湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

信仰の自由と「アウクスブルクの和議」・・・歴史の考察

2017-09-28 21:31:16 | Weblog
1555年、神聖ローマ皇帝フェルディナンドは
南ドイツ、アウクスブルクで帝国議会を招集し
プロテスタントの信仰を認める決定がなされました

「アウクスブルクの和議」

と呼ばれています

これによって
プロテスタント(ルター派)を選ぶか
カトリックに留まるのを選ぶのかは
諸侯と各都市の当局(市参議会)に委ねられ
住民は、ただその決定に従うのみとされました

プロテスタントの信仰が認められたと言っても
それはあくまで領主に対してであり
領民に信仰の自由が認められたわけではなかったのです

この結果、ヨーロッパのキリスト教は

”一領邦一宗派の原則”

が成立しました

この体制は

「領邦教会制」

といわれています

現代の私達が持つような
個人の信仰の自由という理念は
当時のヨーロッパには無かったのです

ヨーロッパ人による
世界の植民地化が始まったこの時代を
非ヨーロッパ世界の人々から見ると
ヨーロッパ人は、まずキリスト教を布教し
それによって、民衆を支配し、植民地を拡大しました

こうした歴史からみると
キリスト教は、植民地拡大の道具でしかなく
隣人愛など、微塵も感じさせません

しかし、これは、植民地だけに限ることではなかったのです
ヨーロッパにおけるキリスト教の在り方は
プロテスタントが認められた後でも
民衆支配の道具であることに変わりはなかったからです
ヨーロッパ人は、植民地支配にも
それをそのまま使っただけなのでした

ヨーロッパでも、ヨーロッパ以外の世界でも
ヨーロッパのキリスト教徒としては
領民は、領主の決めた宗教を信仰しなければならなかったのです

当然ながら
日本に来たイエズス会の宣教師達も
この考えを持っていました
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-09-29 12:58:39
死者を弔う宗教ではなかったのでしょうか?

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