無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ロック・ファンとして「ロックの理想的なサウンドってどんなだろう?」と考える度に「ダイナミックなドラミングにドラマティックなベースライン、グルーヴィなギターリフに泣きのギターソロ、そこにハイトーンでエモーショナルなヴォーカルが…」という組み立てになって、「…それってレッド・ツェッペリンだよね…。」と気がついて妄想が終わる。毎度そうなる。彼らは原初にして至高なのだった。

世の中の総てのハード・ロック・バンドはレッド・ツェッペリンの出来損ないである。形だけは真似できたが仲が悪くバンドサウンドにならなかったディープ・パープル、ヴォーカルが変なのでギターリフに特化したブラック・サバス、パワーのなさを技術と知性で補ったラッシュ、綺麗なギターソロも美しいヴォーカルラインもないけれどエネルギーの表出手法だけは受け継いだAC/DC、ギターもヴォーカルも後一歩でベースだけは突出していたアイアン・メイデンなどなど…あらゆる伝説的なバンドたちは「レッドツェッペリンになろうとしてもなれなかったバンド」に過ぎない。AC/DCの代表作「バック・イン・ブラック」の米国での売上はレッドツェッペリンの総てのカタログより上である。それでもAC/DCはレッドツェッペリンの出来損ないに過ぎないと言っても、まずメンバーが同意するだろう。

「ハードロック」の定義は最早「レッドツェッペリンの出来損ない」で済む。即ちこの定義に従えば、レッドツェッペリンはハードロックバンドではない。渋谷陽一もこれで納得してくれるかもしれない。原初にして至高。この半世紀のロックの歴史はレッドツェッペリンの10年の残響と余韻に過ぎないのである。


このバンドの話を始めたらキリがないのでこの辺で打ち切るけれども、至高の存在が居たせいでハードロックバンドというのは常にどこか卑屈だという事は付け加えておこう。特に同郷の英国のバンドたちはひねくれたヤツらばっかりだ。トップが素直なスコーピオンズだったお陰で衒いのない正統派が育ちやすかったドイツとは対照的である。

しかし面白い事に、例えば私などは熱心なレッドツェッペリンファンだった事は一度もない。先程触れたAC/DCのように、レッドツェッペリンより売れるロックバンドは幾つもあった。大衆に愛されるかどうかと、それが至高の存在であるかどうかは必ずしも一致しない。同業者たちからの評価が芳しくなくても売れる事・愛される事はある。ズレが生じるだけである。


宇多田ヒカルの場合は、そのズレがない。至高にして売上最高という結果を出して早18年。人々の認識も同業者たちの認識も「あの人は別格」で一致している。それは皆さんもよくよくご存知だろう。

果たしてそれは幸せな事なのか。幸せな事だったのか。特に、ヒカルにとっては。もう今やこんな話は昔話で、ヒカルはキャリアに焦る事もなく、じっくり制作に取り組んでいる。でも、なんだろう、ふと書きたくなったので書いてみた。乖離と一致。ミュージシャンたちの、世間の無理解と不理解に対する憤懣や不満、そして理解を得られた時の至上の喜びなど…。今のヒカルは、わかってもらえなくて苦悩したり、もっと売れたいと切望するような事はないのだろうか。あるのだろうか。知らないけれど、言わないようになっただけというのは大いにあり得る。今のインターネットは"黙る為のツール"になってしまったのかもしれない。

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「音楽は国境を越える」とよく言うが、これはある意味では真実でありある意味では絵空事だ。確かにある曲がこちらの国でもあちらの国でもウケる、なんて事はあるかもしれないが、例えば今あなたに好きな曲があったとして、今住んでいる家の向こう3軒両隣に住む人たちに同じ意見の人を見つけるのはかなり難しい。同じ国どころか同じ街に住んでいてもこうなのだ。単純に、国境という仕掛けは音楽的趣味嗜好と関係がない、とだけ言えばいい。そもそも越える越えないの前にそんな概念が無いのである。

しかし、歌詞のある「歌」となれば違う。国境という概念はしばしばそこで使われる言語の種類と相関する。歌は、擬似的に、かもわからないが、時に国境を越える"必要"が、出てくるかもしれない。

しかし歌に国境を越えさせるのは大変だ。他に言語を使うコンテンツ、小説やマンガ、テレビドラマや映画、ゲームといった類では"翻訳字幕・吹き替え"という技術がある。簡単ではないが、最終的には手間の問題だ。しかし、歌は言葉がメロディーと結びついているから、"字幕"をどこにどう置けばいいかわからない。これが大体致命的なのだ。

リリック・ビデオに、本来の歌詞に加えて訳詞も表示させるとか、なくはない。しかし翻訳を読みながら歌を聴くって結構難しい。遠巻きに訳詞をちら見してから歌を聴いて「へぇ、こんな内容を歌ってるんだ」と呟くのが関の山だ。


UtaDAには『光』と『Simple And Clean』、『Passion』と『Sanctuary』という同じ楽曲に異なる2つの言語(日本語と英語)を載せたバージョンの存在する例がある訳だが当然のように(?)単なる翻訳が歌詞になっているのではないし、『Sanctuary』の方などは『Passion』とは通低するテーマは同じかもしれないが表面的には"まるで別物"と言って差し支えない内容となっている。単純な翻訳作業で済む話ではないのだ。

一昔前までは、曲といえば音だけで売る、ついても歌詞カードくらい、という感じだったが、今なら新曲をアプリで出して、13ヶ国語でも23ヶ国語でも好きなだけ翻訳字幕を表示させ得る方法がある。そういうのを使うのも国際展開上はひとつの方法だ。今や配信で数十ヶ国のチャートに入るUtada Hikaruなだけに、新しい試みにチャレンジするチャンスはある。色々と考えてみて貰いたいものだな。と言っても、まともな翻訳を提供するのは並大抵の事ではないのですけれどね。

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