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川路利良・ニ・

川路は日本から持っていった新聞紙を座席の上に敷き、仕方なく、その上に排便した。まさに出物、腫れ物ところ構わずを地でいくような状況だったのだ。

用を足した産物を新聞紙に包み、窓を開けて直ぐ列車の外へ放り投げたのである。待ったなしの状況で慌てて排便したのは解るが、最後が肝心で窓を開けて捨てるときは良く車外を見て放るべきだった。

運悪く線路脇で列車の通過を待っていた保線作業の工夫に当たってしまった。宝くじならいくら当たっても構わないが、川路利良の『大の字がつく産物』だったからたまらない。怒った工夫は地元警察に産物を持ち込んで訴え出た。

犯人が日本人である事は一目瞭然、何せ日本から持ち込んだ新聞紙ゆえ、川路利良の犯行と直ぐバレてまった。このことは地元新聞に大きく取り上げられ、

『大便投擲(とうてき)事件』と大騒ぎになったという。まさに日仏間の大・事件になったのだ。

さてこの川路利良はまれに見る大凶名で有りながら、政権の側に食い込めたのは、薩摩出身者である事と、京都・禁門の変〔ハマグリご門の変〕で挙げた戦功で早いうちから西郷隆盛と大久保利通に高評価されて気に入られた事に起因する。

西郷と大久保の二人が対立した時には大久保側に付いて、西郷と戦ったためである。『運気は弱いが、行動力抜群の資質と智恵才略の優れた人物』ということが出来る。

西南戦争前には薩摩に密偵を送り、薩摩藩内部の乖離作戦を練るなど、川路の得意とする戦略を駆使し,明治10年西南戦争開始に至るや、警視庁抜刀隊を率い薩摩軍を次第に追い込んで行った。

大久保利通の計らいで、川路は急遽薩摩から東京へ引き上げた。
明治11年5月に旧福井藩士島田一郎らによって、大久保利通が暗殺された後、彼は後ろ盾を失ったが、軍部や警察における川路利良の立場は全く揺ぎが無かったのである。

明治12年1月、船で欧州へ向った川路はフランスについて体調を崩し、入院を含む治療を続けたが思わしくなく、その後8月24日に日本郵船の「ヤンセー」号でフランスを立ち、10月8日に帰国、体調優れず直ちに入院、5日後の10月13日、46歳で逝ってしまった。

一説によると関西の政商、藤田組が汚職の捜査を恐れて川路を毒殺したという噂が流れたが、このころの噂は事実のケースが多かったようである。川路利良は川路利良なりの立ち場で職務にまい進したはずであるが、余りにも運気が悪すぎたとしか言いようが無いのである。

口さがない者達は、西郷隆盛や、黒田 清の恨みだとか、大久保利通が寂しくて迎えに来たとか言っているようだが、それも一理はある・・・(完)


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