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日本幻景 #21 — ホーロー看板広告

2017-05-28 19:07:54 | Bibliomania
明治時代、西洋からの新技術の導入や産業の発展により、木製が主流だったわが国の広告看板にトタンや鉄などの素材の利用が始まる。中でもホーロー(琺瑯)は、金属材料にガラス質のうわぐすりを焼き付けることで、耐久性にすぐれ大量生産も可能になったことから、全国どこでも見ることができる風景の一部として広まっていった。↑のシンガーミシンは明治33(1900)年に米国から日本へ進出したメーカーで、高価なミシンを買ってもらうため月賦販売を行い、上流家庭や洋服屋などを購買層として日本に洋服文化を根付かせた




中将湯は(株)ツムラ創業以来100年以上のロングセラー婦人薬。大正ロマン画家として知られる高畠華宵(たかばたけかしょう)は明治43(1910)年から昭和初期まで同社の広告デザインを手がけた




大正8(1919)年に発売されたカルピスは同11年より「初恋の味」とのキャッチコピーを使用。看板の絵柄は創業者の三島海雲が第一次大戦で窮乏する欧州の美術家救済のためポスター案を募集し、ドイツの画家オットー・デュンケルの応募作が採用となった




福山ゴムの運動靴・ゴム靴・ゴム草履。さまざまな商品種別に販売店・特約店・代理店などが設けられ、昭和期の商店の軒先を賑わせた




郵便局じゃないけど切手などを売ってますよと知らせる看板、あちこちで見かけましたな




商社・野崎産業の食品部門(現・川商フーズ)が昭和25(1950)年に初めて国産のコンビーフ缶詰を販売したとのこと。私は野崎祐一といいますので、いまもあるノザキのコンビーフを親戚のように思っております




テレビの普及とともに、茶の間の有名人がホーロー看板に登場。アース製薬(株)のハイアース=水原弘、アース渦巻=由美かおるは現在でもたまに見かける




オロナミンCは喜劇俳優の大村崑による「おいしいとメガネが落ちるんですよ」のCMとともに昭和40(1965)年の発売以来広く親しまれた。宣伝力アップのため左下に人気アニメの主人公を併用




明治37(1904)年に煙草専売法が施行、昭和60(1985)年の専売公社民営化までたばこは国家管理に。ホーロー看板でも最も数が多いとみられる。私の疎遠になっている父方の伯母がたばこを商っていた。元は黒川といい旗本の血筋だったが、父母(私の祖父母)を早くに失い、長男・長女・次男(私の父)の三きょうだいは苦労ののち次男が野崎家の養子に。3人とも家族を持ったが長男・次男(父)は自殺、長女(たばこ屋の伯母)の一人息子はアサヒビール傘下の広告会社で成功しているらしいが、きょうだいそれぞれ疎遠なままの怖ろしい家柄である




戦前の観光絵はがき、愛媛県三島村(現・西予市)の喜久屋商店。全国津々浦々、ホーロー看板の存在が、中央集権的資本主義の完成を示す。やがて昭和も終りに近づく50年代、商品サイクルの短期化、スーパーや量販店の増加と小売店の減少、景観美化意識の変化などに伴い、ホーロー看板広告もその役割の終焉を迎えることに。

画像はすべて国書刊行会から2008年に出された『日本ホーロー看板広告大図鑑』より。収集家の佐溝力さんが長年各地を訪ね、交渉して譲ってもらった2千点を超えるコレクションから精選。ブリキのおもちゃ博物館館長・北原照久氏は「コレクションというのは、ものの存在、ものと出会うタイミング、コレクターの情熱など全てがマッチしなければ不可能です。これだけの数を集めるのは大変だったと思いますが、僕には一枚ごとに佐溝さんが一喜一憂していた様子が目に浮かび、手に取るようにわかるのです」との賛辞を捧げている



日本ホーロー看板広告大図鑑―サミゾチカラ・コレクションの世界
佐溝 力,平松 弘孝
国書刊行会
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