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山縣友子・三・

友子は結婚後、何時とは無しに和歌をしたためるようになったという、
結婚当初から夫と離れて暮らすことが多かった為だという、二人が一緒に住んで間もなく、子をもうけたが、四人の子を次々と失い、どんなに愛情を注いで育てても、子供は自分の手を離れて逝ってしまう悲劇に遭った。

ある日仕事から帰った夫に
「これ以上悲しい思いをしたくないので子供を生みたくありません。どうか、他の女性に跡継ぎを生んでもらって下さい」と泣きながら懇願したが、夫は相変わらず、

『お前以外に子を生ます事など考えても居ない』と友子を慰めたという。
事実、山縣は女性問題に関しては身をきちんと正していた様だ。

昭和38年から発行の新千円札に伊藤博文の肖像画が乗ったが、とかく女性問題の多かった伊藤博文よりも妻を大事にした山縣有朋の方が良かったのではないかと今にして思うのだが、何でも造幣局の関係者が『伊藤博文の人柄よりもヒゲが一番印刷に適していたから選ばれたのだ』と言うのだからその意味では納得できる。

さて、次々に六人の子を亡くした山縣友子はたった一人生き残った次女松子が嫁いだ後、ある年の正月7日、早世した子を思い“七草を摘むにつけても過ぎし子の年をはかなく数えつるかな”

と寂しい母心を詠んでいる。内閣総理大臣という公務に忙殺され、激務で留守勝ちの夫、山縣有朋の妻として精一杯生きたが、明治26年9月42歳という余りにも若くして逝ってしまった。

山縣はこの時55歳だったが、跡継ぎの養子を向かえ、自らは友子亡き後、決して妻帯しなかったのである。友子だけを大事にすると誓約書を書いて石川の家に結婚の許しを乞いに出かけた彼の心情は紛れも無く本心だったのである。山縣は内閣総理大臣の職を辞した後も元老中の元老として活躍しながら庭園作りにいそしみ、

目白の椿山荘:18000坪
小田原の古希庵10000坪
山口萩の無鄰菴10000坪

の庭園が山縣有朋の三大銘園として知られるが、なによりも妻という一人の女性を大事にし、妻の死後も尚、30年間独身を通した信念には心から畏敬を覚える。

伊藤博文、黒田清隆などは山縣有朋のヘソのゴマを煎じて飲めばよかったのだ。低い出自から大栄達を遂げることが出来た山縣には友子という内助が有っての事だったかと改めて思い起こされるのである。(完)




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