マガジンひとり

自分なりの記録

レッキング・クルー

2020-11-26 17:58:12 | 音楽
私のうつは完治したわけでなく、まだ就眠前に軽い薬を服む必要があり、精神科クリニックで処方してもらうため4週に1度通っている。必ず次回の予約をして曜日時間は決まっているがたまに長く待たされることが。おそらく直前に初診が入り、患者の話を聞いているのだと思う。心の病は長くかかり、おもに投薬と時間が治すが、この「話を聞いてあげる」だけでも人間の臨床医が不可欠だ。世間からないがしろにされ、生きる喜びや希望を失っている人がほとんどであるから、長い話を聞いてもらうことは回復の第一歩なのである。まあ堀江貴文とか小林よしのりとかのガサツなBAKAには分らないことでしょう。

世間はコロナのため殺伐の度を増しており、先日も私のふるさと幡ヶ谷で、派遣切りからホームレスの身となった女性がバス停で寝ている間に近所の男に撲殺されるという事件が。所持金が8円で、メモに親戚などの連絡先がビッシリ書かれていたとの報がひとしお悲しい。家族や親戚に、あるいは生活保護の制度に助けを求めることなく死んでしまった。これは報じられた事件であるが自殺という形でひっそり消えていく人も増えている。東京は金があれば便利な街だが、お金のない者も東京に集まらざるをえない日本は本当に貧しい国に転落してしまった。



♪夢でもし逢えたら~ステキなことね~ ボーカルと作曲はともかく、カスタネットがうるさ過ぎる大瀧詠一の編曲はいただけない。大瀧や山下達郎が50~60年代の米ポップスに偏執的にのめり込むことは、ジャニーズ事務所や秋元康系のタレントにテレビで接してきた30~50代の女たちが抗議することなくひっそり死んでいくこととつながるのであろう。

レッキング・クルーはロサンジェルスを拠点とするスタジオ・ミュージシャンたちの呼び名。60~70年代にチャート入りした多くの楽曲で演奏を務めた。ポップス系ソロ歌手のバック演奏だけでなく、たとえばバーズ、ママス&パパス、ドアーズといった「ロック」とされるグループにおいて正式メンバーに代わってレコーディングの時だけ演奏する役目をこなすこともあった。この時代、音楽は映画がそうであるように、会社が出資して人を集めて作るものだったのである。英国のビートルズがオーディションで落とされたという有名な逸話も、会社が主導で作る時代、ビートルズの新しさを見抜けなかったというより、自分たちの言うことを聞く従順な若者を求めるのが業界の常識だったという面もあるのではないか。




Ritchie Valens / La Bamba (1958 - The Wrecking Crew)
Nino Tempo & April Stevens / Deep Purple (1963 - The Wrecking Crew)
Chris Montez / Let's Dance (1962 - The Wrecking Crew)
Tommy Roe / Dizzy (1968 - The Wrecking Crew)



The Routers / Let's Go (Pony) (1962 - Rock Instrumental classics, Vol. 2: the '60s)
ルーターズの正体はノヴェルティ・チューンLet's Goを録音するためプロデューサーのジョー・サラシーノが集めたLAの腕利きスタジオ・ミュージシャンたちで、3年間で4枚のアルバムをリリースしたが、ライブやアルバム・ジャケット撮影用に組まれたツアー・バンドのメンバーがスタジオで演奏することはまったくなかった。



The Crystals / He's a Rebel (1962 - The Essential Phil Spector)
Ike & Tina Turner / River Deep - Mountain High (1966 - The Essential Phil Spector)



The Marketts / Out of Limits (1963 - Outer Space, Hot Rods & Superheroes: the Best, the Rarest and the Unreleased)



The Byrds / Mr. Tambourine Man (1965 - Mr. Tambourine Man)
フォークロックのブームに火を付けたバーズの1stシングルMr. Tambourine Manはロジャー・マッギンのギターを除いてレッキングクルーたちが演奏を務めた。バーズが結成された当時ドラムスのマイケル・クラークはドラムセットを持っておらず段ボールを叩いて練習していたという。



The Mamas & the Papas / California Dreamin' (1966 - If You Can Believe Your Eyes and Ears)



The Beach Boys / God Only Knows (1966 - Pet Sounds)



The Doors / The End (1967 - The Doors)



The 5th Dimension / Up, Up and Away (1967 - The Essential 5th Dimension)



Glen Campbell / Wichita Lineman (1968 - Rhinestone Cowboy: the Best of Glen Campbell)



Hamilton, Joe Frank & Reynolds / Don't Pull Your Love (1971 - Have a Nice Decade: the '70s Pop Culture Box)



ハリウッドの音楽界は映画と放送の影響下に発展してきた。撮影所と放送局がこの土地に集中していたおかげで、そのインフラストラクチャーの一部としてレコード会社や録音スタジオも整備されたのである。ハリウッド映画の黄金時代は1920~40年代半ばのことで、メジャー映画会社は製作と配給と上映(劇場チェーン)を一手に収め、映画市場をコントロールしていたが、40年代終りの反トラスト法訴訟による劇場チェーンの分離と50年代前半に起きたテレビの急速な普及により独占が崩壊してしまう。

音楽界のスタジオシステムはこのあとを受けるかたちで、50年代終りから基盤を整え、60年代に確立し、70年代に崩壊していく。ハリウッドに限らずメジャーな娯楽はどこでも同じようなものだが、この時代の音楽は会社が主体になって作っていた。現在「プロデューサー」と呼ばれる職種はかつて「A&R」と呼ばれ、これは「アーティスト&レパートリー」すなわち歌手と楽曲を結び付ける役割で、企業側の一員として誰にどの曲を歌わせるかを差配した。

この時代のハリウッドがニューヨークやナッシュヴィルといった他の音楽センターより際立って魅力的だったのは、映画とテレビの仕事が豊富にあることで、それが優秀なミュージシャンを引き寄せ、アメリカ音楽家組合LA支部のミュージシャンだけで常時300~500人ほど存在したのである。 —(鶴岡雄二/急がば廻れ'99/音楽之友社2002)


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