マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

ジャージー・ボーイズ

2015-03-25 19:54:17 | 映画(映画館)
Jersey Boys@目黒シネマ/監督:クリント・イーストウッド/出演:ジョン・ロイド・ヤング、エリック・バーゲン、マイケル・ロメンダ、ヴィンセント・ピアッツァ、クリストファー・ウォーケン/2014年アメリカ

成功から最も遠い場所で、伝説は生まれた―
彼らが生まれたのは、犯罪が日常茶飯事の、ニュージャージー州の貧しい地区。抜け出すには、軍に入るか、マフィアになるか、有名になるかしか手段がない。
フランキー・ヴァリら金もコネもない4人の若者は、神から与えられた歌声と、曲を作る才能、そして見事に息のあったハーモニーを武器に、スターダムにのし上がる。
しかし強い光には濃い影が差す。待っていたのは、リーダーのトミーがこしらえた、100万ドルもの借金、そしてフランキーの娘のドラッグ渦・・・。それでも歌い続ける彼らが、再び迎える栄光の座。

巨匠クリント・イーストウッド監督がブロードウェイで大ヒットしたミュージカルを映画化。ニュージャージーの貧しいイタリア系移民として生まれ育ち、見事な歌声を武器にスターダムをつかんだ4人の若者の栄光と挫折を描く。




♪あっ、ちん毛~~
ビリー・ジョエルのUptown Girlは、伊集院光にはこう聞こえるとのことだが、この曲を含むアルバムAN INNOCENT MANは往年のアメリカン・ポップスへのオマージュとして作られ、中でも強烈な印象を与える同曲はフランキー・ヴァリとフォー・シーズンズの音楽を模範としたものだという。

彼らの全盛期より遅い1970~80年代に洋楽と出会った私にとって、フォー・シーズンズの音楽は、このように間接的に、他のアーティストによって知らされるものであった。
Silence Is Golden⇒トレメローズ、The Sun Ain't Gonna Shine (Anymore)⇒ウォーカー・ブラザーズ、Bye Bye Baby⇒ベイ・シティ・ローラーズ、Working My Way Back to You⇒スピナーズ、そしてCan't Take My Eyes Off You⇒ボーイズ・タウン・ギャングというように、原曲よりカバー曲の方が圧倒的に流布し、フォー・シーズンズという名も知らぬ間にその音楽を脳裏に刻み付けたのだ。

エルヴィスやビートルズのような、反発をも招くような斬新で挑戦的な音楽ではない。
しかし優美で、親しみがあり、はっきりと記憶に残る個性がある。
映画の中でそれらを見るに、楽器を持ったロックバンド形式でありながら、グループで一致した振りがあり、テンプテーションズやミラクルズのような黒人ボーカル・グループのようでもある、やや折衷的なスタイルだったことが、自ら作曲して成功したわりにアーティストとしての認知が低かったり、人気が去るとレコード契約にさえ苦労するような浮き沈みにつながったのではないだろうか。




↑映画でフォー・シーズンズを演じた4人の俳優と、右端はフランキー・ヴァリ本人


(「すみません」という言葉に代表されるように)遠慮のある他人の行為に対しては負い目を感じ、一体感を持てる身内の行為に対しては平気でおられるという日本人の習性はわれわれにとって至極当然のことに思われるので、これ以外の感じ方があり得るということが不思議にさえ思われるかもしれない。このような世界では厳密な意味で個人の自由独立は存しない。個人の自由独立と見えるものは幻想に他ならないということになる。しかしもし本質的に人間を超える存在があって、その存在から個人が他ならぬ自由を賜として与えられるのであるとしたらどうであろう。そうすればいくら感謝しても、自由が侵害されるということはなくなるではないか。そしてそれこそキリスト教の最も中心的なメッセージであったと思われる。この点について最初のキリスト教思想家パウロは、「キリストは自由を得させんために我々を釈き放ち給えり。されば堅く立ちて再び奴隷の軛に繋がることなかれ」と述べた。彼はもともと社会的差別に発した自由人と奴隷という概念を拡大深化して、キリストによる自由と罪の奴隷という人間の二つのあり方を説いたのである。実際彼の書翰を読むと、躍動せんばかりの自由に生きた彼の姿を目のあたり見るような心持がする。彼は彼が元来そこに育ったユダヤ教の伝統にも、また異教的な因習にも全くとらわれなかった。もちろんキリストによる自由というように、人間が自由であり得るのは、キリスト自身が全く自由であったからである。彼はあまりにも自由であったために、ユダヤ人に殺されたということができるのであり、しかもその死に対してさえ彼は自由を克ち取ったと信じられているのである。

(中略)現代の西洋人は、自由が空虚なスローガンに過ぎなかったのではないかという反省に漸く悩みはじめているからである。資本主義社会機構が必然的に人間を疎外することを説いたマルクスの鋭い分析も、キリスト教が奴隷道徳であると宣言したニーチェも、また無意識による精神生活の支配を説いたフロイドの精神分析も、すべてこの点について現代西洋人の眼を覚まさせるものであった。かくして彼らの自由についての信仰は今や無惨に破られてしまった。もっともサルトルのごとく、すべての上部構造が崩壊しつつある現代社会において、人間の自由だけは唯一絶対のものとして、それにしがみつこうとする者がいないわけではない。しかしこのような自由は一体どこに人間を導くのであろうか。それは結局、個人的欲望の充足でなければ、参加による他人との連帯だけではないか。しかしこうなると、西洋人の自由についての観念も究極のところ日本人のそれとあまり変わらないものとなる。結局freedomを自由と訳したのは、適訳でないように見えて、適訳であったのである。なぜなら西洋でも自由は信仰の世界の外には存在しなかったからである。 ―(土居健郎 『「甘え」の構造』 弘文堂、1971年)




民主党支持者の多いハリウッド映画界にあって、クリント・イーストウッドは共和党支持で、しかもかなりのタカ派とのことだ。
この作品を映画化したのも、フォー・シーズンズの背景になっているイタリア系移民の地縁・血縁の濃さが描かれていることがお気に召して、ということかも分からない。

それにしても、昨今のわが国を覆う「絆・地元志向・右傾化」の空気と、あまりにも違うので驚く。
芸能人が成功しても家庭崩壊したり、大借金抱えるような、現象面は日本と同じなのにもかかわらず、核となっている音楽には天と地ほどの隔たりがある。

これをうまく説明してくれるのが、上に引用した『「甘え」の構造』の記述である。
キリスト教という基盤があって、神が与えた恩寵が自由であるとすれば、彼らの音楽の中で「夢と現実」「自由と規律」「個人と集団」が完璧に調和していることに合点がいく。
そして、神という基盤を持たないわれわれの音楽が、人間相互に束縛された、挑戦のない妥協的なものでしかないことも。

シャルリエブドの「表現の自由」が凄惨なテロの連鎖を招くように、欧米の個人主義・自由主義も観念論の一種に過ぎず、無制限な自由の追求は必ず現実のしっぺ返しをくらうでしょうが、こと音楽については祝福されたあり方だと申せましょう―



Jersey's Best: Very Best of
Wea Int'l
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