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ユージン・スミスの見た日本

2012-10-25 22:38:16 | Bibliomania
●サイパン山中で、アメリカ兵に発見された、負傷し死にかけている幼児、1944年6月
洞窟の何百もの死体の中で、ただひとり生きていた赤ん坊、ハエの山にたかられて窒息寸前のところを兵士が救出、急いで病院へ運ばれる



●無題(サイパン)、1944年6月
赤ん坊を背に、水の入った瓶を腕に抱えて家に帰る日本の幼い少女。日本人はよくこのように赤ん坊を背負う。赤ん坊が眠ると、頭が後ろにだらりと垂れる



●沖縄、1945年



●手術後のスミス、グアム島の病院にて(撮影:カール・マイダンス)、1945年




「消費社会のもとで、人の生き方が変わっていくにつれて、しきたりに従ったマナーの優美さと美しい習慣は消えていく」




「ターボ発電機のシェルが組立ラインで次の位置に回転するまで、この作業が続けられる。賢明なペースで事業を拡張している日立では、継続的に発電機の受注残高が増加している。平和的な原子力エネルギー分野における日立の企業努力もまた進展している」

●以上4点は、スミスが日立製作所との契約により1961~62年に来日して制作したもの



「過去の誤りをもって、未来に絶望しない人びとに捧げる」



上から:7歳男児の脳の断面、4年にわたって水銀が脳細胞を腐食してしまっている。発病2年9ヵ月後に死んだ8歳女児。水俣病ではない30歳男子



フェンスの背後、チッソ工場の正面



「上村智子ちゃんはみんなのために中公審に連れていかれた。患者たちは委員たちに要求した。この子を見、触れ、抱けと。そして、人間を金額で評価する彼らに、その経験を忘れるなと」

●以上は、1971~74年に3度目の来日を果たしたスミスが水俣病の関係者を取材し、ライフ誌に掲載されたり後に写真集MINAMATAとしてまとめられた中の4点



■W・ユージン・スミス (W. Eugene Smith) は1918年米カンザス州ウィチタ生まれのフォト・ジャーナリスト。母の影響で写真家を志した彼は、高校に通っていた時期から新聞に写真が掲載され始めるものの、穀物商である父が大恐慌の際に自殺して、それをめぐる新聞などの報道が事実を歪めていると感じ、引き続きジャーナリズムに携わりながらも「真実と偏見」を生涯の命題として追い求めることになる。

やがてライフ誌と契約した彼は、第二次大戦の従軍記者として、米軍がサイパン、グアム、硫黄島、沖縄へと侵攻するのに同行して取材するが、1945年5月に日本軍が発射した砲弾の破片を受け重傷を負う。
顔や左手を負傷した彼は、ようやく1947年に復帰を果たし、ライフ誌で50に及ぶフォト・エッセイを発表するなど精力的に活動する。そのテーマには、彼が従軍記者として目にした戦争の実態が反映され、偏見・憎悪・貧困を克服して真の尊厳を獲得したいという情熱が脈打っていた。

一方、日本は大戦で被った損壊をはねのけ、工業化と国土開発を軸に驚異的な復興を果たしていた。経済発展を担う大企業の一つである日立製作所が1961年、海外向けPRを意図して、著名なフォト・ジャーナリストになっていたスミスを招聘し、彼は戦争以来の訪日を果たすのである。当初3ヵ月の予定が1年に延び、依頼の枠を大きく超えて日本の風物や伝統をも収めたフォト・エッセイが完成したものの、後にスミスは「失敗だった。私は結局日本を理解することができなかった」と漏らしている。

1970年、富士フィルムや電通との折衝で通訳を務めたアイリーン・美緒子・スプレイグが後に彼の妻となり、三たび日本と遭遇することになった彼を捉えたテーマこそ、世界でも稀な大規模汚染と悲惨な病状をもたらした公害病「水俣病」であった。
水俣市に腰を据えた彼は熱心な取材を行った。チッソ工場ではチッソ側から暴行を受け片目失明の重傷を負い、告訴を勧められたものの断って取材を続けたし、あるいはライフ誌が彼の意図どおりに写真を掲載せずアイリーンが落胆した際も「今までライフに出した中では一番いい線だ」と述べたという。スミスは、写真に宿る水俣の真実を、とにかく世の人に伝えることを優先したのである。
この時のライフ誌の記事の最後を飾った写真に、胎児性水俣病患者を撮ったものがある。生まれた時から目も見えず口もきけず歩くこともできない上村智子さんを、毎日母親が抱いて入浴させていることを知った彼はその姿を撮らせてくれるよう頼み、1971年12月、スミスの業績の中でも際立つ "Tomoko Uemura in Her Bath" が生まれ、水俣病は世界の人が知る出来事となった。

1977年、大学に職を得たのでアリゾナ州に移った彼を脳卒中が襲った。命は取りとめたものの深刻な麻痺が残り、入院中ベッドから車椅子に移るので抱きかかえられた自身を「智子のようだ」と言ったという。サイパンで兵士が救いあげた赤子へのスミスのまなざしは、水俣で智子を見るまなざしへと移り、そしてついにはスミス自身を撮る者から撮られる者へと回帰させたのだろうか。
リハビリが功を奏して完全ではないが回復し、翌78年9月にはセミナー講師を務めるまでになった彼であったが、同年10月、激しい発作を起こし永眠した。59歳。 ─(図版と経歴は1996年、東京都写真美術館で行われた『ユージン・スミスの見た日本』展覧会図録より)



「法律的に確定されなければ公害は犯罪ではないという道徳観こそ公害を起こす道徳観だ」
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