼが1枚あった。
5月に一人のおじいさんが黙々とガレキ撤去作業を続けておられた場所だ。
「ゼロ」ではなく1、1ではなく2。それが再生への大きな力へつながることを願ってやまない。

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即席ではなく

「放射能のことはあまり考えないようにしてるんだ」
旅の最中、岩手の温泉につかっている時に隣にいたおばさんがつぶやいた。
福島にほど近い宮城県角田市にお住まいだという。
「小学生の孫は学校のプールに入れなくて。この暑いのにね~」

仙台の実家へ今回も下道で帰省した。
静岡→甲府→秩父→熊谷→栃木→福島→仙台と、細かな裏道をつなぐルート。
福島からは三春町を通って飯館村の横の三ケタ国道を北上。
普通に歩いてたり犬の散歩してたり外で遊んでいたりする子供もいる。ぱっと見、普通に穏やかな農村風景。
郡山市の街中を経由した。今まで知らなかったけど、県庁所在地の福島市より郡山市の方が大きな感じがする。
都会的なにぎわい、行き交う車の多さと闊歩するおしゃれな人達。
何も知らないでよそから来た人は、福島で何が起きたか、今何がどうなっているか全く気がつかないのでは。

国道4号など大きな幹線は大型店舗や飲食店などお店が多いのは便利だが
県道や三ケタ国道など裏ルートの何がいいかというと、窓外に見える風景がいい。
一面に広がる青々とした田んぼ。出穂した稲穂が風にそよぐ。
森の中を抜けると木洩れ日と木の香のシャワー。道の横を流れる渓流は日常では見ない川底まで透明な川。

前回5月は、渋滞と通行止めを考慮して沿岸ルートの走行は避けていたけれど
今回は仙台に入ってから沿岸の道をゆく。実家から数キロ東の場所。
いつもは一面田んぼのエリアが見渡す限り雑草畑。伸びた草の中に見え隠れするガレキ、船。
コンクリートだけになっているところは、よく見れば津波で流された住宅の土台。この辺は新しい住宅地だろう。
前回ゴールデンウィークに来た時は、あまりにもありえない惨状そのまんまな風景に愕然としたけれど
その時に比べればガレキの撤去はかなり進んでいた。
「やっぱりずいぶん復旧作業は進んでるんだね~」と言ってる最中、
突然視界に入ってきた広大ながれき置き場に思わず息をのむ。

石巻の国道45号沿いは、どこの地方都市でもかわりばえしない同じチェーン店が軒並み並び
普通に電気を照らして普通に営業している光景にちょっとほっとする。
しかし、川の横の道を通って一瞬背筋が凍りつく。川の水位が道路の高さとあまり変わらない。
これって堤防が一部でも決壊したらヤバくない?今日満月だからか?それもあるけどやっぱり地盤沈下でしょう。
少しずつ日が暮れていく。石巻にある有名なケーキ屋さんに行ってみよう~と、裏道にそれてみる。
こうこうと明るい45号から一転、夕闇に沈む灯ひとつない廃墟にしばし呆然。
住宅地であっただろうこの場所にも水が来ていて道の先へ進めない。

石巻の先の女川に着いた頃にはとっぷり日が暮れていた。独身時代に何度か遊びに行った女川。
記憶にある光景が様変わりしている姿を目の当たりにすると胸の奥がじくじく焼けるようだ。
マリンパル女川の建物の横も一面水たまり。よく見ると藻が育って魚が泳いでいる。
「被災地には絶対に見に行かない」と言い張ったという父の気持ちが少し分かる。
景色=ランドスケープが人の心に与える影響はどれほど大きいか。

仙台の駅前、街中は東北中枢ならではの都会の賑わい。
実家の近所にオープンしたアンパンマンミュージアムには大行列。
「被災地との温度差」とはよく耳にする言葉だけど、実際5ヶ月前に大震災が起きたなんて信じられないくらい。
「被災地を見る」って、どうなんだろうな・・・
実際見に行っておきながらも何となく腑に落ちないものを感じないわけではなかったが
でもその代弁して下さるような方の記事を見つけたので、↓にリンク貼らせて頂きます。
「インスタント(即席)でない情報理解や行動のスタンスって、これからの時代のスタイルだと思う」
そのご意見に同意。


被災地の状況は想像の域を遥かに越えている。
~被災地支援だけでなく被災地理解にも時間をかける大切さ。
http://d.hatena.ne.jp/akiranakajima/20110822

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ふりかえってみれば

旅先で、偶然のご縁で出会った12歳年下のケーキ職人の女の子と話をする機会があった。
お菓子の専門学校を卒業してフランスの菓子専門学校へ行って現地のケーキ屋で研修して、
日本に戻ってから大手ケーキ工場で働いて辞めた後に個人店の小さなケーキ工房で働いて辞めて
現在次の働き先を探し中、とのこと。
東京で一人暮らし中だけど働いている時は忙しくてお金を使うヒマが無かったから、
とりあえずお金には困っていない。でも家族からは関西の実家に帰ってきたらと言われる。
お姉さんのツテでまた海外へ行くという手もないではない。
まだ若いし独身だし、放射能のことを考えるとチャンスがあるなら海外へ行った方がいいのでは。
自分が好きなケーキ屋さんに直接アプローチしてみては。
思い切って自分でお菓子屋を始めてみては。
などと無責任に言いたい放題言いながら、
そういえば自分もこの年頃はいろいろ頭で考えて悩んであちこちさ迷っていたな~とふりかえった。
お菓子の専門学校も出てないし海外研修もしてないし
ケーキ屋数軒で働いたといっても終始ケーキ製造の仕事に従事してたわけじゃないし
パティシェの王道とはまるで別の裏道を歩いてきた自分。
この彼女と同じ年の時はちょうど長野の焼き菓子工房に住み込んでいた。
あれから12年も経ったのか、と思うと感慨深いものがある。

そもそもどうしてケーキ職人を目指そうかと思ったんですか?という問いに
お互い「工作が好きだから」と答えて盛り上がる。
中でも何で料理とかパンとか和菓子ではなく、ケーキなのか?
誕生日とかお祝いの時に食べるのがいいな~と思って、と彼女の返答。なるほど~。
私は、小学生の時に社会の授業中テレビで見た「働くおじさん」という番組に出てきた
ケーキ職人のおじさんが絞り出し袋でバラの形にピンクのクリームを絞ってる情景が目に焼き付いていて。
ちなみにもうひとつ忘れられないのはガラス職人さんが色とりどりのガラス棒をバーナーで熱して
ガラス細工の小さな動物を作っている情景。それ以外の働くおじさんは全く覚えていない。
お菓子だけではなくジャムに力を入れているのはどうしてですか?と問われて
元々はお菓子の材料にするために旬の果物を甘煮にして通年使えるように瓶詰保存しておく、
というところから始まって、今でもそれは変わらないのだけど
こんなにジャム作るようになったのは、しいて言えば果物のいろんな色が好きだからかな~。
と、答えながらああ考えてみればそうなのか。と思った。
まるでかつての自分自身と向き合って会話しているかのような、ちょっと不思議なひととき。

悩んだり迷ったりしているとどこからともなくふっと何気ない縁が天から降ってくることもありますよ~
私が居候させてもらった長野の焼き菓子工房を知った時もそんな感じだったし。
でも今だからこそ思えるのは、年をとったからといって絶対的に立派な大人で名人級の職人になってる
というわけではないんだな~ということ。12年経っても変わらず地道な手作業をやってる自分。
思えばあの頃の私は理想だけ高くてないものねだりをしていた。
頭で悩むより手を動かして労働した方が時間の無駄はないかもね。
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覚え書き14

「どうしよう何しよう」と言いながら何も決まらないまま実家へ帰省した今年のGW連休。
思いがけず現地で見つかったご縁で、多数の方、特に気仙沼の小野寺先生には大変お世話になりました。
また、ふゆみずたんぼボランティアに参加された方の事後報告を拝読して、
あらためて自分がとても意義のあることのお手伝いをさせて頂いたと思いました。
ここにご紹介しつつ、心より御礼申し上げます。
  

■ 今回お世話になった宮城県気仙沼市大谷中学校ふゆみずたんぼ担当の小野寺先生のブログとHP↓

  http://chinomori.exblog.jp/

  http://www7.ocn.ne.jp/~sophia/


■ ふゆみずたんぼボランティアに参加されたNGO団体ナマケモノ倶楽部スタッフさんのブログ報告↓

  http://www.voluntary.jp/weblog/myblog/275
  (2011/04/30から05/06の記事「ふゆみずたんぼ報告」 ML作成も感謝です)


■ ふゆみずたんぼボランティアに参加された方のブログ報告↓ すごく分かりやすいです。

  気仙沼『ふゆみずたんぼ復元プロジェクト』レポ その1
  気仙沼『ふゆみずたんぼ復元プロジェクト』レポ その2
  気仙沼『ふゆみずたんぼ復元プロジェクト』レポ その3
  気仙沼『ふゆみずたんぼ復元プロジェクト』レポ 最終回


■ 「ネイチャーボイセス」の演奏をコーディネートし、ふゆみずたんぼボランティア募集を教えてくれた
   宮城県にある「NPO法人田んぼ」のサイト↓

  http://www.justmystage.com/home/npotambo/345.html
   ネイチャーボイセスの皆さんと木の花屋さん、そして初対面のボランティアの方々含めて
    大勢で夜中まで理事長さんのお話をうかがえたのは、まるで大人の寺子屋のようでした。



■ 宮城県の避難所でジャズピアニカライブを実現された、神戸を拠点に音楽活動されている
  「ネイチャ―ボイセス」のサイト↓

  http://www.tommycho.info/jp.html

  「ネイチャーボイセス」リーダーのトミーさんのブログに、私達の姿もちらり↓
   http://tommycho.blog85.fc2.com/blog-entry-115.html

  ネイチャーボイセスさんが演奏された宮城県登米市のRQでもボランティア募集中↓
   http://www.rq-center.net/



■ 「ネイチャーボイセス」の方とのきっかけを下さった長野の漬物屋「木の花屋」さんのサイト↓

  http://www.konohanaya.com/
  社長・専務ご夫妻様には数年前から公私ともどもお世話になっています。今回南三陸町の避難所で漬物を配られてました。
   そもそも今回のボランティアの発端は、東北自動車道福島走行中に木の花屋さんから頂いたお電話。感謝です。


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覚え書き13

7日の午前中、学生さん達の猛烈な肉体労働により水路が完成。
田んぼの上の方から放水すると瞬く間に今掘ったばかりのビオトープに水が行き渡っていく。
気持ちのいい五月晴れの日ざしが滔々と流れる水に反射する。
思わず「いい景色だ~」とつぶやいた。現場監督の先生もうれしそう。
お昼ごはんに現地の方が作って下さったカレーライスを私達までご馳走になり、一足お先に田んぼへ戻ってきてみたら、男の子が満面の笑みでそこに立っていた。あっという間に水が満ちたビオトープにいてもたってもいられない様子で、長靴でばしゃばしゃと水に踏み込む。ずぼ。うあー落とし穴だー。長靴に水が入っても楽しそう。
屈託のない笑顔を見せてくれたこの少年君は、「冬水田んぼの活動で学んだこと」という作文を書いて「2010年地球にやさしい作文・活動報告コンテスト」(読売新聞社主催)」で内閣総理大臣賞を受賞したそう。素晴らしい栄誉だ。
http://www.yomiuri.co.jp/adv/sakubun/prize.htm
しかし彼の家は津波で全壊、祖父を失ったとのこと。屈託がないわけはない。
そもそも、このふゆみずたんぼ復旧を思い立ったのは彼の「また田んぼやりたい」という一言が発端だそう。

あぜ道できれいに縁取られた田んぼに水が満ちる。復旧して本当に良かった。
その周囲はまだまだガレキの散乱している風景だけど、この田んぼでこの土地の子供達が稲を育て、穂が伸び米が実るその様子をこの土地の大人の人達も眺めることが出来れば、それだけで復旧のシンボルになるかもしれない。そうなってほしいと願う。

今回私がやらせて頂いたボランティアが「いいとこどり」だと思ったのは、復旧作業を終え、田んぼに水が行きわたるまで見届けることが出来たこと。
それと、6日が本来作業お休みだったことで他の人がおらず、ふゆみずたんぼ担当の先生と直接色々お話することが出来たこと。
「やろう」と先生が決断して、ボランティア募集をかけて、大勢のボランティアが集まって、地元の人達も参加して、結果として予定よりも早く予定よりも広い範囲を復旧させることが出来て大成功だ。
しかし、先生の御苦労とプレッシャーは決して小さくなかったと思う。赤の他人同士のボランティア。県外からバスや電車で来た人達を車で送迎し(最寄の大谷海岸駅は被災したので、数キロ離れた気仙沼駅まで送迎された)、学校の教室に宿泊出来るよう手配し、老若男女取り混ぜた大勢の人に説明して作業の指示を出しながら、自分も現場で手を動かし体を動かして労働する。その上この先生ご自身も津波でご自宅に被害を受けていた。
もし私が先生の立場だったら、怪我やトラブルの可能性を考えただけで、知らない人にボランティアを頼むなんて二の足を踏んでしまいそうだ。
しかし、先生の「やろう」というご決断は偉大だった。
今回ボランティアとして参加させて頂いて、そして他のボランティアさんの話を聞いたりして思った。
もしも今後自分が、例えば東海地震が起きたりして自宅が津波に流されて(うちは海まで徒歩数分)自分が被災者の立場になることがあったら。本当に困ったことになったとしたら。
意地をはらず怖がらず、素直に他人に手助けを求めようと思った。
困った時はお互い様。「人の役に立ちたい」「人の手助けしたい」邪心なくそう思っている人は、この世の中けっこうたくさんいるもんなんだな~と今回参加してあらためて知った。またそういうボランティアしたい人は、人の手助けをすることで自分の心も満足し幸せになれる。
ただひと口に「ボランティア」と言っても、状況、作業内容、人の性格などピンキリで、簡単に言い尽くせないことは百も承知だが、今回のこのボランティア作業は、強い意志と采配力をお持ちのこの先生のおかげで、とても恵まれたやりやすい現場だったと思う。

他人が困ってる時に手を貸し、自分が困っている時は人の手を借りる、ということ。
そんなお互い様の手助けが昔の日本にはどこにでもあった。「結い」という名で。
しかし昔の結いは、狭い範囲の集落や同じ村内など限られた地域の顔見知り同士のものだった。なので今回の大震災のように、広い範囲の大勢の人が同時に被害を受けた場合、地元の人同士の結いで助け合うことは難しい。
インターネットが発達した現代は、ネットでの呼びかけに対して全国から一ヶ所に見知らぬ者同士が集まることが出来るようになった。道具としてのネットは大いに活用し、そして実際やることは昔の「結い」さながらの体を動かす労働。それがいい。

自分がいざ困った時に遠慮や我慢をせずに見知らぬ人に手助けを乞うためにも、自分が元気な時に出来るだけの力で他人の手助けをしたいと思った。
自分が手助けした人に、自分を手助けすることを求めるという訳では決してない。
「手助けされた人→別の他人を手助けする→手助けされた人→また別の他人を手助けする」
という感じ。大勢の見知らぬ人同士がずらーーっと横長に並んで手をつなぐイメージで、「手助けのつながり」が連鎖となって、長い長い先の方、人の列が見えないくらい先の未来にまでもつながって行けばいいなと思う。
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