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ふゆみずたんぼ・稲の成長

5月のゴールデンウィークの時にたまたまご縁のあった、
宮城県気仙沼市大谷のふゆみずたんぼへこの夏休み中再び足を運んだ。
冬に田んぼに水をはって野鳥や小さな生物の力を借り、田んぼの土を肥沃にするというふゆみずたんぼ。
大谷地域の小中学校の生徒達が「ハチドリ計画」という授業の一環として取り組んでおられる。



海からかなり離れたこの田んぼも震災で津波に襲われ、ガレキで覆われてしまった。
そのガレキ撤去のボランティアをほんの少しだけゴールデンウイークの時にさせて頂いた。
 ↓ 詳しくはこちらの2011年ゴールデンウイークの記録記事をどうぞ。
  「覚え書き12」
  「覚え書き13」
  「覚え書き14」

その後、無事に田植えを終えたと経過を教えて頂いた。
あれから早3ヶ月。青々と立派に成長した稲が4枚の田んぼに広がっていた。感慨深い。
下の写真、田んぼの横の流されてきた家はそのまま。

出穂し、花が咲いていた。 
稲の花をこんなまじまじと見つめるのは生まれて初めて。
ほのかに甘いミルクのようなお米の香りが漂う。

今回もわずかだけ田んぼの草取りをお手伝いした。
田んぼの手入れをするのも、田んぼに素足で入るのも初体験。
最初はビーチサンダルを履いていたのだが、泥に足をとられるのでサンダルを脱いではだしになった。
もし泥の中にガラスの破片が残っていたら・・・その心配も杞憂で終わった。
何といってもこのぬるぬるとろとろの泥の感触の気持ちのいいこと!
「熱中症で倒れたらどうしよう」なーんて思っていたけれど
足が常に冷たい水に浸っていたせいか、午前中から夕方まで丸一日やっても無事だった。
それにしてもこの泥の感触にはやみつきになりそう。泥の温泉とか泥パックとか、お肌にも良さげな感じ。



この辺も5月に比べればガレキの撤去は少しずつ進んでいる印象があったが
それでもすさまじい災害の爪痕はまだまだ残っていた。上の写真は折れた電柱。



自然に生えたのだろうか。
田んぼの横の、流されてきた家の前にたたずむ1本のひまわり。

5月にはむき出しの地面にがれきが散乱していたこの地域は元来
見渡す限りの田んぼだったと思われるが、やはりほとんど雑草畑と化していた。
そんな中で、このふゆみずたんぼ以外にもう1カ所だけ、美しく再生された田んぼが1枚あった。
5月に一人のおじいさんが黙々とガレキ撤去作業を続けておられた場所だ。
「ゼロ」ではなく1、1ではなく2。それが再生への大きな力へつながることを願ってやまない。

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即席ではなく

「放射能のことはあまり考えないようにしてるんだ」
旅の最中、岩手の温泉につかっている時に隣にいたおばさんがつぶやいた。
福島にほど近い宮城県角田市にお住まいだという。
「小学生の孫は学校のプールに入れなくて。この暑いのにね~」

仙台の実家へ今回も下道で帰省した。
静岡→甲府→秩父→熊谷→栃木→福島→仙台と、細かな裏道をつなぐルート。
福島からは三春町を通って飯館村の横の三ケタ国道を北上。
普通に歩いてたり犬の散歩してたり外で遊んでいたりする子供もいる。ぱっと見、普通に穏やかな農村風景。
郡山市の街中を経由した。今まで知らなかったけど、県庁所在地の福島市より郡山市の方が大きな感じがする。
都会的なにぎわい、行き交う車の多さと闊歩するおしゃれな人達。
何も知らないでよそから来た人は、福島で何が起きたか、今何がどうなっているか全く気がつかないのでは。

国道4号など大きな幹線は大型店舗や飲食店などお店が多いのは便利だが
県道や三ケタ国道など裏ルートの何がいいかというと、窓外に見える風景がいい。
一面に広がる青々とした田んぼ。出穂した稲穂が風にそよぐ。
森の中を抜けると木洩れ日と木の香のシャワー。道の横を流れる渓流は日常では見ない川底まで透明な川。

前回5月は、渋滞と通行止めを考慮して沿岸ルートの走行は避けていたけれど
今回は仙台に入ってから沿岸の道をゆく。実家から数キロ東の場所。
いつもは一面田んぼのエリアが見渡す限り雑草畑。伸びた草の中に見え隠れするガレキ、船。
コンクリートだけになっているところは、よく見れば津波で流された住宅の土台。この辺は新しい住宅地だろう。
前回ゴールデンウィークに来た時は、あまりにもありえない惨状そのまんまな風景に愕然としたけれど
その時に比べればガレキの撤去はかなり進んでいた。
「やっぱりずいぶん復旧作業は進んでるんだね~」と言ってる最中、
突然視界に入ってきた広大ながれき置き場に思わず息をのむ。

石巻の国道45号沿いは、どこの地方都市でもかわりばえしない同じチェーン店が軒並み並び
普通に電気を照らして普通に営業している光景にちょっとほっとする。
しかし、川の横の道を通って一瞬背筋が凍りつく。川の水位が道路の高さとあまり変わらない。
これって堤防が一部でも決壊したらヤバくない?今日満月だからか?それもあるけどやっぱり地盤沈下でしょう。
少しずつ日が暮れていく。石巻にある有名なケーキ屋さんに行ってみよう~と、裏道にそれてみる。
こうこうと明るい45号から一転、夕闇に沈む灯ひとつない廃墟にしばし呆然。
住宅地であっただろうこの場所にも水が来ていて道の先へ進めない。

石巻の先の女川に着いた頃にはとっぷり日が暮れていた。独身時代に何度か遊びに行った女川。
記憶にある光景が様変わりしている姿を目の当たりにすると胸の奥がじくじく焼けるようだ。
マリンパル女川の建物の横も一面水たまり。よく見ると藻が育って魚が泳いでいる。
「被災地には絶対に見に行かない」と言い張ったという父の気持ちが少し分かる。
景色=ランドスケープが人の心に与える影響はどれほど大きいか。

仙台の駅前、街中は東北中枢ならではの都会の賑わい。
実家の近所にオープンしたアンパンマンミュージアムには大行列。
「被災地との温度差」とはよく耳にする言葉だけど、実際5ヶ月前に大震災が起きたなんて信じられないくらい。
「被災地を見る」って、どうなんだろうな・・・
実際見に行っておきながらも何となく腑に落ちないものを感じないわけではなかったが
でもその代弁して下さるような方の記事を見つけたので、↓にリンク貼らせて頂きます。
「インスタント(即席)でない情報理解や行動のスタンスって、これからの時代のスタイルだと思う」
そのご意見に同意。


被災地の状況は想像の域を遥かに越えている。
~被災地支援だけでなく被災地理解にも時間をかける大切さ。
http://d.hatena.ne.jp/akiranakajima/20110822

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ふりかえってみれば

旅先で、偶然のご縁で出会った12歳年下のケーキ職人の女の子と話をする機会があった。
お菓子の専門学校を卒業してフランスの菓子専門学校へ行って現地のケーキ屋で研修して、
日本に戻ってから大手ケーキ工場で働いて辞めた後に個人店の小さなケーキ工房で働いて辞めて
現在次の働き先を探し中、とのこと。
東京で一人暮らし中だけど働いている時は忙しくてお金を使うヒマが無かったから、
とりあえずお金には困っていない。でも家族からは関西の実家に帰ってきたらと言われる。
お姉さんのツテでまた海外へ行くという手もないではない。
まだ若いし独身だし、放射能のことを考えるとチャンスがあるなら海外へ行った方がいいのでは。
自分が好きなケーキ屋さんに直接アプローチしてみては。
思い切って自分でお菓子屋を始めてみては。
などと無責任に言いたい放題言いながら、
そういえば自分もこの年頃はいろいろ頭で考えて悩んであちこちさ迷っていたな~とふりかえった。
お菓子の専門学校も出てないし海外研修もしてないし
ケーキ屋数軒で働いたといっても終始ケーキ製造の仕事に従事してたわけじゃないし
パティシェの王道とはまるで別の裏道を歩いてきた自分。
この彼女と同じ年の時はちょうど長野の焼き菓子工房に住み込んでいた。
あれから12年も経ったのか、と思うと感慨深いものがある。

そもそもどうしてケーキ職人を目指そうかと思ったんですか?という問いに
お互い「工作が好きだから」と答えて盛り上がる。
中でも何で料理とかパンとか和菓子ではなく、ケーキなのか?
誕生日とかお祝いの時に食べるのがいいな~と思って、と彼女の返答。なるほど~。
私は、小学生の時に社会の授業中テレビで見た「働くおじさん」という番組に出てきた
ケーキ職人のおじさんが絞り出し袋でバラの形にピンクのクリームを絞ってる情景が目に焼き付いていて。
ちなみにもうひとつ忘れられないのはガラス職人さんが色とりどりのガラス棒をバーナーで熱して
ガラス細工の小さな動物を作っている情景。それ以外の働くおじさんは全く覚えていない。
お菓子だけではなくジャムに力を入れているのはどうしてですか?と問われて
元々はお菓子の材料にするために旬の果物を甘煮にして通年使えるように瓶詰保存しておく、
というところから始まって、今でもそれは変わらないのだけど
こんなにジャム作るようになったのは、しいて言えば果物のいろんな色が好きだからかな~。
と、答えながらああ考えてみればそうなのか。と思った。
まるでかつての自分自身と向き合って会話しているかのような、ちょっと不思議なひととき。

悩んだり迷ったりしているとどこからともなくふっと何気ない縁が天から降ってくることもありますよ~
私が居候させてもらった長野の焼き菓子工房を知った時もそんな感じだったし。
でも今だからこそ思えるのは、年をとったからといって絶対的に立派な大人で名人級の職人になってる
というわけではないんだな~ということ。12年経っても変わらず地道な手作業をやってる自分。
思えばあの頃の私は理想だけ高くてないものねだりをしていた。
頭で悩むより手を動かして労働した方が時間の無駄はないかもね。
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覚え書き14

「どうしよう何しよう」と言いながら何も決まらないまま実家へ帰省した今年のGW連休。
思いがけず現地で見つかったご縁で、多数の方、特に気仙沼の小野寺先生には大変お世話になりました。
また、ふゆみずたんぼボランティアに参加された方の事後報告を拝読して、
あらためて自分がとても意義のあることのお手伝いをさせて頂いたと思いました。
ここにご紹介しつつ、心より御礼申し上げます。
  

■ 今回お世話になった宮城県気仙沼市大谷中学校ふゆみずたんぼ担当の小野寺先生のブログとHP↓

  http://chinomori.exblog.jp/

  http://www7.ocn.ne.jp/~sophia/


■ ふゆみずたんぼボランティアに参加されたNGO団体ナマケモノ倶楽部スタッフさんのブログ報告↓

  http://www.voluntary.jp/weblog/myblog/275
  (2011/04/30から05/06の記事「ふゆみずたんぼ報告」 ML作成も感謝です)


■ ふゆみずたんぼボランティアに参加された方のブログ報告↓ すごく分かりやすいです。

  気仙沼『ふゆみずたんぼ復元プロジェクト』レポ その1
  気仙沼『ふゆみずたんぼ復元プロジェクト』レポ その2
  気仙沼『ふゆみずたんぼ復元プロジェクト』レポ その3
  気仙沼『ふゆみずたんぼ復元プロジェクト』レポ 最終回


■ 「ネイチャーボイセス」の演奏をコーディネートし、ふゆみずたんぼボランティア募集を教えてくれた
   宮城県にある「NPO法人田んぼ」のサイト↓

  http://www.justmystage.com/home/npotambo/345.html
   ネイチャーボイセスの皆さんと木の花屋さん、そして初対面のボランティアの方々含めて
    大勢で夜中まで理事長さんのお話をうかがえたのは、まるで大人の寺子屋のようでした。



■ 宮城県の避難所でジャズピアニカライブを実現された、神戸を拠点に音楽活動されている
  「ネイチャ―ボイセス」のサイト↓

  http://www.tommycho.info/jp.html

  「ネイチャーボイセス」リーダーのトミーさんのブログに、私達の姿もちらり↓
   http://tommycho.blog85.fc2.com/blog-entry-115.html

  ネイチャーボイセスさんが演奏された宮城県登米市のRQでもボランティア募集中↓
   http://www.rq-center.net/



■ 「ネイチャーボイセス」の方とのきっかけを下さった長野の漬物屋「木の花屋」さんのサイト↓

  http://www.konohanaya.com/
  社長・専務ご夫妻様には数年前から公私ともどもお世話になっています。今回南三陸町の避難所で漬物を配られてました。
   そもそも今回のボランティアの発端は、東北自動車道福島走行中に木の花屋さんから頂いたお電話。感謝です。


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覚え書き13

7日の午前中、学生さん達の猛烈な肉体労働により水路が完成。
田んぼの上の方から放水すると瞬く間に今掘ったばかりのビオトープに水が行き渡っていく。
気持ちのいい五月晴れの日ざしが滔々と流れる水に反射する。
思わず「いい景色だ~」とつぶやいた。現場監督の先生もうれしそう。
お昼ごはんに現地の方が作って下さったカレーライスを私達までご馳走になり、一足お先に田んぼへ戻ってきてみたら、男の子が満面の笑みでそこに立っていた。あっという間に水が満ちたビオトープにいてもたってもいられない様子で、長靴でばしゃばしゃと水に踏み込む。ずぼ。うあー落とし穴だー。長靴に水が入っても楽しそう。
屈託のない笑顔を見せてくれたこの少年君は、「冬水田んぼの活動で学んだこと」という作文を書いて「2010年地球にやさしい作文・活動報告コンテスト」(読売新聞社主催)」で内閣総理大臣賞を受賞したそう。素晴らしい栄誉だ。
http://www.yomiuri.co.jp/adv/sakubun/prize.htm
しかし彼の家は津波で全壊、祖父を失ったとのこと。屈託がないわけはない。
そもそも、このふゆみずたんぼ復旧を思い立ったのは彼の「また田んぼやりたい」という一言が発端だそう。

あぜ道できれいに縁取られた田んぼに水が満ちる。復旧して本当に良かった。
その周囲はまだまだガレキの散乱している風景だけど、この田んぼでこの土地の子供達が稲を育て、穂が伸び米が実るその様子をこの土地の大人の人達も眺めることが出来れば、それだけで復旧のシンボルになるかもしれない。そうなってほしいと願う。

今回私がやらせて頂いたボランティアが「いいとこどり」だと思ったのは、復旧作業を終え、田んぼに水が行きわたるまで見届けることが出来たこと。
それと、6日が本来作業お休みだったことで他の人がおらず、ふゆみずたんぼ担当の先生と直接色々お話することが出来たこと。
「やろう」と先生が決断して、ボランティア募集をかけて、大勢のボランティアが集まって、地元の人達も参加して、結果として予定よりも早く予定よりも広い範囲を復旧させることが出来て大成功だ。
しかし、先生の御苦労とプレッシャーは決して小さくなかったと思う。赤の他人同士のボランティア。県外からバスや電車で来た人達を車で送迎し(最寄の大谷海岸駅は被災したので、数キロ離れた気仙沼駅まで送迎された)、学校の教室に宿泊出来るよう手配し、老若男女取り混ぜた大勢の人に説明して作業の指示を出しながら、自分も現場で手を動かし体を動かして労働する。その上この先生ご自身も津波でご自宅に被害を受けていた。
もし私が先生の立場だったら、怪我やトラブルの可能性を考えただけで、知らない人にボランティアを頼むなんて二の足を踏んでしまいそうだ。
しかし、先生の「やろう」というご決断は偉大だった。
今回ボランティアとして参加させて頂いて、そして他のボランティアさんの話を聞いたりして思った。
もしも今後自分が、例えば東海地震が起きたりして自宅が津波に流されて(うちは海まで徒歩数分)自分が被災者の立場になることがあったら。本当に困ったことになったとしたら。
意地をはらず怖がらず、素直に他人に手助けを求めようと思った。
困った時はお互い様。「人の役に立ちたい」「人の手助けしたい」邪心なくそう思っている人は、この世の中けっこうたくさんいるもんなんだな~と今回参加してあらためて知った。またそういうボランティアしたい人は、人の手助けをすることで自分の心も満足し幸せになれる。
ただひと口に「ボランティア」と言っても、状況、作業内容、人の性格などピンキリで、簡単に言い尽くせないことは百も承知だが、今回のこのボランティア作業は、強い意志と采配力をお持ちのこの先生のおかげで、とても恵まれたやりやすい現場だったと思う。

他人が困ってる時に手を貸し、自分が困っている時は人の手を借りる、ということ。
そんなお互い様の手助けが昔の日本にはどこにでもあった。「結い」という名で。
しかし昔の結いは、狭い範囲の集落や同じ村内など限られた地域の顔見知り同士のものだった。なので今回の大震災のように、広い範囲の大勢の人が同時に被害を受けた場合、地元の人同士の結いで助け合うことは難しい。
インターネットが発達した現代は、ネットでの呼びかけに対して全国から一ヶ所に見知らぬ者同士が集まることが出来るようになった。道具としてのネットは大いに活用し、そして実際やることは昔の「結い」さながらの体を動かす労働。それがいい。

自分がいざ困った時に遠慮や我慢をせずに見知らぬ人に手助けを乞うためにも、自分が元気な時に出来るだけの力で他人の手助けをしたいと思った。
自分が手助けした人に、自分を手助けすることを求めるという訳では決してない。
「手助けされた人→別の他人を手助けする→手助けされた人→また別の他人を手助けする」
という感じ。大勢の見知らぬ人同士がずらーーっと横長に並んで手をつなぐイメージで、「手助けのつながり」が連鎖となって、長い長い先の方、人の列が見えないくらい先の未来にまでもつながって行けばいいなと思う。
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覚え書き12

気仙沼市大谷中学校の前にある、ふゆみずたんぼ復旧作業ボランティア。
4月29日から5月8日までのボランティア募集期間中、私が参加させて頂いたのは5月6日と7日のたった二日のみ。しかも実は6日は休息日だったところを押しかけたので、6日のボランティア参加は私とオットだけ。
「お休みの日に無理やり押し掛けてスミマセン」「いや少しでも作業が進むのはありがたいから」
総監督であり現場指揮官でもある大谷中学校の先生とオットと私の三人で黙々と作業する。
見た目よりも重いガレキを載せた一輪車をよっこらしょとよろけながら持ち上げ、ガレキ集積所までの坂道をヨタヨタと歩いていたら、1階部分を津波で流されたご自宅の片付け作業をされていたおばさんが「御苦労様~大丈夫?無理しないで少しずつ運んで、疲れないようにしてね」と声をかけて下さった。その一言に胸がじんわり。ご自分の方が大変な状況なのに、赤の他人を労わる言葉をかけて下さるその優しさが身に染みた。

一転、7日は30名を超す大勢の学生ボランティアさんが駆け付けた。
今回私が参加させて頂いたふゆみずたんぼのボランティア、言ってみれば「いいとこどり」だったような気がする。5日までに参加されたボランティアさんの手により、田んぼに復旧すべきところは全部終わっていた。7日はパワーみなぎる若い人達がスコップで一斉に土を掘り上げ、田んぼのあぜ道を作り、ビオトープになる池を作り、そこへ水を通す水路を作ってくれた。
自分で実際やってみると分かる、スコップでの土掘り作業の大変さ。若い男子学生さん達のその肉体労働の圧倒的な威力には目を見張った。野球部もしくはガソリンスタンドのお兄ちゃんのような掛け声を上げながらわっせわっせと瞬く間に土を掘る。この労働力には逆立ちしてもかなわない。若者ってスゴイ。人数がいるってスゴイ。人海戦術って実際これだけの短時間でこれだけの成果があるのか。
それにしても、男子も女子もみんなチームのように仲良く和気あいあいと作業をしている。手を動かしながらもぺちゃくちゃ話も止まらず楽しそう。
聞けば、ほとんどみんな個人で参加している大学生で学校も出身地もバラバラ。京都に本部を置くNPO法人でのボランティア募集に応募して、1週間単位で来ている。宿泊は?岩手県一関市にあるマンションをNPO法人が借り上げて、その部屋で共同生活してる。食事は?基本的に自炊で、食材はNPO法人が提供してくれるので、女子は交代で料理当番して、男子は料理が得意な子が作ってる。お昼ご飯はおにぎり作ったりして現場に持ってきている。お風呂も部屋にあるけど小さいので、近所の銭湯に歩いて行ったりしてる。
声が大きくて会話が上手で他の人達に役割分担をきちんと伝えていて、自分も真っ先にやるべき作業をやっている、こういう人がリーダーになるべき人なんだろうな~という雰囲気をかもしている女の子に、道具の片付け作業をしながら話を聞いた。何か皆さんすごいまとまってますよね。何度もボランティア経験があるんですか?
震災のボランティアは今回初めてです。最初来た日はやっぱりみんなバラバラで、NPO法人の人もバタバタしてて、何をどうすべきなのかよく分かんない感じだったんだけど、やっぱりこういう作業って指示を出す人がいないと効率悪くて先に進まないから。
この年になると分かるリーダー、指示を出す人の重要さ。特に他人同士の場では嫌われ役になりがちだけど、あえて嫌われ役を買って出る人も必要なのだ。ハリセンボンの春菜を痩せてかわいくしたようなリーダー役のあなたは偉かった。
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覚え書き11

「ボランティアするからってそんなに恐縮しなくてもいいと思うよ」
と、お世話になった現地の方のお言葉に何とはなしに救われた。
少しでもやれることあればやらせてもらいたいと思ったけど、かえって迷惑ではないだろうか。
被災現場に赴く前のそんな気持ちがふっと軽くなった。

「ふゆみずたんぼ」の復旧作業ボランティア。
「ふゆみずたんぼ」って単語。私は知人が関わっているので知っていたが世間一般的にはどうなのだろう。冬季に田んぼに水を張る。野鳥の飛来を促進し、糸ミミズなど水生生物を育み、生き物の力を借りて土壌を肥沃にする。農薬を使わずにお米を育てる。ふゆみずたんぼは農薬だけではなく肥料も使わない。
農薬や肥料の力に頼らずに作物を育てるということに、ボランティア云々ではなく共感した。

大谷のふゆみずたんぼは、大谷中学校の生徒さんをはじめ大谷小学校、幼稚園の子供たち皆で関わってお米を育てる。それが「ハチドリ計画」という教育の一環だということすら知らなかった。

「ふゆみずたんぼ復旧作業緊急募集」
ゴールデンウィーク中4月29日から作業開始のところを私は5月6日に行ったので、それまでのボランティアさんの労力により周囲とは一線を画すほど既にきれいになっていた。予定よりも早く作業が進んだので、当初は田んぼ1枚の復旧の予定だったのを結果としては合計4枚復旧したとのこと。

「たんぼのガレキ撤去」と言葉で書くと簡単だし「ガレキ」と書くとたった三文字だけど
巨大津波を被ったその田んぼからは、ありとあらゆるものが発掘された。
屋根の瓦。壁材の石膏ボード。電気コード。洋服。靴。食器。すり鉢。ボールペン。ソーイングセット。写真。雑誌。レコード。CD。任天堂DS。中身が入ったままの酒。袋に名前が書いてあった薬。そしてホタテ貝の殻。ムール貝。アサリ。アワビの殻。珍しいものでアルマジロのはく製。
スコップで土をすくうと、とめどなく出るガラスの破片。
「ガレキ」とひと口に言うけど、元々はこの土地で日々生活していた方達の家や家財道具だ。かけがえのない大切な思い出が詰まったものを「ガレキ」ではなく、何か他の言い方、ふさわしい言葉がないだろうか。という話を現地の方から聞いた。履歴「りれき」なんてどうか。「ガレキ」ならただ発掘してガレキ置き場に運ぶだけだけど、「暮らしの履歴」なら、発掘したものを吟味する余地が必要とされるかもしれない。
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覚え書き10

あれからちょうど1週間。
先週、気仙沼で2日間だけガレキ撤去のボランティアをし、翌日8日静岡に帰宅した。
今までと全く変わらない自宅での平穏な暮らし。1週間ぶりで庭の木々が緑色濃く輝いている。
初めて被災現場に足を踏み入れた時は「これ夢か?」と思ったけど、実はこの平穏な暮らしの方が夢に近いのかもしれない。
津波被災現場と、無事な地域と、あまりにも大きいギャップ。
あの被災現場では、何もかも無くした人、いまだ行方不明の人、一面ガレキの景色を毎日眺めて暮らしている人が多数いるというのに。こんな平和に普通に何事も無かったように暮らしていていいのかな。
戸惑いの気持ちが今でも胸にある。

気仙沼市南部、大谷海岸。
郷里仙台を離れてから、宮城県も町村合併が進んだ。宮城を離れて久しい私にとっては「本吉郡本吉町大谷海岸」の方がなじみが深い。ちなみに南三陸町も合併して新しく出来た町名なので、端的に「志津川」の方が分かりやすい。以前、遠藤周作(好きな作家)の関係で訪れた隠れキリシタンの里、東和町もいつの間にか南三陸町になっていた。

大谷海岸は電車の大谷海岸駅を降りるとすぐ目の前が海水浴場になっている。その駅に続く線路も、まるでミニチュア鉄道模型の線路を指でつまみあげたかのように、ひっくり返ったりくずれたりしていた。駅のすぐ横にある道の駅大谷海岸の建物は外観が残っていたが1階部分と窓ガラスは破砕。仮店舗で産直とラーメンの営業してて、お祭りの時に見かけるような仮設トイレが設置されていた。
ちなみに今回、沿岸地域に足を踏み入れるにあたって心配の種のひとつはトイレであった。いまだ水道が復旧していない地域、沿岸に近い場所の道の駅や公園などの公衆トイレは使えるのだろうか。スーパーやコンビニで買い物してトイレを借りる、と言ってもそもそもお店は営業しているのだろうか。
極力「キジ打ち」で現地を汚すことは避けたい。最悪の場合「ジップロック活用」の覚悟であった。が、とりあえず今回車中泊した道の駅林林館と道の駅米山のトイレは普通に使えた。ただ、林林館の女子トイレは通常であったが、男子トイレは大の方が故障していたようだ。早朝から自衛隊の人達がたくさん立ち寄っていたが車椅子用のトイレに並んでいた男性の方が多かった。そういえば数年前、新潟中越地震の少し後に新潟の道の駅を通った時に、たまたま道の駅のトイレ掃除担当の方と話した。地震直後は水道が止まり、道の駅に用を足す人が殺到してトイレが大変なことになり、その掃除が言葉で言えないほど大変だったという。
いざという時のトイレ問題は切実な課題。山登りする人はトイレ袋を持ち歩く。
今回は訪れた避難所の小学校、体育館、大谷中学校、すべて仮設トイレが設置されていた。

津波をかぶった田んぼのガレキ撤去作業。そのボランティア募集は、同行した南三陸町でのジャズピアニカコンサートをコーディネートされてたNPO法人の方に教えて頂いて知った。これって1日とか2日だけでもいいですか?いいです。女でも出来ますか?出来ます。
でも果たしてお役に立てるのだろうか、邪魔にならないだろうか、足を引っ張るだけではないだろうか・・・未経験の被災地ボランティア。でもやっぱり参加を決めた。
今回初めて南三陸町の現場に足を踏み入れた時、トンカチで頭をガンと殴られたようなショックを受けた。でも、いつでもどこでも初めて体験することは必要なのだ。やったことのないことに取り組んで、例え相手に迷惑をかけようとも。

結論として言えば。
たった二日だけ。中年女子の非力な力での肉体労働。それでも参加して良かったと心から思う。
今回の自分のボランティア作業を、静岡における何かに例えて言うなら、富士山頂上までの長い長い登山道のうちのたった1mをきれいに掃除して整えて、という作業だろうか。
たった1m。登山者が1、2歩、歩を進めればそれで終わり。だから何?
でも、1mきれいにする人が50人集まれば?50人が何日も作業を続ければどうなるか?
「人手」「労働力」「人海戦術」
そのすごさを今回のボランティア作業に参加して目の当たりにした。

と同時に私は、微力だけど現場でボランティア作業してお役に立った、というよりも
実はものすごく自分にとって意義のあることに加担させて頂いたという気がする。
帰宅してから、同じ現場で作業した他のボランティアさんの報告ブログを拝見してその気持ちが一層強くなった。
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覚え書き9

神戸を拠点にライブ活動されている「ネイチャーボイセス」の皆さんは阪神大震災を体験されている。
地震で破壊された街を歩いている時にガレキの中に捨てられたピアニカを見つけて以来、ピアニカでのジャズ演奏に取り組んでいるという。
ピアニカでジャズ?ってどんなだろう。と思ったけど初めてライブに行った去年、どこか郷愁を誘う音色はすんなり心に染み入った。構造も音も和楽器「笙(しょう)」に似たピアニカ=鍵盤ハーモニカ。
世の中には偉い人達がいるもんだな~と震災が起きて以来何度何度も思ったけど、この方達もしかり。
津波で家も物も失った子供達にピアニカを届けたい、と150台ものピアニカを集めて神戸から車で駆け付けて来られた。

「ネイチャーボイセスの方達がちょうど今東北自動車道を北上中で福島にいる」という情報を、長野に住む共通の知人が携帯で教えてくれた。折良く私達もちょうど福島にいた時。
その知人の一報のおかげで、ネイチャーボイセスの皆さんと宮城の菅生PAで待ち合わせてご挨拶することが出来た。ちょうど同じ日の同じ時間、ほぼ同じエリアの東北自動車道を走行中のこと。狙ったようなジャストタイミング。

翌日、南三陸町の現地で待ち合わせ。避難所で演奏される。
間に入ってコーディネートしているNPO法人のスタッフの方に「何かお手伝いできることありませんか」と言ったら「チラシを作ったので配ってほしい」
小学校の体育館。避難所に一歩入るのもこれが初めて。思ったよりも人が少ない。「昼間は仕事に行ったり家を片付けに行ったりして外出している方が多いから」とのこと。チラシもすぐに行き渡る。
東京から来られたという若いボランティアさんにも「もしお手すきの時間あったら聴いてって下さい~」と声をかけてみた。「ここの体育館でやるんですか?」「いや、別棟の空き教室です」「今ここにいるのはご高齢の方が多いから、歩いてそこまで行くのもしんどいかもしれません」
でも、そのボランティアさんが手を引いてご高齢の方たちを会場まで連れてきて下さった。

演奏が始まる前のリーダーさんのお話。
「僕達は阪神大震災を経験しました。道路も破壊され、車の通行もままならない状況の最中、真っ先に救援物資を運んでくれたのは宮城からの大型船でした。あの時助けて頂いた恩返しをしたいと思ってここに来ました」
・・・宮城からの救援船。知らなかった。そうだったのか・・・
ちなみにこの前日に彼らは気仙沼市で演奏された。
その場に「阪神大震災の時に救援物資を運んだ船に乗船していたよ」と申し出た漁師さんがおられたとのことだった。

穏やかな音色が戸を開け放った小学校の教室から廊下まで静かに響き渡る。物資を運んで廊下を行き来していた人も足を止めて聴き入っている。
涙を流しているご年輩の方のお顔を見ていられず、思わずうつむいてしまった。ここで私が泣いてもしょうがない。娘さん二人、ピアノを習わせていたんだけどそのピアノも家毎流されてしまった。と。

5月11日。震災からちょうど二カ月。
この南三陸町志津川で集いがあった。その様子をユーストリームで配信された生中継映像をネットで見てた。
仙台出身のギター奏者さんと声楽家の方の演奏「アメイジンググレイス」「オンブラマイフ」が流れる中、キャンドルを持って海に向う現地の方達の情景。涙無しには見ていられない。
人の心を鎮める音楽。生き抜いた人の心も、亡くなった人の心も。滞ることなく確実に時は流れる。
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覚え書き8

ほんの一、二歩程度津波被災地現場に足を踏み入れただけで分かった気にならないように。
と思うと、ここに言葉で記すことも何となく躊躇してしまう。
でもやっぱりありのままに自分の目で見たことを記録しておこう。

今回初めて東北沿岸地域の津波被災現場へ足を踏み入れたのは、実家のある仙台市宮城野区ではなく、3月11日に生中継で津波を見た仙南の名取市でもない。(地震後ずっとテレビをつけっぱなしにしていた。ヘリコプターから生中継されたテレビの映像は、名取川とその近辺を遡上してくる津波第一波の様子だった。見知った地域の家もたんぼも畑のビニールハウスも全てのみ込んでいく津波の様相を生で見た時は体中の血の気が引いた)

宮城県北部の南三陸町志津川。
人づてに顔見知りとなった、神戸で音楽活動しているグループ「ネイチャーボイセス」の皆さんが、被災地の避難所でコンサートを行うために宮城へ向かって北上中ということを知人からの携帯電話で知り、途中で待ち合わせてご挨拶した。車1台で5人の移動、テント泊もする覚悟、ということで、もしかして何かお役に立てることがあるかもしれない、と同行させて頂くことにした。
早朝6時に仙台を出て現地で待ち合わせ。沿岸を結ぶ国道45号は渋滞や通行止めの可能性があるので、高速で築館まで北上して伊豆沼経由で内陸ルートで入った。白鳥飛来地として有名な伊豆沼、その後も穏やかな農村風景が続く。普通に草刈りしてたり鍬をふるって畑仕事をしている人の姿も目につく。一見何も変わらない日常の暮らし。民家と豊かな田園風景に心が和む。

だいぶ西へ進んでゆるい山道になった。いくつかのカーブを過ぎてちらりと見えたガレキ。あれ。あそこガレキ置き場があるのかな。そう思ったのはたった一瞬。直後、まさか、という風景が視界一杯に広がった。まるで国境線を越えて別の国に来たかのよう。
「線を引いたかのように」と話で聞いていたけど本当にそんな感じで、この線の向こうは一面ガレキの世界。自分の目を疑った。そして正直ぞっとした。木、竹林、建物、車、家財道具、ありとあらゆるものがありえない姿になっている。行き交うのはほとんど自衛隊の車。これは戦場ではないか。

津波被災地状況はテレビで散々見てきた。鉄骨がむき出しになったスーパー、ぐしゃりとつぶれて反転した車、根こそぎ横倒しになっている大木、砕け散ったコンクリート。その情景はテレビで嫌というほど見て、頭の中で想像はしていたのに。
あまりにも印象が違った。他人の目線で切り取られた画像と自分が現場に立ち自分の目で見るということは。
こんなにひどい状態になったんだ・・・そして海から離れたこんなところまで津波が押し寄せてきたんだ・・・
現実を目の当たりにして言葉を失った。ありとあらゆるもの全てが破壊されていた。
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