無意識日記
宇多田光 word:i_
 



秋元康産業が今年もCDを売りまくっていて、今年度上半期のシングルとアルバムの二冠、シングルはTOP3独占とやりたい放題。なんか「宇多田の記録を抜いた」とか言ってたけどなんだっけ、二冠が2001年以来とかそういう奴かな。

秋元産業が殊勲を上げる度に眉を顰める人が後を絶たない。気持ちはわかるが、これも仕方のない事だろう。音楽の魅力が、女の子たちと会って握手して話せる事や総選挙のエキサイトメントに負けている。それだけの事だ。「枚数より人数が」という反論も食傷気味だ。愛着や執着の深さが複数枚買いによって伝わってきているのだからある意味システムとしては進歩している。

多くの批判がカテゴリーエラーなのである。本来なら、秋元産業に文句を言うのではなく、魅力的な音楽を提供出来ていない音楽業界を責め立てるべきだ。しかし、我々も最初っから信頼されていないしアテにもされていなかった事は、10年以上前のCCCD騒動からも明らかである。誰よりも送り手の方が、CD売上がバブルだと思っていたのだ。

私の趣味からいえば、欲しい作品の日本盤CDは順調に売られているし来日公演は贅沢な取捨選択を迫られるしで、昔よりずっと状況はいい。輸入盤も通販様々だし何か不満があるかといえば大して何もない。MANOWARをさいたまスーパーアリーナで観れるなんて夢のようである。更にKnot FestにSummer Sonicに…どうすりゃいいんだ。

要するに、人数は減ったかもしれないが熱心な音楽ファンにとっては昔よりよい事づくめなのだ。ジャンルを問わず。そういう人たちにとっては、好きなミュージシャンの新譜が聴けてLIVEが観られれば十分な訳で、その点に関しては進歩している一方なのだ。

つまり、憂いられているのはライトな層を取り込むべき嘗て"J-POP"と呼ばれていた市場の方で、そこをアテにしていた層にとっては基準となるオリコンチャートを潰してくれた(ようにみえる)秋元産業への恨み辛みは尽きないのである。

こちらからすればオリコンチャートは参考にする為の素材に過ぎず、アテにならなければ参照しないだけの事である。ちょうど12年前の今日発売された「DEEP RIVER」アルバムは「FIRST LOVE」の半分の売上だが、ならば前者が後者に対して音楽的魅力が不足なのかというと、私にとっては全くの反対である。

何を今更、と言われそうな話をしているが、3行くらいでまとめて次に行こうと思って書き始めたまくらさんが思いの外長くなってしまっただけで(汗)、本文は次回へ続くのでした。失礼っ。

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あのツイートを読んだ時の「……誰?」という衝撃がどれ位伝わっているのか不安だが、照實さんがツイートをしてくれたので今夜はその話から。

@u3music
推測と言うのは的確ではないです。制作途中の音源は聴いています。ただ、いつ、そのどれを完成させて発表するかはup toヒカル。teruzane RT @EarthView5 考えています」じゃなく「考えていると思います」なんですね。あくまでも推測なんですね?
2014年6月18日 18:56

彼はヒカルの制作途中の音源を聴いているのだ。そういうものか。

確かに、音楽を「完成させて人に聴かせる」という段階に行くには、何か+αが必要だ。作曲家というのは、放っておいたらいつまでも改善に次ぐ改善を重ね、いつまで経っても作業が終わらない、というパターンが非常に多い。Hikaruの好きなアーティストでいえばThe Blue Nileのようなタイプ。ロイ・ブキャナンと言った方がいいか。兎に角、締め切りがないとどうしようもない。

そこまで求道者的な態度にならずとも、曲が一向に完成しないという事はある。こちらの方が、リスナーとしては寧ろ感覚的には遠いかもしれない。楽器や楽譜と戯れながら、常に音楽を変化させ続ける、もっといえば終わり無く音楽と対話を続けるパターンだ。楽器を持っている人ならそれは既存の楽想を常に即興演奏でアップデートし続ける事になるし、楽譜を書く人は永遠にβ版だ。ずぅっと変え続けて、終わらない。追究なんかしなくても、「音楽と私」がずっと変化と対話を続ける。あれだよ、仲のよい友達とのお喋りに終わりなんかないだろう? それが音楽で起こる。

そういう視点から眺めれば、逆に、完パケを作ってもうそれ以上変化させずに音楽を世界中に流通させる、というのは不自然な行為とも受け取れる。なぜもう直さないのか、変えないのか。Windows Updateのように毎日改善させながら発表していったっていいじゃないか、なんていう考え方も出来る。広い世界だ、既にそれをインターネットを使って実行している人も居るだろう。"永遠に未完成"、そんな音楽もあっていい。いや、そっちの方が理想的には"自然"なのかもしれない。

Hikaruがそういう方法論に手を染める事はないだろう、とずっと思ってきた。彼女は常に「これ以上はもう望めない」ところまで楽曲を磨き上げて発表する。それが矜持だと思っていた。楽想が聴き手に誤解を与えないよう、磨き上げに磨き上げて焦点を定め、的確且つ簡潔に表現する。その方法論にこだわってきたから、「新しいジャンルの曲を作ってそれがそのジャンルの最高傑作」みたいな曲ばかり発表する事になった。だから彼女は自分が過去のパロディになる事はなかった。「First Love part 2」みたいな曲も書いて来なかったのだ。

それが、もしかしたら最近変化してきたのかもしれない。それを思わせるのがFL15へのデモ・ヴァージョンの収録である。あんなあからさまなトラック、過去のヒカルなら許しただろうか? そんな機会がなかったからその点についてはわからないが、15年という歳月が為させれた業とはいえ、「曲作りの途中」をこうして発表するだなんて、思いもよらなかった。

「完成品しか聴かせない」というのは、ある意味、人に対して壁を作っているともいえる。いや勿論、「第一印象は頗る大事だからそこで最高のものを聴かせたい」という誠意の現れでもある。どちらにとっても結構だが、「未完成品を聴かせる」というのは余程気を許した相手でないと無理だと思う。事実、照實さんにはこうして聴かせている訳だから。その輪の中に、我々がほんの少しずつでも入っていけてるとしたら、とても喜ばしい事だ。ヒカルが気を許してくれたのだから。


もしかしたら、今回のツイートも、「最適の呟き」を考えている途中で慌てて放出してしまったものなのかもしれない…そんな風に、考えられたらいいのだが。我々に気を許し過ぎて、迂闊にも鵜呑みにして軽率に呟き、ちゃんとした形になる前の謝罪の一言も呟いてしまった…気を許し気を緩めたせいでのうっかりさん…そうだったら、まぁいいかなとも思えそうだ。

だったらいいなぁ

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あー、うん。

ただでさえ最近バッシング側に傾いていたのに、これでかなり宇多田ブランドは叩かれる側に定着するな~。私は(いつものように)あまり気にしないだろうが、皆さんはどうか。何か言われても反論するだけ無駄だと思うが、耐えられるか。何しろ、そこにあるのは論理ではなく空気なので「こいつは叩く相手」「こっちは持ち上げる」という二択しかない。ここから挽回するのは相当骨が折れる。そして、私が当惑している通り今回の日本語ツイートについては擁護出来る要素が見当たらない。無理矢理になら、褒める事は出来るがすぐに反駁されてしまう。謝罪自体が「卑怯」だからである。

この話題をどう幕引きするか難しい。勿論、話題としてそもそも取り上げなければそれで済むのだからそれなら簡単極まりないが、どうしても引っ掛かるものは残る。あれは一体何だったのだろう…多分、一生ついて纏う。「忘れる」のが最善手であろう事に同意せざるを得ない。

場合によっては、無意識日記はただひたすらに過去を振り返るだけの懐古日記になるかもしれない。それだけでも語る話は沢山ある。未来に希望が持てなくても人は案外生きていける。化石発掘に人生を捧げた人なんて幾らでも居るだろう。いやま彼らだって「新発見に満ちた未来」に希望を抱いているとは言えるのだが。

次にヒカルがどうするかというと、暫く黙ってほとぼりが覚めた頃に、というのがパターンだが、どれ位時間が癒やしてくれるやら。今回作られた「叩く空気」は、案外残る。話題にのぼらなければすぐに忘れ去られるとはいえ、また話題にのぼれば「そういやこいつの空気はどうだったかな」という風になる。具体的なエピソードが忘れ去られていても、空気の示唆さえ掴めてしまえば後は、人の口には戸が立てられない。もうそれだけである。

このまま復帰するのは難しい。いや、勿論復帰はすればいいのだが、果たして歓待されるのだろうか。熱心なファンを相手に商売するのならまだしも、Pop Artistとして不特定多数を相手にするには旗色が悪い。そして、リカバリーの方法は、このままでいくと、ない。おめでたで一年休養が、やっぱりいちばんいいんじゃないかと…。

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ブラジルで開催中のワールドカップ会場で日本のサポーターたちがゴミ拾いをして、それが世界から褒め称えられているらしい。いや、他の国のメディアより前にそれを報じるあなた達は褒め称えてなかったの…いや確かにもう恒例で取り上げる程でもないかもしれないけれど、何だかそういう所が物足りない。

あまり普段使わない言い回しを敢えて用いるとすれば、それが日本人の国民性なのだろう。自ら何かを称えたりするのが苦手で、外から褒められて漸く安堵する。自己満足に陥らないいい方法だとは思うが、他方で様々な可能性を事前に潰す、或いは種を掬い上げられない欠点とも解釈できる。両方あるのがいい。要するにテメーで価値判断しろという事だ。「価値観の自立」が、全体的に足りていない。個々がどうのというより、文化的な前提が未熟なのである。

偉そうに言っている私は、多分そこはとても徹底している。自分の目と耳で判断する事にはとても注意を払ってきた。何故なら、この国にはその自立した価値判断を奪う機会に満ちていたからだ。満ちていた、と過去形で書くのは願望かもしれない。インターネットが普及し、これで個々が好きなだけ自分の価値観を追い求める事が出来る…と思っていたら逆だった。幾らでも他人の評価が耳目に入ってくる為、それらを継ぎ接ぎさえしていれば何かを言った気になれる、自分のポジションを確保したといえる、そんな空気が支配的である。なかなかに、この国民性は知らない。なお他の国の事は知らない。或いはどこの国でも同じかもしれないな。

Hikaruはここより更に超越的である。自分の価値観と他人の価値観を区別しない。どれもただそこに在るだけである。故にPopular Musicを、心を売る事なく真心で書けてきた。しかしそれが可能なのは、他人が与えてくれる様々な情報―表情や仕草や書いた文章や何やかんやといったあらゆるもの―から適切に人の心を掴む事が出来てきたからなのだった。これに倣って言えば、Hikaruはその歌声で我々の心を掴む遥か以前の段階で、既に人々の心を掴んでいるのだ。勝負はその時に既に決まっている。

それを支えてきたのは、類い希なる観察眼(恐らく、少し悲しい事だが、周りの大人の顔色を窺ってばかりの日々がその力を育んだのではないかなと)と、末恐ろしいまでの想像力である。これがこうであるからにはこうで、ならばあっちはこうなって、と見通す力。それを失っては人々の心を掴めない。

だから、Hikaruは自分の言葉を綴る時、その反応まで見通した上で綴る。わざとそうしているのではなくて、綴った言葉の上に世界が自然と広がるのである。それを止める事は出来ない。

今回の"一言"には、その広がりが無かった。私は、これがこれっきりになるのなら全く問題にしない。何も気にしない。長い人生、気が動転する事も一度や二度じゃあないだろう。私がずっと(多分今週一週間ずっと)言っているのは、この"一言"が示唆する道をそのまま行けばヤバい、という話なのだ。すぐに軌道修正されるならいい。しかし私の想像力は、今までに想像した事もなかった方向に展開されざるを得なかった。大事なのはこのどうってことない一言ではなく、ここから広がり得る世界の方だ。私はそっちに行きたいとは思わない。Hikaruもそんなこ…言葉が切れる。一筋縄では、いかないようだ。

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なかなか言葉が出て来ないなぁ…重傷(笑)。

一度や二度なら血迷ったという事でやり過ごせばよい。これが恒久的になったら目も当てられない、という話。Twitterは当然?当面?辞めた方がいいだろうし、Message from Hikkiも果たして必要なのかどうか。自らの発信に責任を持つ、というのがあそこの大前提。それが出来ないのなら危うい。

世間的にみれば大した事ではないだろう。ワールドカップの日本代表敗戦にまつわるちっちゃなエピソードのひとつとして忘れ去られていく。出来れば、次のギリシャ戦に勝って雰囲気をガラリと変えてくれれば有り難いのだが。コロンビアには勝てという方が無理か。対戦成績によっては引き分け狙いかな。

いやサッカーの話は関係ないというのにサッカーの話をするとややこしくなる。事実関係ない。

今は殻に閉じこもっている状況なのかなぁ…。次、何事もなかったようにケロッといつも通りに戻っていたらと考えると、そうなればちょっと納得いかないが、それはそれという事になるんだろうか。おめでただったらいいのにアゲイン。それがいちばんの解決方法。

それでもまぁ曲が書けるのなら大丈夫かな、とは思う。私が音楽という基準に絶対的ともいえる信頼を置いているのは、私の想像力を受け止めてくれて、尚且つそれ以上のものを返してくれるからだ。即ち、内面に閉じこもるより楽なんだな、本質的に。だから、私の内的価値観による洞察より、曲の出来次第でHikaruの精神状態をみる方が「正確」だと判断する。今彼女が創作面でスランプであるのなら明らかによくない兆候だと言いたくなるが…そこらへんの事がわかるのは、あったとしてもずっと先だろうなぁ。

結婚してまだ浮かれたままなのか…とも思ったが、前回そういうの微塵もなかったからなぁ。幸せそうだったけど、浮き足立つ事はなかった。ハネムーン・ソングであるCOLORSは素晴らしい出来だったし。そのあとEXODUSの制作に際して、スランプはあったのかもしれないが結果があれだったのだから最終的にはぐぅの音も出なかった。

今回もそういう風に回収してくれるといいなぁ。いつになるかなぁ。わかんないな。こうなると、どうやって待てばいいかわからない。攻めの姿勢に転じるかな。そうだ、そうしよう。

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「作詞作曲面で見せるあのふてぶてしいまでの自信は、普段のこわれやすく脆く繊細な心の在り方と隣り合わせなのだ。」という締め括りの仕方のエントリーを一編書こうと思っていたが、なるほど、そんな事は皆わかってるな。さっさと飛ばして次に行こう。

つまり、普段の発言においてはかなりの割合で彼女は「臆病なまま/傷つきやすいまま」なのかもしれない。心が弱っている時は誰だって取り繕って心を守ろうとする。問題は何故それが今なのかという事だ。

前回、多分最も望ましいのはおめでただろう、と書いたがそれはちょっとムシがよすぎるので他の方向で考えてみる。

この間、彼女の発言に嘘があろうとも気にするな、それが我々の幸せの為にはよい、何故なら彼女は保身というものをしないからだ、と書いた。しかし今回の彼女の日本語の発言は保身から出たものだ。初めて見た。慣れていないのだろうか、それも相当にド下手クソで、見事炎上と相成った。慣れねぇ事はするもんじゃない。

常に挑戦者で、失う事を恐れない、何故なら「生きてりゃ得るもんばっかりだ」と言い切れたから。しかし、今彼女は本当に心の底から守りたいものが出来たのか。だとしてもやっぱり思いっ切りまずいやり方だった。血迷ったとしか言いようがない。


それすらも、それすらも包み込もうというのなら、確かに貴女は新しいフェイズに入れる。しかし、私はそれはただの茨の道にしか思えない。ただひとつ、やっぱり人の親になるのなら話は別だが、そんな事では誰も守れない。自分さえも守れない。

それに、それをするとなると逆行である。「WILD LIFE」というキーワードと共に始まった人間活動は、1人の人間として、1匹の動物として逞しく自立して生きていく精神をうたったものではなかったか。それよりも"果てしない弱さ"をも包み込もうというのなら死ぬまで付き合うが、流石にそれで生きていけるの?という気分が拭えない。私は独りで生きていく力なんて無いと胸を張って言えるタイプだが、うーんそれはちょっとという気分。ザ・修羅の道だな。

果てしなく難解になった。平べったく聞こえる事を厭わなければこういう言い方が出来る。「そこからまだ優しさを広げようというの?」と。そこまで行くと、何だろう、生きている事すら束の間の幻に思えてくる。果たしてそこで死は正と区別がつくのだろうか?

最大の疑問は、あの、歌に携わる時の自信、生まれたものたちに対する確信すらも蝕まれていく中で、新しい歌を歌う事が出来るのだろうか? 今までのように、今日出来なかったから次の機会は2年後に、という訳にはいかない。今を逃したらもう、また生まれ変わるまで出逢えない。それは何かといえば現世での老いか滅びだ。綻んだ糸は、ひたすら解れてもう見る影もなくなってゆく。


この子のスケールは果てしなくデカい。どちらに転ぶのだろうか。そっと影から、いや、影として見守っていきたい…んだけど、これで果たして俺のやる気が出るのかね。ちょっとまだまだわからない。振り落とされたくはないと思っては、いるけれど。ぼくはくま~♪

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あー、えぇっと、うん。

この話題は"打ち捨てて"さっさと違う方向に進もうかと思ってたがちょっと気が変わった。「事の重大さ」を確認しなおす為にも何かメモしておこうかと思う。ただ、もしかしたら(私にしては大変珍しく)、今週の一連のエントリーは後から削除するかもしれない。即ち、読むだけ無駄かもしれない。先にそれだけ伝えておく。

言われてみて気がついたのだが、そういえば私はヒカルに対して「優しく接しよう」と思った事がなかった。単純に、絶対的に向こうが"精神的優位"に立っているからだったのだが、今回ばかりは様子が違う。初めて、彼女に対して「優しく接して」みようかなと思った。接する程近くはないのだが。

どうするかといえば、「今回の事は忘れてあげよう」という気分になったのだ。どこをどう捉えても、残念ながら擁護が出来ない。精神状態に変調をきたしていなければ、我々のよく知る宇多田ヒカルからはあんな発言は出て来ない。アルコールの過剰摂取で泥酔していたとかドラッグや投薬(おんなじか)のやりすぎだとか、或いは遅れてきたマリッジ・ブルーとか早くもマタニティ・ブルーとか…最後のだったらおめでたいんだが語るには時期尚早だな。兎に角、普通の精神状態ではあんな事言わない。別人が書いた、というのが今のところ最も筋の通った説明になる。

サッカーの話題は、今の私の論点とは一切関係がない。その内容についての議論は全く影響を及ぼさない。それについて言いたい事もあるだろうけどね。

問題にしているのは、一貫して日本語ツイートの方だ。まず、鵜呑みなんてのはそもそも論外だ。Webを使う者なら有名人であれ一般人(だから誰なんだそれは)であれやっていい事ではない。しかし、百歩譲って慌てていたとか気の迷いで、とかそういう事はあるだろう。今回もそれにいち早く気がついて訂正と謝罪のツイートを…で済めばよかったのだがここで「失礼な冗談」ときた。先週も指摘したように、あの英語ツイートを冗談と受け取るのはかなり無理がある。つまり、後付けで「じ、実はあれは冗談だったんだ」と言っている訳で、なんとも「ド下手クソ」な言い訳である。棚に置いてあったお菓子勝手に食べちゃった幼稚園児じゃあないんだから。更に最後に、読んでるかどうかもわからない人に向かって謝罪している。去年の夏に、誰に向けてのメッセージなのかを詳細に選り分けて文章を書いていた人と同一人物とは思えない。

という風に、とにかくエラーの多重コンボなのだ。ここまで酷いのも珍しい。総合すると、何よりいちばんショッキングなのは、彼女が自分の発言に責任を持たずに逃げた事だ。いや謝罪して訂正してるじゃないかと言われそうだが、だからこそ始末が悪い。上っ面だけ取り繕ってお茶を濁そうだなんてどれだけ精神が弱っているのかわからない。結婚して幸せ一杯なんじゃあないのかね。本当の事を言おうが、ウソをつこうが、彼女は自らの事を「いつでも本気」と言ったが、今回はそれを冗談だった事にしてやり過ごそうとした。ここまで「言葉」を蔑ろにした宇多田ヒカルを私はかつて見た事がない。過去15年の中で「いちばんの危機」だと思う。

だから今回の事は「なかった事」にして「忘れよう」というのが私の優しさのつもりなのだが、それって完全に同じ穴の狢なんだよね。果たしてそれでいいのか、ここの継続を賭けて考えてみるとする。次回があると思うな。

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今日のツイート。

***** *****

@utadahikaru
I hope Croatian people don't hate Japanese people after their unfortunate match against Brazil today...
2014年6月13日 12:06

@utadahikaru
周りのサッカーファンがみんな誤審だって騒いでたから鵜呑みにして失礼な冗談を書いてしまった 西村さんごめんなさいorz
2014年6月13日 15:40

***** *****

何だったんだろうねコレ。誰かにハッキングされたんじゃああるまいな。あまりにもらしくない。一応、英語呟きの方は『今日の不運なブラジル戦でクロアチアの人たちが日本人を嫌いになったりしなきゃいいんだが。』と訳してツイートしておいたが、どうとでも取れるように訳しておいたつもりだ。真意をはかりかねたからである。本人によれば冗談だったようだが、それなら文末が「!」でないとおかしい。そう書いてくれれば私も最後に「(笑)」でも付け足しておいたのだが…で、付け足してみたとして、確かにこれは不謹慎だな。

ネイティブの人もあれが冗談だとわかったのだろうか? 私は英語に普段触れていないのでそこらへんは感覚的にわからない。ニュアンスとしては「こういうことで日本の事嫌いにならないでね。てへ☆」くらいに受け取っていたのだが、31歳再婚女性にてへぺろもないだろうと自重した。実際目の前でそう振る舞われたら萌え倒れるんだけどね。老けないよなぁコイツ。

全然関係ないけど、駆け込み乗車防止の為にはドア脇に開閉ランプをつけるのはどうだろう。何故あれ電車に駆け込むかって、いつ閉まるかわからないんだよ。あ、もう閉まるかなと思って立ち止まったら全然閉まらなくて「運転間隔の調整中」だってさ。それで「じゃあ」と思って一歩踏み出したらそのタイミングで閉まりやがるんだよ。あれどんだけ恥ずかしいか(笑)。ドアが閉まる直前に、3秒なら3秒、5秒なら5秒決まった間隔でドアが閉まってくれるならタイミングよく駆け込み乗車を諦められるんだ。是非検討を促したい。

問題は、のんびり屋の僕と違って、ランプの明滅を目にした途端、そこから加速して猛ダッシュで駆け込む人の方が多いんではないかという点だ。「あれはもう乗っちゃダメのサインですよ」というのがどこまで浸透するか。誰に言われなくてもエスカレーターの片側を開けたりフォーク並びが自然に出来たりとモラルの高い民が揃っているので、何とかうまくいかないかと思うのだが…。


…本当に突然話題が変わったな(笑)。今日のツイートは話を膨らませても面白くならないと悟ったのだ。こういう気分転換の仕方も、悪くないだろう。さっさと打ち捨ててまた来週のお楽しみっ。

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あぁそうか、今日からサッカーのワールドカップが始まるのか。4年に1度のお祭り騒ぎ。皆さん怪我に気をつけて頑張ってください。俺は寝る。

ヒカルはイタリアに嫁いだという事で家族はサッカーに熱心なのだろうか。アッズゥーリがどうのこうのって何の事だかよくわからないが、アヤツはあぁ見えてこういう事にはすぐ周りに感化される方だから気がついたらイタリアチームを応援しているかもしれない。日本語で呟く時はイタリアを応援し、イタリアを応援する時はイタリア語でツイートすればOK。誰かへのリプライにしておけばなおよし。Twitter公式はお願いだから最初に映す画面をwith replierにしといてくれいちいち面倒くさい。まぁTween使ってるからそんなに出番ないのですけどね。

何の話だっけ。今日は久々に妙に晴れてるから若干戸惑っているのだった。梅雨のノリじゃない(笑)。FL15 Bonus Tracksの話を続けたかったのにこうお天道様に燦々と輝かれていてはね。

そうなんよ、あのDemo Tracksには、本当におひさまのかおりがしない。閉ざされた部屋で作られている感じ。time will tellですら、雲の上のalways blue skyってのは自分の想像でしかなくって…と言いたくなる。Never Let Goに出てくる太陽がいちばんリアルだが、それはまるで砂漠に照りつける陽射しの如く、恵みではなく苛みである。

そう考えると、Another Chanceのまぶしい太陽がいちばん太陽らしい太陽か? つまり、英語で"It's fine."と答えるような、日本語で「いいお天気ですね」と返すような、そういう望ましい陽射し…しかしここでも、太陽はシグナルを見逃させる「邪魔」として描かれている。なんだかどこまでもIn My Roomな作品だ。

特にこの傾向は、自由に外出出来ていた筈のこの1stアルバムに顕著だ。後年になると、Passionのように身体全体に陽の光を浴びせるような楽曲も出てくる。あの歌の世界は、架空かもしれないがどこまでも晴れ渡る青空があって初めて成り立つ曲。この頃はパパラッチに苛まれていたと照實さんが言及していたが、そんなホテル暮らしの中での欠落から来る願望がこの…いやそうでもないな。難しい。

兎も角。First Loveアルバムに「いい天気」は似合わない。太陽の光が降り注いでいても、それは忌むべき対象である。スポーツすらインドアで済ませる、泳ぐなら室内プールであって河海湖などもってのほか…なんだったのがそののちDeep RiverやULTRA BLUEやShow Me Loveを生み出すんだから人生わからない。結局のところ、今朝の今の私のように、太陽の光に翻弄されているだけなのだろうな。それは確かに、悔しい事なのかもしれない。

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さっきまでラジオでColdplayのLIVE生中継を聴いていた。何故ラジオはもっとLIVE生中継をもっとしないのか、小さい頃から疑問だ。NHKFMではクラシック・コンサートで毎週(かな?)やっているが、民放ではLIVE生中継となれば決まってお祭り騒ぎだ。もっと日常的に出来んもんかね。

お金もかかるんだろうし、民放ならCMを入れるタイミングがないとか、色々あるんだろう。でも今の技術なら、中継のコストも昔に較べて下げられるだろうし、CMを入れる度にワン・ミニッツ・ディレイを入れていくとか出来ないんだろうか。ラジオは生放送こそ魅力なんだし、音楽に特化出来るのだから、LIVE生中継がここまで少ないのは、何というか、勿体無い。

一度びAMラジオにチャンネルを合わせれば、毎晩のようにプロ野球中継がある。とんと中継しなくなったテレビとはえらい違いである。メジャーリーグまで朝からやってるし、何を血迷ったかサッカーまで中継している。NHKなら大相撲だ。短波なら競輪競馬…テレビよりスポーツ/競技の生中継率は高い位である。

これは、変な話だ。スポーツなんて目で見てなんぼの娯楽だろうに、我々は(と言っても私より上の世代にしか通じないかもしれないが)当たり前のようにラジオでのスポーツ中継を楽しんでいる。スピーカーに向かってガッツポーズしても何にもならんっちゅーの。

音楽の演奏会は、音が主役なのだからスポーツの生中継より遥かに多くの魅力を伝えられる筈なのだ、ラジオでの生中継というものは。どういう事情があるか知らないが、人々を演奏会々場にいざなう為にも、もっと頻繁にラジオでLIVE生中継をして欲しい。出来ればプロ野球の生中継並みの頻度でな。

もしかしたら、日本ではLIVEの生中継に耐えられるだけの生歌を聞かせられるシンガーが少ないのだろうか。だとしたら悲しい。

ヒカルなら心配は要らない。多くな人が、3年半前のWild Lifeの生中継を12月8日に目撃した筈だ。生でもあれだけ歌えるものなのだ…

…とは書いてみたが、「でもやっぱりCDの方がよかった」と言う人も結構居るのではないか。ここが難しいところで、CDでサウンドに凝りすぎてしまった為ライブ・バージョンが物足りなく感じられる事が多々ある。ヒカルも、コーラスを例えば48トラック重ねているならば、どれだけバックコーラスのテープをしっかり流しても、スタジオ・バージョンにはかなわないだろう。ラジオ局も、そんなのばっかりなら、わざわざスポンサー探して中継車を出して必死でLIVEを生中継するよりも、局でCD探してきてそのまま流す方がラクだし金かかんないしリスナーのウケもいいし…なんて風に考えてしまう。そして事実そうなんだろう。

何かを、考えなくてはならない。ヒカルに最も期待されるのは、例えば派手なステージ・セットや何十人のダンスや演出や豪華な衣装ではない。普段着で出てこようがマイク一本で聴衆を満足させる事である。それが出来るかどうか。

スタジオバージョンを出来るだけライブバージョンと変わらないように、という姿勢をヒカルはとらないだろう。そこは妥協しない。しかし、それによってリスナーの理想はとてもライブで再現できないような所まで行ってしまう。録音技術の発達した今の時代ならではの悩みとはいえる。

Led Zeppelinのように毎回即興演奏を披露出来るのならいいのだが。ジャズ・アーティストなら普通にそれが可能で、もし上原ひろみのLIVE生中継が5夜連続で聴けるのなら、たった1夜の生中継より逆に私は興味をそそられる。毎晩聴いてみて、その夜ごとに何が違うか、その変化を聴いてみたくなる。それだけのウデをもったピアニストだし。しかしそれはPopsではない。Led Zeppelinはそれを大衆に向けてやったから凄いのだ。

いいアイデアは結局思い付かないが、宇多田ヒカルのLIVE生中継ならラジオででも聴いてみたい、スタジオバージョンよりずっといいから、と言って貰える為には何が必要か。現地に居合わせるという高揚感が無い分、リスナーの評価はクールだろう。今や映像つきでLIVEストリーミングするのが当たり前の時代になっているからこそ、ラジオで音だけで生中継されて"試される"のは結構シビアかもしれない。ちょっとやってみてほしい。そしていつの日か、スポーツの生中継よりずっと興奮したと言って貰えたらいいのにな。

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おごそかて(笑)。おろそかの間違いやな~。

件のデモバージョンの仮アレンジは総て河野圭によるものだとか。なるほど、確かに当時のヒカルにこんなに"それっぽい"サウンドが作れるとは思えない。こうして見ると、1stアルバムの時点で彼の貢献度は相当のものであった事がわかる。3rdアルバムまでは彼がサウンド上の最重要人物である事は間違いないだろう。

第一印象で私の耳にとまったのは、各々ベースラインの動き方がオリジナル…というと話の方向が逆になるな、完成版とかなり異なっている。それどころか、完成版より面白みのあるラインを描いているとすら思える。デモにあったアイデアをこうやって"ごっそり削って"いるのは、単純に考えるとヒカルからの提案だったのかなと思えてくる。ULTRA BLUE以降のサウンドと比較してもそう思う。

一方で、基本的なパーカッションによるリズムパターンは変わってないケースもある。Give Me A Reasonなどはほぼそのままだ。同曲は、最初に聴いた時から「リズムがちゃかぽこうるさいなぁ。もっとしっとりと聴かせればよいのに。」と思っていたのだが、これを聴くと寧ろ、先にこのリズムパターンがあってそこからメロディーが生まれてきたのではないかと示唆されているように思う。所謂「リズムとメロディーの分かち難い関係」である。

斯様にデモから見えてくる事は数多い。ムビノンなどは、あのインパクト抜群のサウンドを決定づけたエレキギターと80年代ハウス・ミュージック風鍵盤群の組み合わせがまるで見当たらない。このデモのまま完成形に持っていって果たしてあのインパクトが生まれていたかどうか。Tribal Mixを聴く限り、どんなサウンドでもこのメロディーは強く印象に残った事は間違いないが、切り込み方としては弱い気がする。

改めて、ヒカルはリズムパターン(とコード進行)から曲を作るのだなと思わされた。そこにベースラインが入り込む余地はない。ロック耳からすると、まずギターとベースのリフが生まれてそこにドラムパターンが乗っかってきて、曲に流れが生まれたところでメロディーが乗っかる…みたいな発想なので、随分と違うものだなと痛感させられる。もし98年当時の流行がロックだったとしたら、もしかしたらFirst Loveは全然違ったスタイルになっていたかもしれない。R&Bの、比較的シンプルながらアタックの強いリズムセクションのサウンドと当時のヒカルの曲作りの手法は相性がよかったのだ。

これも、鶏が先か卵が先かという話で、当時R&Bが流行っていたから(それは、そういった曲作りに合ったテクノロジーが整ってきていた、というのもあるのだが)ヒカルがそういう曲作りの方法に自然となっていったのか、ヒカルの曲作りがたまたま時代に合致したのか、今んとこはよくわからない。しかし、こうやってデモバージョンを聴く事で、どのアイデアが最初っからあって、どのアイデアが後から付け足されたかがよく見えてくる。読み取るべき事柄はとても多い。もっと聴き込んで&聴き比べてみないとですわね。

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幾つかのDemo Versionは奇妙な二部構成になっている。前半はマイクから録音したものなのか、咳払いやら欠伸まで入ったヒカルの"生の声"をフィーチャーした音で、後半は一転、完成度の高い、本来で言うところのDemo Versionとなっている。これは一体何なのだろうか。

いちばんの謎は、音楽を再生する時に鳴る"ガチャコン"という音だ。何なんだあれは。カセットテープを再生する時にスイッチを押す音、というのが最も納得のいく説明だが、1997年だか1998年にこんな物理的なスイッチを押すカセットデッキがあったのだろうか。テープを使う事自体は別に不思議ではない。Demo作りの時にDAT(Digital Audio Tape)を使うのはよくある(あった)事だ。しかし、ガチャコンなんて音のするもんあったかなぁ。何しろ、マイクで録音している音源なのだから、これ実際に部屋に響いてる音だからね。音楽より音デカいよ。

そもそも、何故こんなものが録音してあったのだろう。一体誰が録音していたのか。英語での喋りを聴いていると、どうやら「今歌はこれくらいまで完成してますよ」という事を誰かに説明しているように聞こえる。或いは、ヒカル自身が自分自身の為のメモとしてマイクに向かっているのかもしれない。そうするとここは部屋なのか、スタジオなのか。よくわからない。あとでもう一度インタビュー読み直してみるわ。

もしかしたらこの「ガチャコン」、演出かもしれないな。実際にはこんな音が鳴っていない、或いは鳴っていてももっと小さな音だったかもしれない。へごちんの腹は実際に鳴ったのだけどアニメに起こす時には音を付け足した、みたいなな(何の話だよ)。つまり、この奇妙な二部構成は、ただ発掘された音源を繋ぎ合わせたのではなく、かなり凝って編集されているのかもしれない。

ちょっと疑心暗鬼気味だが、まぁもしそうだったとしよう。私がプロデューサーだったら、この奇妙な二部構成でプロモーション・ヴィデオを作ろうとするだろう。出来れば、Fluxmationのようなアニメーションがいい。イン・マイ・ルームでリラックスしている主人公が、欠伸や咳払いをしながら歌を歌ってみている。それが一転、スタジオやステージに場面が転換してDemo Versionの歌を本格的に歌う…という構成だ。これを、例えばCSの音楽専門チャンネルのみでゲリラ的に流す。何の予告もなくこのヴィデオに遭遇した人は「一体これは何なんだ!?」と面食らうだろう。プロモーション効果は絶大な筈だ。今頃言ってももう遅いけど。

いや、遅くはないか。今後、Distance以降のアルバムも記念盤が発売されそれぞれの時期のDemo Versionが発表される筈だ。それに合わせて、上記のようなプロモーションヴィデオを作ればよい。あクマで音楽専門チャンネル限定、或いは地上波なら深夜帯のみだ。所詮はDemo Versionなのだから、多くの人の目に触れない方がいい。「うわ、何やってんのこれ、もしかして宇多田ヒカル本人?」と思わせて豪華盤に手を伸ばしてもらえればよい。次回本気でやってくんないかなぁ…。

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一応クレジット上は「Demo Version」という事になっているが、これは看板に偽り有り、だ。いや、慣例に従えば、だな。通常はDemo Versionとして公式リリースする場合、もっと完成度の高いものを発表するのが通例なのだが、このFL15の場合は、曲によっては曲として聴かせる事すら意図していないものまである。ここまで来るともうDemonstration(実演)というよりDocument(記録)である。

これは一体どういう事なのか。豪華盤でも、えらく派手に(全曲にわたって)作りかけの歌詞を公開してくれている。これじゃまるでサイヤ人の…じゃなくて、制作過程のバーゲンセールだ。

ヒカルってここまであからさまに"途中"を公表した事があったっけ? Passionの没歌詞が公表された時えらく興奮した事を覚えているが(そういえばあの没歌詞ちゃん、どこをどうとっても現在のPassionの歌メロにのっかりきらないんだけどあれどうやって歌ってたんだろう??)、つまりそれだけレアケースだった筈だ。それがここに来て、である。

勿論、First Loveというアルバムが完成品として世に出ていて、皆がもう"聴き終わっている"というのがいちばん大きい。まだ完成していない制作過程の作品について何か公表するような事はしないだろう。それはわかる。加えて、今までこうやって自分の作品を振り返るという作業をした事がなかったというのも大きい。なかなか、お膳立てしてもらわないと、特にこういうクリエイター(祝・来日!(違います))気質の人は次から次へと新しいマテリアルにかかりきりになっていくものなのでなかなか過去の作品と向き合おうという動機がない。記念盤を出すという事で促された向きがあるのは間違いない。

にしたってここまであからさまなのは凄い。本当に「今これ作ってるんだけど」という感じがしてくる。いや、そういう感じしかしてこない。個々のバージョンから細かな点大まかな点多岐に亘って種々の完成品との違いが浮き彫りになってくる。よくもまぁ許可したものだ。というかヒカルが自ら探し出してきたんだっけ? こんなでも収録してるのにそれでも没になったAutomaticの英語バージョンは一体どんな出来だったのか激しく気になるなぁ…。

ともあれ、これらは本当に貴重な音源である。料理について食べた時に美味しければいいやという人も、厨房を覗かせてもらえるとなったら「どれどれ」と身を乗り出すだろうに、一口食べる毎に「これ隠し味にお酢使ってます?」とか「下拵えの時に…」とかすぐ気になっちゃう向きからすればそりゃあもう鼻息を荒くせざるを得ない(私の事です)。こういう企画は、今後もどんどんやってもらいたい。っつっても、こういうのがリリースされるイコールヒカルのアーティスト活動休止期間に他ならないので、それはそれでちと複雑な気分かもわからない。人間って贅沢だわねぇ。

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今ちょうど来日中のGAMMA RAY、いやこれ書いてる時間はまさにLIVEの真っ最中である。少しでも時間を削って見に行くかどうかという迷いもなくはなかったが今回は見送った。新譜の出来がそこまでよくなかったからだ。LIVEは見れるうちに見ておいた方がいい、ホントミュージシャンなんて、いや人間なんていつ死ぬかわかんないんだから、というのは鉄則だが、カイ・ハンセンにはチャック・ベリーのように80歳を過ぎてもロックし続けていて欲しいので、次の機会を信じる事にしよう。いや明日気が変わって観に行くかもしんないけど。

新譜の出来がイマイチなんだよなぁ…と言いつつ、私にしては珍しく「昔はよかった」と呟いてみた。特にGAMMA RAYは1990年の1stアルバムが余りにも衝撃的で、4thアルバムでその残像を払拭するまで彼らもメンバーチェンジを繰り返しながら随分と悪戦苦闘したものだったよな…と回顧&懐古しながら、その1stアルバムを試しに聴いてみた。やはり素晴らしい。それに較べて最近の彼らは…と思ってもう一度新譜を聴き直してみると、あれれ。確かに、プロダクションは雑だし曲調の幅も狭くはなっているが、こと楽曲の出来に関していえばそんなに見劣りしないような…アルバムを代表する大作("Heading for Tomorrow"と"Avalon")もこうして聴き比べてみると互角の出来だし、ポップな曲もヘヴィな曲もフックの強さはそんなに変わらない。いや、この程度のクォリティーの差だったら全然許容範囲じゃないか…イチローの打率でいえば3割5分2厘と3割4分くらいの違いかな(なんやそのたとえは)。
兎も角、これだけの高いクォリティーを四半世紀に亘って維持し続けているのはかなり素晴らしい。固有名詞を出して申し訳ないが、20年前と較べると見る影もない小室哲哉とかとはえらい違いである。


そこまで来て漸く気が付いたのだ、自分はこの20年で随分とハードルを上げてきたのだと。いつの間にかそれに慣れっこになってしまって、半分無意識的になっていた。しかし、それは悪い事ではない。実際、この20年でGAMMA RAYの周りのバンドたちは(良い方にも悪い方にも先輩達も後輩達も)大きく変化・進化・深化してきている。それに合わせてこちらの価値基準が厳しくなっていくのは自然な事だ。ただ、流石に20年以上という時の流れの中での緩やかな変化はなかなか意識しておくのが難しい。

意識してハードルを上げている例もある。昨日話に出したアニメ「シドニアの騎士」がそれで、毎週実況しながらプー垂れてばかりいるけれど、なんだかんだで毎回結構面白いのだ。もしホントにつまらないと思ったら文句なんて言わない。ただ観なくなるだけである。自らハードルを上げて毎週々々物足りないと愚痴りながら楽しんでいる、そんなケースもあるのだ。


Hikaruの新曲が出る度に私は目一杯ハードルを上げている。毎回。それでも絶賛せざるを得ないのは本当に悔しい。色んな意味で。しかし、実はそれに加えて、きっとこの15年で私の中にも無意識的に上がったハードルや変化した価値基準なんかがある筈なのだ。それが実際どんな感じであるのかを"思い出す"のはとても難しい。しかし、宇多田ヒカルが居なかった頃に邦楽の歌手たちに対してどんな風に思っていたか、たまには思い出してみた方がよいのではないか。思い出を美化していたり、逆に必要以上に過小評価していたり。なので、"思い出の中の曲"だけではなく、実際に音源を引っ張り出してきて聴き比べてみる事で、そこらへんの無意識的な過程を炙り出せていけたらなぁと思っています。何が言いたいかというとそろそろFL15特集に戻ろうかなと。Bonus Tracks放りっぱなしだったからw

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照實さんが朝から吠えている。そんなにムキになる事はないと思うが、やはり人間活動は無期限だったか。元々のレコード契約が無期限っぽかったので当たり前っちゃ当たり前、必然っちゃ必然なのじゃが、このタイミングでそうキッパリ言われると何かあったのかと思ってしまう。

今年中の復帰に向けて着々と準備進行中…というのなら、期間についての質問が飛んできたらまずほくそ笑む筈だ。余裕である。今回の照實さんのリプライには余裕が感じられない。何かアクシデントがあって事が予定通りに進んでいないんじゃないかと勘ぐらせる。

でも、大丈夫なんだろうな。もっと具体的な話かもしれない。プロモーション戦略上、発売時期や発表時期をいつにするか、これからずらすか、といった点で話し合いがもたれているのかもしれない。

会社としては、実質ユニバーサル移籍第1弾的なスタンスで居るのだろう。A&Rチームは大体EMIのままだろうが、彼らは今回、UMGの他のレーベルに対してその力を証明しなくてはならない。ヒカルの無期限契約に関しても、EMIからのチームは「邦楽界の宝なんだし」と理解を示しているだろうが、グループ全体からみた場合未知数だろう。

メジャーレコード会社は綿密にリリースデイトを決めている。どの大物がいつ何を発表するか。様々なピースを組み合わせながらグループ全体での利益を追い求めるだろう。それはEMI時代も同様だったろうが、UMGになってその複雑さは増したに違いない。一体どのレベルのミーティングで決定を下しているのか想像もつかないが、EMIA&R陣に相当のプレッシャーがかかっているのは間違いないだろう。

損な戦いである。知名度からすれば日本でも最強の部類に入るのだから、このクラスのタイアップならこれ位は売ってもらわないと…という空気が誰からとなく漂うだろう。あーやだやだ。しかし、無期限契約という殆ど特例と言っていい契約を結んでいる"ご身分"なのだから、それなりの結果を出さないと確かに、グループ全体での足場は悪くなるだろう。繰り返し言っておくが、EMI時代からのメンバーはそんなみみっちい事は言わない。いつまででも待つだろうし、何よりずっと結果を出してきたのだから、仮に不遇の時代を迎えたとしても一緒に頑張ろうくらいに思ってるんじゃないかな。

過去の大成功と比較されるのもやりにくいもんだ。今は昔と状況が違う。しかし、松任谷由実が荒井由実時代とは異なるアプローチで過去を遥かに上回る大成功を収めたような例を、多分持ち出されるだろう。

第一に開拓すべきはファンではない。今拓いていかなくてはならないのは、まず「何をもって成功と呼ぶのか」という基準である。AKBグループの登場によって、CD売上は基準とならなくなった。では配信売上の数字なのか? Youtubeの再生回数なのか? Twitterのフォロワーの伸び率? 何もかもが決め手にかける。何れも、ここで数字を伸ばしたからといって成功だと"思ってもらえる"保証はない。

着うたダウンロード数も、当時は"新しい基準"だったが、一瞬で廃れた。つくづく、よくぞその一瞬にのっかれたものだなぁと、今にして思う。ああいった、新しい物差しが必要だ。それを大衆が共有する事によってまた売れていくのだから…でも一体何を売ればいいんだ…という風に袋小路に迷い込んでしまう。この状況を何とかしたい。

はてさて、どうなる事やら。また続くであろう照實さんの次のツイートを待つ事にしますかな。

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