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世界の音楽 — 米メンフィス

2023-04-30 17:37:48 | 世界の音楽
テネシー州メンフィス市は内陸部にあるが、大河ミシシッピーに面しながらも洪水の影響を受けない丘の上に築かれ、19世紀に綿花の集散地として発展する一方で奴隷市場が開かれるなど人・物・金が集まる港湾都市の性格が強い。

20世紀に入るとメンフィスは世界最大の綿花と木材の集散地となる。エドワード・ハル・クランプは1910年から54年までの非常に長い間、メンフィスの市長もしくは事実上市長を任命できる立場にあり、マシーン政治(マシーン=集票機械)と呼ばれる米国都市の利権・猟官制に基づくボス支配を象徴する人物の1人であった。

マシーン政治の要は徴税・公共事業やその権限を持つ役職を通じた利権である。 公職にあることで便宜を図り、それに関連して時には賄賂を受けることができる。マシーン政治は理念や政策論争による政治からの逸脱であり、「持ちつ持たれつ」的な談合と縁故主義が幅を利かせる「人治=法治の対義語」の闇がすべてを覆う。日本の自由民主党は都市圏周辺地域や農村部で農協や公共事業を通じたマシーンを有する。 


Memphis Jug Band / Stealin', Stealin (1928)
Memphis Jug Band / Cocaine Habit Blues (1930)
1920年代のメンフィスでウィル・シェイドを中心とするワイルドなストリート・ミュージシャンたちは日用品から楽器を作り、水差しを吹くと重いリズムのベース音が鳴るようになるなど独自の工夫を凝らした。彼らは史上初の黒人ポップグループ「メンフィス・ジャグ・バンド」を結成、さまざまなレパートリーを持つようになる。AMERICAN EPICというドキュメンタリー映画のシリーズでラッパーのナズは、メンフィス・ジャグ・バンドが後のR&Bやヒップホップの青写真を作ったことを1928年の曲On the Road Againを例に挙げて讃える。カントリーと黒人音楽の両方で意欲的な才能発掘と録音を行ったラルフ・ピアは彼らの曲を商業化し、続々と才能が現れてメンフィスを音楽産業の拠点として確立させた。


Bukka White / Parchman Farm Blues (1940)


Memphis Minnie / Me and My Chauffeur Blues (1941)


B.B. King / 3 O'Clock Blues (1950)


Jackie Brenston and His Delta Cats / Rocket 88 (1951)


Joe Hill Louis / We All Gotta Go Sometime (1953)
Elvis Presley / That's All Right (1954)
Elvis Presley / Mystery Train (1954)
Johnny Cash / Folsome Prison Blues (1956)
Bill Justis / Raunchy (1957)
Carl Perkins / Matchbox (1957)
サム・フィリップスは、アラバマ州の農場で8人きょうだいの末っ子として生まれた。両親は農場所有者であったが抵当に入っており、子供のころ彼は両親や黒人労働者と一緒に畑で綿を摘んだ。黒人労働者が畑で歌っているのを聞いた経験が若いフィリップスに大きな印象を残す。1939年ダラスの教会に行く途中でメンフィスを旅したとき、彼は家族から離れて街の音楽シーンの中心であったビールストリートを見た。「完全に恋に落ちた」と後に述懐している。

1950年にメンフィスで録音サービス事業を始め、BBキング、ハウリン・ウルフといった後に著名になるブルースを録音、フィリップスが51年に録音したアイク・ターナーの作曲とリードによるジャッキー・ブレンストン&デルタ・キャッツのRocket 88が最初のロックンロールのレコードとされており、やがてこの録音事業がサン・レコードとしてエルヴィス・プレスリーやジョニー・キャッシュをはじめとするロックンロール音楽大流行の発信源となる。彼はジャンルを問わなかった。「ブルースとは、白人黒人問わず人生はいかに難しいかそしていかに素晴らしいかを考えさせる。ブルースは音楽でありながら、祈り、諭す。毎日毎日やって来る困難を取り除く」 「新たな独特なアーティストの育成、音楽業界の自由性、まだ売れていない歌手を世に送り出すためにふらりとやって来た」と語っている。


Bobby "Blue" Bland / Lead Me On (1960)


The Mar-Keys / Last Night (1961)
Carla Thomas / Gee Whiz (Look at His Eyes) (1961)
Booker T. & the MG's / Green Onions (1962)
Eddie Floyd / Knock on Wood (1966)
King Curtis / Memphis Soul Stew (1967)
Aretha Franklin / Call Me (1970)
メンフィスの小さなレコード会社から出たルーファスとカーラ、トーマス父娘のレコードがアトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーの目に留まり、同社から全国的に販売されたGee Whizがヒット、メンフィスのレコード会社はスタックスと改称し、アトランティックが全米に配給することになる。

スタックスのスタジオ・ミュージシャンは白黒混合であった。約半数が黒人で他は田舎出の白人だった。例えばスティーブ・クロッパーはミズーリ州オザークからメンフィスにやってきた。こうしたミュージシャンの融合は、何世代にもわたって南部のるつぼであったメンフィスでしか起こりえず、おそらく60年代半ば、人種統合がまだ信じられる政治目標であると思われていた時期にしか起こりえなかった。さらに理念よりも黒人と白人のセッション・プレイヤーの音楽的背景が似ていたことで促進された。ブッカー・T・ジョーンズが学校に行っている間アレンジとキーボードを担当したアイザック・ヘイズは「私が育ったテネシー州では、ラジオから流れるのはカントリーミュージックばかりだった」と後に回想している。白人ミュージシャンたちは黒人の近くに住み、ブルースやR&Bに親しみ、白人も黒人もスタックスのシンガーたちのモデルとなった原理主義教会の礼拝に参加したり間近で見たりしていた。


William Bell / You Don't Miss Your Water (1962)
曲自体はC&Wのバラードと見紛うばかりだが、ボーカル、ピアノのアルペジオ、ホーンが奏でるオルガン風のコードなどはブラック・ゴスペルの流れを汲んでいる。このように白人の歌の様式、黒人のボーカル手法、素朴なアレンジ、純粋でエレガントな表現の組み合わせは、その後数年間にメンフィスで制作された名曲のほとんどを特徴付けることになる。

アトランティック・レコードのエンジニア、トム・ダウドは1965年初めにオーティス・レディングのセッションに参加するためにメンフィスを訪れた。7月にはジェリー・ウェクスラーも続き、デトロイトからゴスペルに根ざしたファルコンズの元リード・ボーカル、ウィルソン・ピケットを連れてきた。スティーブ・クロッパーは、ピケットのステージ上のセリフWait for the midnight hour, babyを曲のモチーフとして、スタジオでシンガーに手伝ってもらい完成させた。このIn the Midnight Hourをはじめ、彼らのセッションで作られた曲は典型的なメンフィスR&Bの域を超え、インターナショナルなソウルスタイルを確立する。


James Carr / The Dark End of the Street (1967)


Otis Redding / Hard to Handle (1968)



Isaac Hayes / Walk On by (1969)


Charlie Rich / A Woman Left Lonely (1971)


Big Star / The Ballad of El Goodo (1972, Live 1994)


Ann Peebles / I Can't Stand the Rain (1973)


Al Green / Take Me to the River (1974)


Justin Timberlake / Cry Me a River (2002)


Three 6 Mafia / Stay Fly (feat. Young Buck, Eightball & MJG) (2005)


Julien Baker / Hardline (2021)

◎スタックス以降の項はロバート・パーマー(ミュージシャンとは同名異人)がThe Rolling Stone Illustrated History of Rock & Rollに執筆した"The Sound of Memphis"から、それ以外はウィキペディアから引用・構成しています。
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