古墳時代について、日本史では謎が多いそうです
こちらは、無知なものですから、何がどう謎なのか分かりません
ただ、私は、昔から、前方後円墳については疑問がありました
どう考えても不合理だと思うのは
水田として貴重な平地に、あんな馬鹿でかい墓を作ることの不合理性です
どうせ墓を作るなら
農耕に適さない山の上にでも作ればいいではありませんか!
しかも
あんな馬鹿でかいものを
どう見ても、作るのに何年もかかるわけです
自分が生きているうちに作り始めなければ
埋葬に間に合わないではありませんか!
さらに
あんな馬鹿でかいものを、田圃の中に作るのは
作業用の道や作業スペースまで用意しなければならず
それを元に戻すだけでも大変で
しかも、その間、何年も農業生産に支障を来すのです
一般民衆が、そんな馬鹿な政策を受け入れるでしょうか?
ところが
これら疑問が全て氷解する答えが
突如、私の頭にひらめいたのです!
深夜、前方後円墳の形を思い浮かべていると、気がつきました
土を盛り上げて山を作り、周囲に堀を巡らす・・・要塞ではないか!
あれは、もともと要塞だったのです
外敵が攻めてきた時に戦うための要塞です
墓にする前は、物見櫓や食料層倉庫が作られていたはずです
日本で、高く土を盛り上げ、周囲に堀を巡らすのは城です
前方後円墳は、弥生時代の環濠集落の大規模化と、要塞化だったのです
稲作農業の時代に入りますと
保存食料を狙って敵に襲撃される危険が出てきます
それで、物見櫓や濠を備えた環濠集落が発生したのです
櫓と言う言葉に「矢倉」という字を当てれば、より意味が明確になります
前方後円墳を作った人々は高度な土木技術を持っていました
一体、彼らはいつ、その技術を身に付けたのでしょう?
明らかに、環濠集落とは、目的は同じでも、文化と技術の断絶があります・・・
実は前方後円墳が多いのは千葉県や茨城県なのです
そして、この地域の前方後円墳からは
ユダヤ人を象った埴輪が出土するのです
前方後円墳とユダヤ人との間に、深い関係があると観るべきです
あの時代、高度な土木技術を持ったユダヤ人が日本に来て
前方後円墳を作ったと考えたら、どうでしょう?
彼らは、その技術を使って、大規模な水田開発をし
初めから、要塞として、前方後円墳を計画的作ったのです
それがやがて、その新田開発をした時の首長の墓となったのです
その水田の守り神として、埋葬されたのでしょう
前方後円墳から出土するユダヤ人埴輪の多くは戦士埴輪です
まさに、そこが要塞として作られた来歴を示しています
最初にこの形式の要塞を作った頃は、要塞としての意味はあったと思います
ところが、耕作地の拡大ととも人口が増え
しかも、進んだ戦闘技術も持つユダヤ人戦士団を持つ村に
戦いを挑む周辺部族はいなくなり、むしろ、交易等により共存が進みました
前方後円墳の要塞としての性格は形骸化していきました
新田開発をする度に前方後円墳を作ることは儀式化し
その時代の首長が亡くなるとそこに埋葬するという習慣が定着しました
この時代に、日本の農耕社会は飛躍的に発展したのです
そのことが、飛鳥時代、奈良時代への、時代の扉を開いたのでした
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