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「原子力発電の夜明け」「原発切抜帖」『100,000年後の安全』

2011-04-30 22:59:32 | 映画(映画館)
@ポレポレ東中野(特集上映・25年目のチェルノブイリ)
「原子力発電の夜明け」 1966年、森田実監督。日本初の原子力発電所・東海村原子力発電一号炉の5年にわたる建設の記録。原子力による発電の原理と核エネルギーの制御について詳しく説明しながら、建設の過程をつぶさに追う。なかなか見ることのできない原子炉内の建設風景(↑画像)は非常に貴重。



「原発切抜帖(げんぱつきりぬきちょう)」 1982年、土本典昭監督。「原子力の平和利用」という言葉に懐疑を抱いた土本典昭は、数十年におよびスクラップしていた新聞記事を構成し、原子力発電計画とそこに至るさまざまな経緯・思惑を浮かび上がらせる。新聞記事のみを写した映像と、小沢昭一の軽妙なナレーション、高橋悠治と水牛楽団による奇怪な音楽で構成された、世界にも稀な実験映画。



@渋谷アップリンク
『100,000年後の安全』 Into Eternity, 2009年(デンマーク、フィンランド、スウェーデン、イタリア)、マイケル・マドセン監督。毎日、世界中のいたるところで原子力発電所から出される高レベルの放射性廃棄物が暫定的な集積所に蓄えられている。その集積所は自然災害、人災、および社会的変化の影響を受けやすいことから、地層処分という方法が発案された。フィンランドのオルキルオトでは、世界初の高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場の建設が決定し、固い岩を削って作られる地下都市のようなその巨大システムは、10万年間保持されるように設計されるという。廃棄物が一定量に達すると施設は封鎖され、2度と開けられることはない。しかし、誰がそれを保証できるだろうか。10万年後、そこに暮らす人びとがいるとして、彼らに危険性を確実に分かってもらえる方法はあるだろうか。彼らは、それを私たちの時代の遺跡や墓、宝物が隠されている場所だと思うかもしれない。そもそも、未来の彼らは私たちの言語や感覚を理解するのだろうか。
今秋の公開予定でアップリンクが買い付けたところ、福島第一原発事故のため急遽公開され、連日満席で拡大公開となった、未来の地球の安全を問いかけ、寓意的・SF的な趣きさえ漂うドキュメンタリー。



「おいらは大学も工学部ですから、原子力関係の話は大好きなんですよ。きょうは新潟県にある柏崎刈羽原子力発電所の中を見学させてもらったんだけど、面白くて仕方がなかった」

「原子力発電所を批判するような人たちは、すぐに『もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ』とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。でも、新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい」

「相変わらず原子力発電に反対する人もいるけど、交通事故の年間の死者の数を考えて、自動車に乗るのを止めましょうとは言わない。やっぱり使ったほうが便利だからね。どうも原子力発電というとリスクばかり言う傾向があるけれど、実際、おいらたちはもっとリスクのある社会に生きている。変質者に刺される確率のほうがよほど高いって(笑)」


ずいぶん頭が悪いなあ。
しかも、(工学部なので)自分では頭がいいつもりだ。
どこのバカだよ。まあ、おいらっていう一人称でお分かりと思うが、ビートたけしが『新潮45』で原子力委員会の近藤駿介委員長と対談して語った言葉である。
そして見逃せないのが、「地震が起きたら原発へ逃げ込むのが安全だったりする」という発想が、石原都知事の「東京湾に作ってもいい」という原発推進論と酷似している点であり、さらには両者とも軍団を組織して何を言っても許されるマスコミ治外法権としてのさばるのみならず、それをテコに、先の都知事選でたけしの弟子・そのまんま東が石原に次ぐ得票を集めたという、現実を動かせるほどの政治権力まで握るようになってしまった。
つくづく、わが国のマスコミの害毒を思わざるをえない。
ほかにも、国策=原子力推進の旗振り役に、弘兼憲史、茂木健一郎、勝間和代、堺屋太一、大宅映子、吉村作治、浅草キッド、星野仙一らが名を連ねる。
星野が楽天イーグルスの監督として、ちゃっかり株を上げているように、石原はともかく、ほかの面々は福島第一原発事故を受け「そんなこと言いましたっけ」ってな顔で君子豹変するんでしょうね。
ここには、単に彼らの愚かさというより、マスコミ上で広告塔としてでも露出しなければ(弱肉強食のマスコミ・芸能界で)負け組になってしまい、そして日本も原発推進しなければ電力が足りず、産業振興や便利な暮らしが絵に描いたモチになりかねない─というような短期的な強迫観念に駆られた心理がはたらいているようにも感じられる。
そして、そうした心理が、原爆を落とされての敗戦であったり、水俣病などの痛ましい公害病であったり、いくたび犠牲を払ってもあやまちを繰り返してきたことにもつながるのではないだろうか。
『100,000年後の未来』に描かれるフィンランドも、長年圧迫されてきたロシアに天然ガスなどを依存せざるをえないため、国策として電力の3分の1を原子力で得ているという。
しかし、人口が少ないので、4基だけが稼働中だからということもあるかもしれないが、科学文明では解決が困難な、放射性廃棄物についてのスタンスは、ほかの「原子力大国」に比べ明確。



↑きょうの上映後、科学者の舘野淳氏を招き「廃炉という選択~日本の核廃棄物処理の現状」と題して行われたトークイベント。見づらいと思うけど、燃料棒のガラス固定後1本あたりの、放射能の行方。ヨコ軸は100年、1万年、100万年という刻み。
福島の事故では、大気中や海に放出される放射性物質に関心が集まっているが、全国の、世界各地の原発から出続ける「核のゴミ」が環境に与える影響も深刻。
厳重に閉じ込めて地下深くに埋めようにも、日本では地震や火山の地殻変動も激しく、金属容器が千年単位で地下水に触れ続けた場合どうなるかも分かっていないという。
さらに、6万年後には氷河期が訪れ、地上の人類は、とうてい今のような人口が生き延びるのは不可能。生き延びたとて、文明も、言葉も、姿も大きく変わってしまうと考えられる、そういう子孫たちに対し、毒性の消えていない核のゴミの危険性をどう伝えられようか。
ウンコは臭い。血の色は赤い。これは文明が変わっても、太古から受け継がれており、ウンコを食べてはいけない、血が出たら危険だと分かるが、放射能は匂いもせず目にも見えないのだ。
ホント、寓話というかSFというか。
人類は、月面に降り立つとか、なんでもできるつもりで思い上がって地に満ちあふれたけれども、自分で出したゴミの始末さえできずに、早々に地球から姿を消すのかもしれない。
弊ブログでは、石原慎太郎や橋下徹といった輩をゴキブリよばわりしてきたが、地上の大先輩であるゴキブリさんたちに対して失礼。エコ、ロハス、スローライフといった言葉は、古生代からほとんど姿を変えていない彼らにこそふさわしく、人類には口にする資格がないのではないだろうか。



◆オラの原発切抜帖
2010年4月・原子力発電所の高齢化
2010年2月・東京ウシジマ新聞#4(アメリカと中国それぞれの内陸部にあった核実験場からの報告)
2008年4月・『みえない雲』上映会&チェルノブイリ写真展
2007年8月・『六ヶ所村ラプソディー』
コメント
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