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父親・兄貴達に居直る

 

父親、兄貴たちに居直る。

                                                       7回

俺もまともに生きていたら、じいさんみたいに実業家になっていたかも知れない。で、事業をアメリカなんかに拡大して大儲けしてたかもな。

 じいさんの奥さんつまり俺のばあちゃんは田舎ものだし、爺さんがそこまで出世する前に一緒になってるから、そのままずっと田舎にいて、東京にはお妾さんというのがいたんだよ。

 この人が才覚のある人で、じいさんの財産も、入ってくる金も、一人で切り盛りしてたんだ。常に上席、うちのじいさんの横に座ってたらしい。最後はのんびり暮らして80歳ぐらいまで長生きしたんじゃないの。

 浦和市にじいさんに買ってもらった立派な家があって、子供と住んでたよ。俺は10歳ぐらいになって初めて顔を見たんだけど、うちの親父は「浦和、浦和と言っちゃあ、よく出かけてたし、兄貴たちも就職かなんかでずいぶん世話になっていた。家族みんなが親しくしてたから、ばあちゃんが死んでからは浦和が分家みたいになってね。だから俺もいろいろ思い出はあるよ。

でもよその子や孫の面倒を嫌がらないどころか,むしろ進んで世話を焼いていたんだから。このお妾さんも豪傑だったよな。

 親父なんかは「和吉、和吉」と呼び捨てにされてさ、「おいこら、和吉、お前はもっとしっかりしろ」ってよく叱られてたよ。

 東京にいた若いころからそうだったみたいだから、親父はお妾さんにはブルッテいた。怖がってたね。

 だからさ、酒飲んで自分の母親に因縁つけたり、いじめたりしていたことは最低だけど。親父がそんなことを出来る相手は結局ばあちゃんしか居なかったという言うことなんだろうな。

 そのばあちゃんが死んでからも、俺は何かにつけて兄貴や親父らにいじめられてきたんだ。けど、俺も中学にもなるとちょっと体力が出来てきたもんでさ。

 いつかこの親父や、兄貴らに「居直ってやろう」と思ってたわけだ。いつかはガツンとやってやるって力を蓄えていた。

 それで中学1年の時、兄貴たちに何かでひっぱたかれた時に後ろから竹の棒かなんかで頭をバーンとやって。それからはあんまり苛(いじ)められなくなった。

 そう云うのが、「居直る」ってことなんだ。

 親父に居直ったのはその少し後だったかな。何かで「ガン」とやってきたから「何!」と言ってガツンとやり返したんだ。

 親父はその頃55,6歳なもんで、そろそろ体力も落ちてきたんだろう。「あこれはちょっとヤバいな」と思ったんじゃないか。

 それ以降親父はだんだん俺になついて来て、「ただまっちゃん、ただまっちゃん」なんて言い始めてさ。

 学校にも迎えに来たりして、俺の機嫌を伺うようになったんだ。それに兄貴たちは年が離れているから、俺が中学に入る頃には、みんなどんどん家から離れて行った。

 そうなると、その1000坪ぐらいの家の中で、俺と親父が二人きりで残ることになる。1対1で俺まで出て行ったら寂しいというのもあったんじゃないかな。

 当時の俺の気持ちは、戦国時代の下克上見たいなもんでさ。親であろうと兄貴であろうと手下にしちゃえば簡単なもんだと思ったんだな。闘争心もあったしね。

 あれが俺のチンピラ人生の始まりだったんだろうな。

 ただ云っとくけどそこに憎しみはなかったんだよ。小学校の間中ずっと、ああいう抑圧された環境の中で育ったから、その反発が大きく出ただけのことで、抑圧が大きければ大きいほど、「クソ親父」「クソ兄貴」という反発心が膨らんでいっただけだ。

 世の中みんなそうだろ?中国がチベットをイジメてる今の問題にしたって、会社の上司や、オーナーに対する社員の不満だってさ。人間はみんな大なり小なり、抑圧されりゃあ反発するんだよ。

 抑圧されっ放しでじっとしてたら、これは荷馬車引きみたいなもんでさ、一生、浮かばれんわ。

  続く

 

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