無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回は駆け足で振り返った為書き方が荒かった。ちょっと補足。ボヘサマ2000は夏場に行われたので、その頃には既に、後にDistanceアルバムに収録される曲の半分がシングルとしてリリースされていた。なので2ndの曲が総て不遇という訳でもない。あクマでフルスケールのショウをやるには曲数が足りなかった、2nd発売後にコンサートをやればちょうどよかったのに、という話だ。

さて、そのDistanceが発売された後唯一行われたライブイベントがUnpluggedだった。ライブといっても基本的にはTV番組の収録だし参加できたファンも極限られた人数だったから、意義としてはヒカルのアーティストシップに関する点に注目がいく。

元々Unpluggedという米国MTVの企画は、何もかも豪奢に派手になっていった80年代の文化の反動として世に出てきた印象がある。その80年代の文化を形成したのもまたMTVであった訳だが、それに対するカウンターカルチャーを提示したという意味においてUnpluggedもまた"オルタナティヴの90年代"の申し子だった。その為、ヒカルが2001年に歌う頃にはUnpluggedの定式や伝統みたいなものが既に定着していた。既存の手法を遂にヒカルが採用した、という感じなのか。

読者にとってはどうでもいい話かもしれないが、筆者個人は"Unplugged"というコンセプトをあまり評価していない。というのも、ひとのことばを借りれば「マイクを使っている時点でUnpluggedじゃない」から、だ。いずれにせよ電気を通して音を増幅させるのならば、ただエレクトリックギターとシンセサイザー抜きで既存の曲をリアレンジする、という以上のものではないからである。コンセプトを評価していないというより、"看板に偽り有り"と思っている、と書く方が妥当かな。

なので、Unpluggedのミュージシャンシップについての意義は、アコースティック・サウンドそのものよりそのリラックスしたセッティングにある、と私は解釈する。名言「スナックひかるへようこそ」は、その状況を端的に表現したものである。

時は2001年7月21日。照實さんの誕生日に開かれたこのライブは、FINAL DISANCEの制作直後に開かれたものだでた。この曲をナマで歌う為にこの場が設けられたといっても過言ではない。お誂え向きにストリングス・チームも大勢フィーチャされていた。渡りに船とはこのことだ、と当時も思ったし今でも思っている。運命を引き寄せる力を、この楽曲は持っていたのだ。続く。

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コンサートのセットリストというのは永遠に悩みの種だ。大体2時間のLIVEをやるのに必要な曲は20曲前後。デビューしたてでまだアルバムを1枚しか出していないアーティストにとっては全く曲が足りず、カバーを歌ったりしてバリエーションを増やすしかない。一方10年、20年やってるベテランはリクエストされる楽曲を全部歌いたくてもとても2時間では尺が足りず、泣く泣く削っていくしかない。観に来る人総てを満足させるのは無理とはわかってはいるものの、お目当ての曲が聴けなくてがっかりして帰ったという話を耳にすると切なくなる。2時間のコンサートにとって、曲は少なすぎても多すぎても駄目である。曲順はともかく、どの曲を歌うかで悩まなくて済むのはアルバム2枚出した直後のツアーくらいなのである。

なのに、よりによってアルバム2枚出した後に1本もコンサートを打たなかったアーティストが居る。宇多田ヒカルである。1枚目を99年春に出した後単発のLIVEを幾つか挟んで翌00年夏にボヘミアンサマーツアーを敢行した。が、ご存知のようにこの時はまだアルバム1枚分しか曲がなかった為カバーやリミックスを惜しげもなく注ぎ込んでセットリストを構成した。特にカバーは伝説化するほど好評を博したが、まだまだ"宇多田ヒカルの世界"と胸を張って言える選曲ではなかった気がする。いや私DVDでしか観た事ないんだけどね。

そして渾身の力作Disanceを01年春に発表。3週間引きこもる程精魂込めたアルバムだったが、何故かこのあとツアー開始の報告はなく次第にシングルを発表してゆく。気がついたら年間Top10に4曲(3枚)をねじ込む程のシングルを発表し前作から僅か1年余りで02年6月に3rdアルバムDEEP RIVERを発表する。シングルCOLORSをその約半年後に発表した後UtaDAの制作に突入と共に沈黙、そこから約1年後の04年2月にヒカルの5を開催するのだった。UtaDAの活動を経てまたもシングルを連発した後06年6月に4thULTRA BLUEを発表、同時にUTADA UNITED 2006が発表されて…という流れ。更にそこから08年3月にHEART STATIONが発表されUtaDAの活動に向けて再び沈黙、09年3月のアルバム発売から1年弱でIn The Flesh、同年末にWild Lifeである。

こうしてみると、アルバム発表後にライブツアーを行ったのはFIRST LOVE、DEEP RIVER、ULTRA BLUE、This Is The One、Single Collection Vol.2の5枚、行わなかったのはDistance、Single Collection Vol.1、EXODUS、HEART STATIONの4枚である。が、シンコレ1はコンピレーションでこのあとにツアーという感じではなかったからあまり勘定に入れる必要はないだろう。また、Wild Lifeはシンコレ2の直後とはいえ同作からは4曲しか取り上げていないので寧ろ"Hステ後初"という感じの方がファンにとっては大きかった。Beautiful WorldにFoLにステゴにPoLにぼくはくまに虹色バスまで披露してくれたのだから。


こうしてみるとやはりDistanceとEXODUSの楽曲は、LIVEで主役っぽく扱われた事がないという意味で不遇な感じがする。しかし、記憶力のいい読者の方々はもう突っ込みたくてうずうずしてるだろう、この2作のアルバムのそれぞれ後には、光にとって非常に重要なLIVEがあったのだ。UnpluggedとNY Showcase Gigである。


…続きはまた次回…じゃないかもしれない。(笑)

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作家とか声優とか、活動の幅を広げる妄想を繰り広げているが、これに"英語"を掛け合わせると更に話は新しい局面に展開していく。

小説等を書くといっても、光の場合日本語で書くとは限らない。英語で書き始めるかもしれないのだ。労力の観点からいって、片方の言語で書かれたものを手ずから翻訳するかは微妙な所だ。各言語特有の表現方法に拘れば、翻訳という作業はもうひとつ作品を作るのに匹敵する。ニュアンスとしては外伝や続編に近いかもしれないが。

もし小説を英語で書き下した場合は、メディアミックスも英語圏中心の展開となろう。特に、光が声優を務める場合は両方の言語で演じる事になるのではないか。書き文字と異なり、演技に関しては手間暇よりその場でのリアルタイムでの技量が重要になるから、演技力さえ備わっていれば2つの言語で仕事するのは可能ではないか。英語版吹き替えと日本語版吹き替えの声優が同じ―何だか本職さんでもきいた事のない事態のような。

とはいっても、その場合も脚本は2言語分用意しなきゃいけない訳か。これはひとに頼んだ方がいいわな。

そんなに突拍子もない事を言っている訳ではない、と思う。キングダムハーツでは現実に英語版と日本語版の両方で歌詞を書いて歌っているのだから。だがこの2曲での光の労苦を振り返ると、例えば映画一本分の脚本を用意するとかかなり頭の痛い事態だな。

漫画は段組が左右逆転するからまた難しい。4コマならアイデア一発でどうとでもなるんだがなぁ。それにしても今に至っても日本の漫画文化ってフキダシ縦書きなんだね。国内での流通しか考えられていないから当然っちゃ当然かもしれないが、最初から輸出を視野に入れて横書きで書かれた漫画ってどれ位あるんだろう。描き文字をどうするかっていう問題もあるしなぁ…という事で、光が漫画を書く時は最初っから横書きでいってみても面白いかも。幼い頃は雑誌投稿をしたこともある位だし(なんだっけ、それいけムームー?)、今でも興味あるんじゃないかな。

日本の文化は国内で閉じている事が多い。ヒカルの点線だって日本語版しか出ていない。まぁ元が日本語だから仕方ないんだけど。しかし、EMIと世界契約した以上、ますますボーダーレスに光は活動範囲を広げられるだろう。今までにない組み合わせの作品を創るチャンスは、ますます広がってゆくのである。

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かなり遠い将来になるだろうが、ヒカル主導のメディアミックスというのも、長い人生のうちでは一度くらいあるかもしれない。

原作の小説を書き自ら漫画化しテーマソングを作詞作曲プロデュースし歌いPVを撮る。ここまでならやれるだろう。そこからアニメ化や映画化や実写化していくにあたって果たして声優役が回ってくるか。以前述べたようにそこが焦点である。いやいやまぢで。

声優と歌手、同じ声をコントロールする職業である以上かなりの共通点がある筈で、カツゼツのよさやイントネーションへの拘りなどそのまま援用できる技能もあるだろう。

しかし、恐らくいちばん必要なのは"演技力"である。声優はまず俳優・女優即ち役者であらねばならない、とは頻りに聞かれる言葉である。光に"芝居"が出来るか。興味はそちらに移るだろう。

まぁ大抵ここで意見が別れる。歌手に役者の仕事をして欲しいか否か。「そんな暇があるなら唄ってくれよ」というのが本音な人もかなり多いだろう。たとえ光がべらぼうに演技が巧いとしても、だ。

余りに光に心酔していると、光がやる事だったら何でもいい、という領域に足を踏み込む。さほどファンでない人が「宇多田が芝居?やればいいんじゃなぁい?」と容認するのと結果的には同じになる。なんかちょっと不思議。

いずれにしてもいちばん気になるのは光にその気があるかどうか、だ。ただ、自分で小説を(或いは漫画原作を)書いて歌まで唄ってしまうと、主人公のキャラクターに対する思い入れと堅固なイメージが両方増幅してしまい、「私が自分でやりたい」と最終的に言い出しかねない。

光の場合、毎度そうである。「だったら自分でやればいいじゃん」と、自ら手掛けてしまうのだ。GBHPVも当初はメガホンとる予定はなかったというし。次からの仕事もそうなるんじゃないか。

今の光に訊いても「お芝居なんて」と断る公算が高そうだ。「三十路前のウェイトレス役なら何とか」位までなら言ってくれそうだけど。でもそれも、自ら本を書いてキャラクターに愛着が湧いてくれば別モノとなるだろう。

実際、光自身も、「ぼくはくま」をレコーディングした時は自らが着ぐるみを着込むまでに至るとは考えていなかった筈である。150万かけて自腹で着ぐるみを発注し、もし放置されたらそのまま死んでしまうであろうリスクまで負って何の益体もない会社訪問まで敢行した。いやまぁ結果的にはテレビCMやコンサートのオープニングアニメなどに活かされる事になるのでよかったのだけれど。

兎に角、光は気に入ったものは自分の手で成さないと気が済まない。気に入り過ぎると、自分がそれにならないと気が済まないのだ。「大きくなったらウニになる!」である(何のネタだ)。寿司のネタだな。(そ、そうっすか…)

という感じなので、光が小説を書き始めたら、その何年後かに主人公を自ら何らかのかたちで演じている可能性は結構ある。出来れば声優をやって、汚名を返上して欲しいものだが黒歴史って案外忘れ去られるの早いんだよねぇ。ファンとして無駄に拘り過ぎかな私?

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2009年の2月だったか、光がWebのインタビューで「恋人居ますよ」とダイレクトに答えていた事があった。これのニュースバリューがどれ位かははかりかねたが、どこかが記事にしたりするのかな~と漠然と思っていた。日本のWebニュースサイトは、海外のニュース記事の要約のみならず、有名人のblogやTwitterでの発言だけでも記事に起こしてしまうのだから、ソースとしては申し分ないと解釈した。が、実際には、筆者の知る限りに於いてはどこも日本語の記事として取り上げる所はなかった。

ニュースバリューとしてはどうだったか。当時の空気を思い出す必要はある。が、ほんのちょっとしたツイートひとつでも記事になるのが宇多田ヒカルだ。UtaDA名義で活動中だからといって、熱愛発覚といえる内容が全くスルーされるというのも考え難い。という事は、日本の記者の誰も、その元の英文記事に目を通さなかったという事になる。確かに、海外の記事までチェックするのは物理的に時間的に無理だというのはわかるが、メディアに対してひとつのタレコミもなかったというのはどうなのか。

解釈するとすれば、英語を読み書きできる・普段からしている人間の絶対数が少ない、という事だろうか。普段必要ない仕事ならともかく、情報や報道の仕事なら海外の記事の翻訳は重要だろうからどうもそれも考えづらい。

となると、英語の記事を読むUtaDAファン或いはJpopファンの中に、記者に情報を流す人間が1人も居なかったという事になるのだろうか。これだけ広い日本という国で、ここまで知名度のあるアーティストに対してそんな事有り得るのか。いや、私は色々買い被り過ぎているかもしれない。然し、そう考えるのがいちばん妥当なのかなぁ。

先程も書いたように、何千何万と存在する有名人の情報を記者さんたちだけで収集しようだなんて無理がある。何らかの在野からの手助けが必要な筈だ―というのが私の思い込みなのだが、違うのかな。それにしても、だとすると光のファンの絶対数の少なさを考え直さないといけないかもしれない。もともとインター出身でバイリンガルのイメージが強かった光には英語も日本語もというファンが多いと勝手に思っていたんだがそうでもないのか。何しろ、上記の仮説に基づくならば、熱愛発覚話をリークしようという人間がひとりも紛れ込まない程度の人数しか居ないのだ。そういった人々は皆「そっとしておくか」と思っていてくれている、或いはマスコミに連絡しようだなんて露ほども思わない、そんな人たちなのだろうか。

結局の所どう解釈していいかはわからない。とりあえず、まぁそれなら無闇に日本語に翻訳しない方がいいんじゃないかな、とは思ったりもする。英語障壁は、私が思っている以上に高いのかもしれないのだから。

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13日の金曜日というとBLACK SABBATHかQUEENの話をするのが通例になっている。前者が2月13日の金曜日に、後者が7月13日の金曜日にそれぞれデビューしたからなのだが今日は4月13日の金曜日。特にどちらでもない。まぁいいや。

光がフレディ・マーキュリーを尊敬しているもんだから毎度QUEENの話になる。だから今日はサバスの話でもしようかな。

ブラック・サバスはバーミンガム出身のヘヴィメタルバンド。というか、実質"メタル"と名のつく音楽の源流、総元締めみたいなもんだ。最早世代が交代し過ぎて彼らに直接影響を受けた…ってそんな話始めたら時間が幾らあっても足りない。要点だけかいつまもう。彼らは全世界規模でゴッドファーザー的扱いだが日本では人気がない。寧ろシンガーのオジー・オズボーンのソロ活動の方が人気ある位だ。何故か。彼らがデビューした70年代の10年間に一度も来日しなかったからである。

何しろジャンルのオリジネイターだからナマで体験しない事にはその凄みは伝わらない、というか、オリジナルの特徴とは、聴き手の中に新しい価値観を創発させる事にある。予め決められた評価基準では計れない何かを新たに人の心に介入させる作業。日本という国はブラックサバスについてこの作業を怠った。その為、サバスに源流を発するメタルの文化が育たなかったのだ。もっと踏み込んで言えば、サバスによって"音楽と接する"というライフスタイルを新たに獲得するはずの層を取り込み損ねたのだ。その結果何が起こったかといえば、「オリジナルサバスは日本人に合わない」という評価の定着である。違うと思う。サバスによって音楽を聴き始めるはずの人たちが音楽を聴く習慣を身につけなかったからだ。私は独断と偏見でそう推察する。

それ位にLIVEでの"体験"は影響力がある。ヒカルといえばCDや着うたの売上数ばかりに話がいくが、人の人生への影響力という点では恐らくLIVEの方が上なんじゃないか。光は歌は上手いがLIVEは決してうまくない。まだまだ成長の余地がある。歌はこれ以上どう歌うのかというレベルだ。それでもやはり、あそこに行ったら人生が変わる。変えたかろうが変えたくなかろうが変わってしまうのだ。それが最高に面白い。

その意味で、ヒカルのLIVEの本数が少なかった事は、オリジナルサバスが来日しなかったのと似た結果を生み出しつつあるのかもしれない。即ち、生まれたかもしれない文化が生まれ損ねている、或いは、規模が小さいままでいるかもしれない。わからない。今更言って仕方ない。学びたい教訓は、LIVEはやれる時にやれるだけやっといた方がいいというありきたりな話だ。しかし、サバス人気の彼我の差をみるにつけ、どうしてもたらればの話をしたくなってしまうのである。

何故こんなに私がLIVEにこだわるかというと、先程述べたようにそこに新しい価値観が生まれ得るからである。家で音楽を聴いていても、どうしても自分の価値観から抜け出た評価が下せない。そこが自分のHomeだからである。しかしLIVE会場はAway、相手の空間なのだ。そこに飛び込んでみる事で新しく生まれる事がきっとある。ちょっと理屈としてはなってないが、それが私の実感の表現である。確かに、私が光のLIVEに行かなかったら、いろんなことがこんな風にはなってなかっただろうから…


…だなんて書き方をすると最終回フラグみたいで笑える。勿論、次回以降もいつも通りへらへらと続きますよと(笑)。

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人間活動で人間力(?)が上がれば、復帰後はLIVE活動が盛んになるのではという期待も、なくはない。が、あの才能の多彩さを考えれば寧ろもっと活動の幅が広がり、LIVEはますます貴重になるかもしれない。それは危惧となる。

前からこの問題には触れているが、LIVEのプレミア感が増しすぎると内容の評価が不自然な方に傾く恐れがある。見に来れただけで満足、みたいな空気は必ずしもアーティストの為にならない。楽しみにきてるんだから評価云々みたいなギスギスした空気を持ち込まないで欲しいと感じる向きもあるだろう。私もそうだ。が、昔競技場をコンサート会場にするような超ビッグなバンドがコアなファンしか楽しめないようなショウを展開するのをテレビで見掛けた時、「やっぱりLIVEは熱心でない人たちにも観てもらった方がいいかもな」と思った。

コアなファンだけでスタジアムが埋まってしまうと、感覚が麻痺をする。何しろ、それ以上大きな会場がないんだからそこから何かを根本的に改善しようだなんて思えないからだ。観客が減るリスクをとる位だったら、確実に今までやってきた事をそのまま続ける方がいい、となるのは当然の成り行きというヤツだろう。

んだがしかし、私がヒカルに求めるのはそっちではない。出来れば、いつも言っているように、その晩暇な人がたまたまふらりと立ち寄った時に魅了できるようなコンサートを開いて欲しいのである。今のところ、しっかりそっちの方向で成長しているので心配はしていない。

送り手側がここから「内向き」になっていくとは考えづらい。寧ろ、ファンの側が内向き志向になりはしないかという懸念の方が大きい。そうならない為にもツアーを適切な規模で行っていった方がいい、となるのだがそこまで体力がもつかどうか。

ここらへんは二律背反なのだ。光がもし、更に新しい分野に進出したら―例えば小説を書いたとしよう、そこで新しくファンになってくれた人たちがLIVEに来るかもしれないのである。自分で書いた小説のイメージソングまで自作しちゃったりなんかしたら尚更だ。そうなるとますます「外向け」のLIVEをする必要が出てくる。嬉しい事態ではあるのだが。

逆の考え方も出来るか。本数を抑えればなれ合う事もなく常に新鮮な気持ちで向かい合う事ができる。それは確かにメリットだが、先程触れたプレミア感のデメリットとのバランス次第か。

活動毎に様々なファン層が流入してくるならば、ますます「生身の光に会える」LIVEの場の重要性は高まる。それと共に中身の充実度と普遍性も問われてくる。逆にいえば、LIVEを主軸にしてスケジュールを立てれば見通しはよくなると思うのだがそこから先は光の人生の生き方の話になるからじーっと見守るしかない。はてさて人間活動はどちらの道への助力となるか、やはり興味津々である。

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つまりヒカルは音楽を提示する時に「視覚」をどう捉えているのかという話なのだが。

UTUBEのGBHPVはその試金石、スタートラインと言っていいのではないか。前も述べたように、PVのコンセプト自体がYoutubeの存在を前提にしている。エンディングのアイデアが何よりそれを物語る。ニコ動でも定番の「歌ってみた」動画をオフィシャルにやってしまうという発想。UtaDAのカラオケコンテストなどもヒントになった事だろう。一応私も便宜上"PV"と呼んではいるが、そろそろ"別の何か"なんじゃないかという感じもしてきている。

音楽に映像をつけるのは冒険である。危険でありリスクでもある。個々のイマジネーションを殺ぐからだ。その自由を奪ってまで視覚に訴えかける何かを提示すべきかどうかも疑問は残る。寧ろ、人の視覚をクリエイティブに刺激する為だと逆から捉えるならば、視覚情報はなければないほどいい。それもまたジレンマである。

GBHPV@UTUBEを教訓にするならば、やはり提示する"場"のセッティング・アレンジが重要となる。どのようなデバイスでアクセスして貰うか。それは未来にならないとわからないか。

古典的な方向からも考えてみる。前述したように、PVDVDは一曲で終わるから呆気ない。我々はUHシリーズでメイキングやなんやを添付した状態でPVを何本も見れるDVDをもって、何かひとつの作品として見なし評価する。これをもっとドラスティックにアピールするならコンセプトアルバムを作って全曲のPVも撮影してエンドレスいやシームレスに映像を流し続ける、なんてアイデアもある。宇多田ヒカルのポジションや使える制作費の規模を考えればありえない話ではない。まぁ、もし宇多田光さんがGBHPVと同様にディレクションするとすれば完成まで3年はくだらないとは思いますが。

宇多田光名義は、PV監督の名義というよりひとりの表現者としての名義であるという。ならば、この名義の許でならもっと幅広い表現方法を用いた時もこの呼称を使ってくるだろう。作家はもうペンネームが決まっているらしいから別の道、例えば役者、例えば画家、例えばダンサーなど(最後のはないかな…)、いろんな表現について光の名前を見る事になるかもしれない。

その多様性の端緒がGBHPVならば、そこから何を読み取っておくか、だ。ファンとの距離感や、彼らとの繋がり方、彼らと積み重ねてきた歴史、ヒカルが音楽にどのようなイメージを持っているか(例えば、GBHの展開部では部屋が暗くなりミラーボールが回る、とかだ)、自分が魅力的に映るアングル、などなど、楽曲だけでは表現できないようなことも、映像の助けを借りれば表現できる。光が復帰後どれ位の頻度で宇多田光名義を用いてくるか、「余った目をどうするか」という問題の対処法を推し量るには、それがひとつの大きな目安となるかもしれない。

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そもそも、音楽が主役であって欲しいとヒカルが思っているかどうかから考えないといけなかっただろうか。しかし、ここは難しい論点だ。

歌は気軽に楽しんで欲しい、肩肘張らずに人生の彩りのひとつとして接して欲しい、という風にも考えてはいるだろうが、にしては出て来る楽曲が気合い入り過ぎている、というか、どうぞお気軽に楽しんで下さい、という体裁でもないように思うのだ。

これは、昔からある本質的な論点で、光本人はPopsを志向しているのに(それがいちばん前面に押し出されたのはUtaDAのThisIsTheOneだが)、本人の真剣さにどうしても聴き手は昔大きく心揺さぶられてしまう。あの歌唱の集中力とシリアスさでは致し方無いともいえる。

ここでミスマッチが起きているのかどうか。作品を真面目に鑑賞するような層が果たして宇多田ヒカルを聴いているのか。J-popだからといって避けられてはしないか。これも昔からある論点だが、J-popの人たちも大概真剣に曲作りしているだろうにそれをそういう風に軽くみられるのは音楽性というより見せ方、売り出し方から派生する偏見だろうか。

例えば、クラシックとひとくちに言ってもふざけた曲や気楽な曲は沢山ある。そういった側面を押し込めてしまうのはそこにある見せ方の様式のせいだろう。あれだけ正装で固めて由緒正しそうなコンサートホールで咳払いひとつも憚られる雰囲気の中で演奏されればどうしたって高尚なイメージがついてしまう。そのセッティング・アレンジメントが聴き方、接し方を決めてしまうのだ。

ヒカルの曲も、その内容に見合ったセッティング・アレンジメントを施したい、というのがこの一連のエントリーの主旨である。PVDVDの"ミスマッチ"(手間暇の割に5分は短い)みたいなことがないように、どのメディアで、どんなフォーマットで、どんな規模で、どんなタイミングで提示するか。日進月歩の技術進歩の中で取り得る選択肢は様々だが、どうにもこれといって浮かばない。というか、答として既に"ライブ・コンサート"というものがあるのだから、それ以外の道を探るのは相当に険しいのである。

メディアミックスというのは、ひとつのキャラクター、ひとつのストーリーが生まれた時、小説、漫画、テレビアニメ、劇場版、DVD化、ゲーム等とどんどん展開していくものだ。ひとつのコンテンツの見せ方、それとの接し方を多様に提示する方法ともいえる。ヒカルの楽曲も、そういった見せ方の多様性を探りたいと思うのだが。次にどんな展開が可能か、引き続き考察してみたい。

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一体どのように音楽を「主役」として提示するか。思い出すのは(このblogで取り上げるの何回目だろ、3回目かな?)、ディズニーのファンタジアと手塚治虫の森の伝説だ。双方ともに、まず音楽が先にありきでそこに映像を付け加えた作品だ。音楽が主で映像が従である(敢えて言い切る)。そこでは"目が余る"心配もなく音楽のダイナミズムを堪能することができる。曲を聴けといってこどもに何十分も椅子に座らせるのは難儀だが、アニメを見させれば何時間でも(多分寝るまで)同じひとところに座させられるだろう。

ということなのだがPopsには既にPVというものがある。音楽が先で映像が後に作られるのだから主従関係は上記の二映画と変わらない。シングルCDの初回限定版にPVDVDを付属させるのは最早定番だ。PVは浸透しているようにみえる、筈なのにPVってなかなか作品として語られない。時々奇抜なアイデアや出演者の妙で取り上げられるだけだ。要は話題性。"プロモーション・ビデオ"としてはそれで正解だが、ひとつの作品としての"ミュージック・ビデオ"としては物足りない。

なんでこれだけPVDVDが普及してるのに盛り上がらないんだろうと考えてみると、多分呆気な過ぎるのだ。わざわざDVDを取り出してきて見始めたはいいものの5分で終わってしまう。プレイヤーやテレビやPCの電源を入れ棚からDVDを取り出してセットしてプレイボタンを押す、という手間をかけて5分で終わるってどうなのよという感覚が、やっぱりあるのではないだろうか。

という訳で今やスタンダードはYoutubeでのPVチェックである。スマートフォンも普及し、手元でもPVを見れるようになった。この手軽さ。まぁ画面が小さいと音だけ聴くケースも多いんだけどとりあえずYoutubeのお陰でPVが手軽に観れるようになった。Goodbye HappinessのDVDを持っているのに観るのは専らUTUBE、という人も多いだろうがまさにそれである。

ここから2つの教訓を導く。わざわざDVDをセットさせる位ならば、2時間のライブビデオとかの満腹感のあるコンテンツが必要である。一方、5分のPVなどはなるべく気軽に手軽にアクセスできる方法を確保するのが望ましい。それぞれに棲み分けが必要である。

となるとやっぱり音楽が主役として鑑賞されるにはライブビデオがいい、という事になり結局ミュージシャンの最大の強みはライブなのだといういつもの結論に陥ってしまう。それではライブより創作を重視するヒカルのスタイルを活かせない。あれ、ホントどうしたらいいんだろうなぁ。続く。

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LIVEを主体として活動する訳でもないミュージシャンが、他の、今や群雄割拠で何れも隆盛を極めるエンターテインメント・コンテンツを差し置いて、添え物でも何かの代わりでもない、メインディッシュの提供者として通用する為には何が必要だろうか。

それを占う試金石として、まずノンタイアップでどこまでいけるかを見てみたい気がする。他のコンテンツの魅力や偉容を借りずに、楽曲の力で勝負する。ヒカルのキャリアでいえばFINAL DISTANCEやHeart Stationがこれにあたるか。特に後者は、レコ直とのタイアップはあるにはあったが、それはレコ直の偉容を借りた訳でも何でもなく、レコ直の方が宇多田ヒカルの偉容を借りた形であった。また、全国のラジオ局と大々的なキャンペーンを張ったが、それも楽曲自体のプロモーションの為である。タイアップがなくとも、これだけのプロモが可能なんだなと改めて思わせた。

Heart Stationの成果に関しては判断が難しい。シングルCDの売上からすれば(ヒカルからすれば)大した事はなかったが、アルバムの売上は2008年当時としては驚異的となった為、タイトル・トラックとしての露払いの役割は存分に果たしたといえる。どうみるべきかは未だにわからない。

そこまで潔癖に考える事ではないかもしれない、という指摘があるならばそれは当たっていると思う。タイアップがあろうがなかろうが、曲を聴いて貰える機会があればそれを逃さない手はないではないか、と。

しかし、そうやってきた結果が現状である。AKB48がアニメになるという話題に於いて、元来のアニメファンがまず発してきたのは「荒らされる警戒感」であった。今まで純粋にアニメ自体の評価で動いていた世界にアイドルの価値観を持ち込まれる事で起こる混乱への懸念が、そこにはある。まぁ声優さんもアイドル化して久しいのだが。

音楽業界は既にそうなっている、というか80年代と00年代はそうだった、と言った方がいいか。90年代はバンドブームとプロデューサーブームによって比較的音楽自体に焦点があたった時代だった。その大トリとして最後の最後に出てきたのが宇多田ヒカルだったのだ。楽曲勝負時代の最後の象徴として、アイドルだらけのトップチャートに風を送り込んでもらいたい―その願望を差し向ける対象としてまずヒカルの名が上がるのもそういった過去の経緯があるからである。

前回、音楽が主菜になる為には"目が余る"事態にどう対処するかが課題だ、と書いた。他に何もせずに音楽を聴く、つまり"鑑賞する"
習慣はなかなか、ない。90年代に音楽自体にスポットがあたったのはカラオケ文化によるものが大きかった。つまり、聴く為というより歌う為の楽曲、という側面が強かった為、目が余るという事態にそれほど気を使わずに済んできたのである。

しかし、宇多田ヒカルの歌はカラオケで歌う為に作られているとは到底思えない。事実そうではない。純粋に鑑賞する為に作られている。かといって昔ながらのクラシックファンのように、ステレオの前で椅子に座ってゆっくり向き合って貰えたりするかというとそれもまた違う気がする。さて一体どうすればよいかという話からまた次回。

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音楽を主菜として提示できるいちばんの機会は何と言ってもLIVEである。小説や漫画やアニメや映画やゲームなどの他の娯楽に較べて何だか押され気味なコンテンツである音楽だが、ことLIVEに関しては全く他の追随を許さない。

舞台関連、つまり演劇やバレエや歌舞伎や能などのLIVEなエンターテインメントは他にもあるが、それらは総て"書き割り文化"なのである。どういうことかというと、演劇・芝居というのは書き割りによって「ここはお城ですよ」とか「今は中世、場所はヨーロッパですよ」とかの注釈が必ず着く。「ここは舞台ですよ」とは基本的に言わない。言ったら芝居でなくなるケースが大半である。その点は小説と変わらない。文章で「昔々あるところに…」と言い出して話を進めるのも、実際はそうではない(あなたは部屋で本を開いて読んでいるだけだ)けれどもとりあえず「そうであるとしよう」と約束する"書き割り文化"の一端なのである。それは漫画やアニメやゲームや映画もおんなじだ。

音楽の生演奏にはそうした書き割りは必要がない(あっても構わないけど)。横浜アリーナのセンターステージは、横浜アリーナのセンターステージであって他の何かを表現している訳ではない。アナログレコードや太陽をモチーフにしていても別にそれによって観客に「ここにレコードがあるとしましょう」とか「これは太陽のつもりです」とかを約束する訳ではない。そこにあるものはまさにそこにあるものなのだ。

そこで今歌う歌手は、何をも代替した存在ではない。ステージ上の宇多田ヒカルは歴史上の人物、例えばジャンヌダルクや小野小町を演じる訳でもなければ、想像上の生き物、メデューサやドラミちゃんを演じる訳でもない。強いていえば"宇多田ヒカル"を演じてはいるがそれはまた意味が違う。とにかく音楽のLIVEは、他の何の代わりでもない、それそのもので勝負する空間なのだ。この強みを持っている娯楽は、スポーツとか花火とかダンスとか、そういった類になる。これらは、娯楽として必ず歴史に残り続ける。何故ならば、何かの代替という観点からいえば、文章や絵画から映像、そしてバーチャルリアリティへとどんどん進化し変化(へんげ)していく為、時代と共に移り変わっていくのだが(それが出来るのが代替の本質である)、それそのもので勝負する世界は、他に何も参照するものがないのである意味最初から娯楽の終着点なのだ。つまり、時代とともに古びたり色褪せたりしないのである。

それが、生演奏の音楽の強みである。如何にテレビでバラエティーに視聴率で負け、円盤の売上でDVDに負けても、音楽にはLIVEがある。これを活かさない手はない。

…のだが、宇多田ヒカルというミュージシャンは、今後の事は兎も角今までは"LIVEは二の次"の人だった。ひたすら創作に打ち込み、作品として残る何かを生み出し続けている人なのだ。果たして、それで"主菜"なんかになれるのか。以下次回。

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エンターテインメント・コンテンツは長らく広告収益モデルと共にあった為、作品の提示・提供は"何かと絡めて"行われるのが常であった。しかし、中でも音楽は、他の、時には競合するエンターテインメント・コンテンツの中に紛れ込まされて売り出される事が多い。漫画というコンテンツは漫画単体で完結して提示されるが、音楽は様々な場所に他の何かとともに現れる。

具体的には、テレビでいえばドラマやアニメの主題歌、CMソングなどだ。事実として、「それでは聴いて下さい」と音楽を主体に提示してくれる番組より、人気ドラマの主題歌になる方が売れる。そんな具合なので音楽とは常に"付随物"という印象が拭えない。何かの添え物、副菜という感じだ。

これは単純に、音楽を聴くという行為は"目が余る"からだろう。人間、視覚が重要である。漫画を読んでいる時は"耳が余っている"事に大半は気付かないが、目が余っている場合はいつのまにか手持ち無沙汰だ。

なので、音楽の提示における普遍的な課題は視覚面の補強をどうするか、である。ドラマの主題歌が受けるのは、視覚的に印象的な場面と音楽がリンクするからである。

そこをついて大ヒット、というか音楽の世界を変えてしまったのが米国のMTV、PV文化なのだが、日本ではよくも悪くもPV文化は定着しなかった。MTVが隆盛を極めた80年代に日本の地上波では毎週ミュージシャンに生出演を強いるカウントダウン番組が強かった。この理由を考えるのは難しいが、ひとつには日本ではアイドルが強かった事が挙げられるかもしれない。ファンにとっては、アイドルがテレビに生出演している事が重要だったのだ。それにいち早く目をつけたのがミュージック・ステーションで、必ず毎週アイドルを生出演させる事で驚異的に安定感のある視聴率を弾き出し続けた。うまくやったもんだ。

つまり、日本では音楽番組ですら音楽は付随物だったのだ。90年代の歌番組、Hey!x3やうたばんはトークを主体に合間に曲を挟む形で番組を継続してきた。何とか競争の厳しいゴールデンタイムに音楽番組を、という制作者側の苦労が滲み出ているようだった。まぁこれも、元を辿れば広告モデルであるが故の苦労なのだが。

つまり、本当に音楽メインで、特にテレビを観る層のような圧倒的マジョリティを相手にするには本当に大変なのだ。音楽が付随物になるのは、先述のように視覚・聴覚のバランスにその源があるから構造的問題どはあるのだが、ここ日本に於いては更にアイドル文化の強さが話を更に難しくしている。CDをいちばん売るのが現在秋元康とジャニーさんなのはある面歴史的に必然的な結果であり、日本の大衆文化が煮詰まってきている証拠なのかもしれない。

そんな煮詰まった状況の中で現在アーティスト活動を休止しているヒカルは、音楽を主菜として提示しえる数少ない存在のうちの1人なのだが…という話からまた次回。

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…だなんて独り言を言いたくなる現在2012年4月9日の夜。ぐむぅ。

次にヒカルが作品をリリースするとして、一体どれ位売れるのかは興味のある所だ。ない? まぁそういう読者も多かろう。私もその1人かもしれないが、プライオリティにはならないまでも、ひとつの副次的話題としては取り上げたい、という感じだ。

というのも、ヒカルがPopsを志向している以上、売上がその都度次の作品に反映されていくからだ。例えばFlavor Of LifeはWild LifeでFirst Loveの後に歌われたが、ヒカルの発言を文字通り受け取るならばアーティストとしてより自信をもって提示をしたのはFoLの方であって、つまりあのFLよりも今や重視している楽曲だという事だ。それは、楽曲に刻まれた自らの成長、という面も当然あるだろうが、それ以上にFoLがより多くの人々に愛されているという事実があるからだろう。要は、こっちの方が売れたのである。売上が、コンサートでの選曲や曲順に影響する。いや勿論Popsに限った事でもないのだが、それがクッキリハッキリ表れるという面ではやはりPopsのフィールドがいちばんである。

という訳で最初の問いに戻ろう。ヒカルが戻ってきた時の市場価値は如何程だろうか。勿論帰ってくるタイミング、楽曲のよさ、タイアップの強力さ等種々の要素が絡んでくるから一概には言えない。しかし、ある程度の見立てがなければレコード会社だってどれ位の規模のプロモーションを施すのが適切かわからない。何か、手掛かり、とっかかりを見いださねばならない。

想像し易い例を考えよう。EVAQ&?への楽曲提供が、恐らく今現在の時点で最も尤もらしい予想だろう。予定とすら言っていいかもしれない。とすれば時期も自ずと決まる。2012年秋である。このタイミングでヒカルが動いてくる事はなかなか考え難いのだが、有り得るとしたらリミックスを誰かに100%任せてリリースする事か。つまり、破の時と同様ヒカルは前面に出ず、一切プロモーションを行わないかもしれない。それどころか、破より徹底していて、映画を実際に観るまで誰が唄っているかすら事前に何も情報を漏らしてこないかもしれない。完全秘匿主義である。

演出の仕方はともかく、リミックス、或いはインストゥルメンタルだったりする場合はヒカルが手を下すまでもなく、何度かミーティングをして打ち合わせとチェックだけすればいい事になるから人間活動継続にはさほど支障が出ず、光は引き続き音信不通になって…という流れも有り得るだろう。

そういう状況下では、なかなかフィジカルのシングルCDはリリースしにくい。配信限定のセンが濃厚か。そこで10万DL行けるか、がひとつ分岐点になる気がする。

映画の出来については不安はない。最終章はわからないが、Qまではエンターテインメント作品である筈である。その勢いを借りるのだからある程度の数字は見込めるだろう。というか叩き出してもらわにゃいかん。となると、やはり10万というのはひとつ基準となると思うし、ヒカルの新しいトラックというだけで購入する層が数万単位と考えると映画での影響でその二倍以上のファンを獲得したいという風な理想を語る場合でも10万というのはひとつの目安になるだろう。

どうも、一年や二年ではヒカルのファンってそんなに減らないんじゃないかと思うのだ。ツイッターで宇多田検索してもそんなに数は減っていないし、NHWにしろ無意識日記にしろ活動時の半分くらいのアクセスになってからは横ばいでそんなに減っていない。何より、UTUBEのアクセス数がこの一年殆ど減っていないのだ。今年度中にアクションがあるのなら、恐らくヒカルの叩き出す数字はアーティスト活動休止直前とさほど変わらない気がする。それより長くなってくると、またわからないけど。

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新製品の解禁情報というのはデリケートなものだ。それがビックプロダクツであればあるほど解禁日には敏感にならざるを得ない。今やネット時代、しかもグローバルなので解禁アクションは日付単位どころか一時間単位いや分単位で管理されねばならない。時差を考慮しつつ、何年何月何日の何時に各地それぞれの時刻で一斉にプレスリリースが流される、なんていう感じである。

私は門外漢なのでおおざっぱな事しかわからないが、新製品がその企業の命運をかけたものだったりすると、情報解禁は株価にまで影響してくる。こちらもネット時代なので時々刻々と情勢が変わる世界。いやまぁネットが普及する前からだけどね。そこでは意図的なリークやらインサイダーやら種々の技術がスレスレの所で用いられている。情報の解禁は、そういった所に時に微細に時に大胆に影響を及ぼす。その精度をもって「市場は正直だ」と言われるようになるのである。

込み入った事情とは裏腹に、単なる意志の疎通の欠如や勘違い思い違い行き違いなどで情報解禁が行われてしまうケースもままある。「あれ?まだ言っちゃダメだったの?」という具合。のんびりしたものだなぁとビジネスマンの皆さんは思うかもしれないが、他の事にかかりきりでチェックを怠ってしまった、というのが本当の所ではないだろうか。みんな忙しいのだ。いや同情してるのかというとそうでもないけれど。

情報解禁とはまた別に、コンテンツ自体のリークもまた問題である。未完成のデモテープが物理的に流出したりマスターテープが盗難にあったりそれを元に脅迫(身の代金要求)されたりといつの時代もあった事なのだが、今や音源の盗難はコピーの容易さからぐんと難易度が下がった。ヒカルもその被害に遭った事があるようなないような。真相は不明ですが。

2004年3月のシンコレ発売も、最初に匂わせたのは発売半年前に発表されたEMIのプレスリリースだった。先程も触れたようにプレスリリースは株価にも影響を与える。株主たちが、今後もその企業に投資するべきかどうか、コンテンツの市場価値で見定める必要がある。したがって企業側は今後収益の見込めそうなコンテンツはこれだけありますよとプレゼンテーションをして投資家たちからの好印象を貰わなければいけない。即ちそこに名を連ねたという事は、少なくとも2003年当時はHikaru Utadaの名は、日本国内のみならず世界規模企業としてのEMI Groupの業績を左右する位のビッグネームであったという事だ。

今、Hikaru Utadaの名にどれ位の市場価値があるか、またEMIがそれをどの程度に見積もっているか、私にはわからない。しかし、少なくとも何年か前にそういう扱いを受けていたというだけでも、その点については注意を払わなければならないだろう。光自身も、それについてはよくよく自覚している筈だ。たとえ人間活動中で業界の空気から随分と離れた所で暮らしているとしても、ね。

何の話をしているんだか。やれやれ。

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