無意識日記
宇多田光 word:i_
 



LIVEを主体として活動する訳でもないミュージシャンが、他の、今や群雄割拠で何れも隆盛を極めるエンターテインメント・コンテンツを差し置いて、添え物でも何かの代わりでもない、メインディッシュの提供者として通用する為には何が必要だろうか。

それを占う試金石として、まずノンタイアップでどこまでいけるかを見てみたい気がする。他のコンテンツの魅力や偉容を借りずに、楽曲の力で勝負する。ヒカルのキャリアでいえばFINAL DISTANCEやHeart Stationがこれにあたるか。特に後者は、レコ直とのタイアップはあるにはあったが、それはレコ直の偉容を借りた訳でも何でもなく、レコ直の方が宇多田ヒカルの偉容を借りた形であった。また、全国のラジオ局と大々的なキャンペーンを張ったが、それも楽曲自体のプロモーションの為である。タイアップがなくとも、これだけのプロモが可能なんだなと改めて思わせた。

Heart Stationの成果に関しては判断が難しい。シングルCDの売上からすれば(ヒカルからすれば)大した事はなかったが、アルバムの売上は2008年当時としては驚異的となった為、タイトル・トラックとしての露払いの役割は存分に果たしたといえる。どうみるべきかは未だにわからない。

そこまで潔癖に考える事ではないかもしれない、という指摘があるならばそれは当たっていると思う。タイアップがあろうがなかろうが、曲を聴いて貰える機会があればそれを逃さない手はないではないか、と。

しかし、そうやってきた結果が現状である。AKB48がアニメになるという話題に於いて、元来のアニメファンがまず発してきたのは「荒らされる警戒感」であった。今まで純粋にアニメ自体の評価で動いていた世界にアイドルの価値観を持ち込まれる事で起こる混乱への懸念が、そこにはある。まぁ声優さんもアイドル化して久しいのだが。

音楽業界は既にそうなっている、というか80年代と00年代はそうだった、と言った方がいいか。90年代はバンドブームとプロデューサーブームによって比較的音楽自体に焦点があたった時代だった。その大トリとして最後の最後に出てきたのが宇多田ヒカルだったのだ。楽曲勝負時代の最後の象徴として、アイドルだらけのトップチャートに風を送り込んでもらいたい―その願望を差し向ける対象としてまずヒカルの名が上がるのもそういった過去の経緯があるからである。

前回、音楽が主菜になる為には"目が余る"事態にどう対処するかが課題だ、と書いた。他に何もせずに音楽を聴く、つまり"鑑賞する"
習慣はなかなか、ない。90年代に音楽自体にスポットがあたったのはカラオケ文化によるものが大きかった。つまり、聴く為というより歌う為の楽曲、という側面が強かった為、目が余るという事態にそれほど気を使わずに済んできたのである。

しかし、宇多田ヒカルの歌はカラオケで歌う為に作られているとは到底思えない。事実そうではない。純粋に鑑賞する為に作られている。かといって昔ながらのクラシックファンのように、ステレオの前で椅子に座ってゆっくり向き合って貰えたりするかというとそれもまた違う気がする。さて一体どうすればよいかという話からまた次回。

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