無意識日記
宇多田光 word:i_
 



歌は世界の印、世界の標、世界を知る術、歌は世界のシルエット、、、

歌は人への道しるべ、歌う人への未知を知る術、歌は、、、

世界と人とは因果なものだ。人は世界がなくては生きられないが、世界も人が居なくては知られない。世界があるかどうかもわからない。時間の刻みを通して、人と世界は対話を続ける。

人と人は世界によって分けられている。人と人を分けるのが世界だともいえる。

同じ歌を歌う違う人。歌はどこにあるだろう。


詩なのか何なのか知らないが、出てきたので書いてみた。書いてみたらこれだった。

歌うのに訳なんて要らない。復帰々々と騒いでいるが、何故こーもあーだこーだと理由がつくのか。歌が出来た、歌った、歌おう、で何がいけないのか。

他の人ならまだわかる。お金を稼がなければならない。その為に、時機を見、人を調べ、時の刻みを数えもする。

Hikaruは何も必要ない。何故、プロのミュージシャンをやっているのだろう。もっと自由でもいいだろうに。

かいつまんで言えば、次は「何がしたくてこうなった」のかを教えて欲しいという事だ。目標があったのか、なかったのか。わかっていたのか、わからなかったのか。その答は「そんなものなかった」で十分だ。「歌が出来た。歌った。ただそれだけ。」―それでいい筈なんだが。好きでも嫌いでも、やる気があろうがなかろうが、ただ事実だけあればいい。そこまでなかなか、いかないか。

『暇…。』『曲作れよ!』というやりとりが妙に印象に残っている。締切がなくても、契約がなくても、Hikaruはこう思うのだろうか。

仮定の話をしても仕方無い。実際どうだったかだけが重要だ。


要するに今私は、未来への希望や展望が語れない状態なのだ。出来た歌に触れる事、そしてそれについて語る事、それならできる。宇多田ヒカルという『約束』が保留になっている今は、うねうねと曲がりくねってそういう気分。何が出来るか、わからない。出来たものだけが確かなものだ。しかし、これでは「過去の人」みたいだな…。


出来てた歌について語るのは、まるで化石を掘り起こすかのよう。それ自体はとても楽しいが、ロマンが無ければ途絶えてしまう。歌は、過去と未来を繋ぐもの、人と人とを繋ぐもの、過去の私と今の私を繋ぐもの。そうやってあらゆる糸を繋ぎながら世界は少しずつ紡がれていく。織られていく。歌に未来を見ようとしないのは、歌が始まるのが怖いから。歌に昔をみようとしないのは、歌が終わるのが怖いから。今歌う歌に耳を傾けないのは、"今"から、世界から逃げ出したいから。

人は沢山幸せなのに、どうしてこうなっているんだろう。歌は標、歌は知る術、歌は光のシルエット、、、、、。

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先週は大体独り言に近かったのでもう少し読めるように纏めておく。同じ内容を言い方を変えて書くってだけ。

英語ツイートの方は問題にしていない。あれが適切な発言だったかという点についてから議論は別れるのだろうが、それでいいのである。取り敢えず言ってみて、後から皆で検証する。もし不適切と判断するだったら後から訂正すればよい。何ら問題のない、通常の営みである。

で、それを次に日本語ツイートで謝罪にくる訳だがこのやり方がまずかった。自分の発言を「失礼な冗談」と切り捨てたのだ。実際に失礼な冗談だったらそれでよかったかもしれないが、違うだろうそれは。細かい事情は兎も角、「国際的な友好を促進するべく行われているスポーツで相手の国を嫌うような人々が出てくる事のないように」という、いつものHikaruらしい心根から出た発言だった筈である。何かまずい事があったとすればその部分々々を訂正すればよいところを、「失礼な冗談」と言う事で、Hikaruらしい真心ごと打ち捨ててしまっているのが問題なのだ。周囲の発言を鵜呑みにした、というのも自分自身の価値判断を蔑ろにしたという点で同方向の匂いがする。いわばHikaruはHikaruらしさを真っ向から否定しにかかっていたのだ。本来第一に守るべき自らの心の願いと祈りをなかったことにしようとした。本人が自らやっているからわかりにくいが、これを他人が発言していたとしたらどうか。最初のツイートを「失礼な冗談」と言われたら、私は怒
る。それが今回は本人の口から発せられたのだ。戸惑うのも無理はないでしょうに。

更に悪い事に、こういう形で"謝罪"してしまった事で、ここからの訂正が非常に難しいものになったのが…もう痛い。最初に、取り敢えず発言して、間違ってたと思ったら訂正して前に進めばいい、という風に書いたが、そういったやり方自体を、この発言は封じ込める。発言自体をなかったことにしようとしているのだから、ないものをなおすことはできなくなるのだ。要するに自分で自分の首を絞める発言なのである。

私は、ヒカルを蔑ろにする何か、大切にしようとしない誰かが居るとしたら、それがたとえ本人でも許せない――、と、言おうと思ったんだけど、これ以上追い詰めるような事を書き綴り続けても何も事態は改善されないだろう。最初の最初に言った通り、この件は「まるごと忘れて許す」のがいちばんである。ただ、それをすると今後ヒカルに浴びせられる心無い中傷に対して「それはおかしい」と踏み出す勇気が鈍る。彼らの発言もまた、まるごと忘れて許さなければならなくなるからだ。それでいいのかな。そっちは修羅の道だと言ったのはそういう意味だ。

先週の私の発言の幾つかを回収したつもりだがどうだろうか。今書いたようにとっとと忘れて次に行きたいがこればっかりは書くモチベーションに関わる感情の問題なのでどうにもならない。書く以上は正直に行く。こちらの筆と心が折れていては話にならないのだから。

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