無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前回は「力の極端な差」が差別という呼称の要諦だと纏めたが、どの程度からを「極端」と呼ぶべきかは個々の事例によって判断されなければならない。例えば2017年時点の日本では地上波テレビ局とLGBTでは影響力・発信力等々、全く勝負にならない(故に"話にならない")程に地上波テレビ局が強いので議論の余地は無い。

が、我々自身非常に微妙だったケースを知っている。1999年の10月から11月にかけて、18年前のちょうど今頃の季節である。ヒカルが『Addicted To You』発売のタイミングでルックスを大幅に変えてきたのだ。この時の騒動である。

同年6月に地上波に初登場し、歌のシリアスさとは比較にならないほどおちゃらけた(?)キャラクターとリラックスしたメイク&服装で登場したヒカルはその「自然体ぶり」も大いに好評だった。しかしそこから僅か4,5ヶ月後には髪型を変え黒髪を茶髪に変え太かった眉毛も細く剃り落とし、バッチリメイクでミュージックビデオに登場した。所謂イメージ・チェンジである。

16歳の女の子の少し遅めの二学期デビュー、というだけで済まなかったのが当時の注目度。何しろ初日フラゲ日だけでシングル盤を100万枚を売りさばくレベル。皇室並み、とか書いたら誰か叩きに来てくれるかな、ヒカルのイメチェンは国民的議論となった。

「あの自然体がよかったのに」と太眉や黒髪を懐かしむ声があちこちで聞こえた。

ここである。勿論個々の感想は自由である。しかし、数千万人単位の人間がヒカルのイメチェンに難色を示したかと思うと、たとえ一つ一つの声はか弱くて控えめでもそれを言われるヒカルにとっては物凄い「圧力」だったに違いない。『私はプレッシャーに鈍いと思う。鈍くなければこんな大きなプレッシャーに耐えてられる筈がない。』とはまさにヒカルの名言だが、ヒカルが繊細かつタフだったからこそ何事もなく切り抜けられたけれど、心の弱い人であれば容姿だけで、髪を染めただけで数千万人単位の人間からやや否の声を聞かされるのはとても耐えられない「圧力」になっていたのではないか、そう回顧する次第だ。実際、ヒカルも珍しく自棄気味のメッセを書きかけた。しっかり踏みとどまったけどな。

日本は民主国家、国民主権国家であるから最高権力は勿論国民である。しかし、その構成要員1人々々に最高権力の自覚がある筈がない。よってヒカルの髪型や髪色に難癖をつけるのを「差別」という議論はなかった。実際、ヒカルの髪色を変える権利など誰も持っていなかったからよかった。そこが教育現場の教師と生徒の関係とは違う…と書こうとしたが、地毛を強制的に染色させる行為は明らかに身体の自由を侵す憲法違反行為であって万が一そのような校則が明文化されているとすればその執行者は犯罪者に…となる所をわざわざ裁判するしないの話になっているのは、国民世論の中に一定度それを許容する「空気」があるのだろうな。いや、そこから先は知らないが、そういった「空気」による圧力即ち「気圧」こそが最高権力たる我々国民が最も責任を持たなくてはならない領域だ。つまり、宇多田ヒカルに対する注目度が高いのであるならば、不用意にヒカルを傷つけるような言動は慎むべきなのである。注目度が高ければ高いほど気圧も高くなる。より気を遣った言動が求められる


一方、我々個々がもつ「表現の自由」の権利は最大限守られればならない。思った事を口に出来ないような強い気圧もまた率先して忌避せねばならない。常に、表現とそれに対する危険性は随伴しており、都度個々の事例に即して問題を抱え合う双方の主張の自由が担保され交渉に入らなければならない。気圧を支配する圧倒的大多数の第三者は、起こった問題に対して、特に弱者に対しては細心の注意を払う義務がある。それが国民主権の自由な国家の構成員に求められる態度であろう。呉々も非対称性を無視しない事である。

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週末は随分「染髪強要学校」のツイートを見た気がする。服装のみならず身体的特徴まで強要を迫れるのは単一民族国家幻想を維持できるほどに人種的偏りが大きいこの国ならではで、今が21世紀である事を忘れそうになる。

こういった話題で髪の色の是々非々をあげつらっても議論は進展しない。事をシンプルに人権問題、更には「差別」に絞るのなら話はクリアである。

「差別」の"要因"は様々である。髪や瞳や肌の色、人種、部族、国家・国籍、出身・出自・所属団体から宗教に至るまで個人をその属性をもって不正確な認識と非生産的な対応を行う現象、という感じだが本質はその要因とされる属性固有の性質ではない。差別を行う側と被る側の属する属性から構成される集団の構成数の非均衡にある。

敢えてややこしい書き方をしたが、強い方が弱い方をいじめるのが差別だ、と当たり前の事を言っているに過ぎない。染髪強要案件も、教師に権力があって生徒にはないから起こる。本当にそれだけなのである。だからこそ教師側は髪の毛の色も服装も咎められない。どちらの集団に属するかが重要であって、その判定が済んでしまえば構成員の実際に持っている属性は捨象される。

先般の地上波テレビにおける石橋貴明のコント案件も同様である。これを「差別」の文脈で捉えた時、コントの内容や性質自体は問題ではない。精神的被害があったと主張する側に較べ、「地上波テレビ」という存在が余りに影響力と権力を持ちすぎているから問題なのだ。石橋貴明が個人で配信するコントだったら問題はまるで違う場所に生まれるだろう。

例えば、私(黄色人種)がニューヨークの真ん中で白人(一応そこでは最大多数派)に向かって「この白んぼう、ウキャキャキャキャ」と嘲笑したとしてもそれは単なる侮辱であって差別とは言わない。しかし、白人の方が、先日ダルビッシュがされたように、両目を釣り上げる仕草を私に向かって放てば差別と言われるようになる。要はその行動の主体と被体がそれぞれどの属性として捉えられ、属性間に議論が成り立たない程の"極端な力の差"があるかどうかで差別と呼ばれるかどうかで決まる。

石橋貴明の問題も、フジテレビや石橋貴明といった権力・財力・影響力等々が桁外れな主体が行う行為だから差別の文脈で捉えられただけで、この極端な非対称がなければ各々がそれぞれの表現の自由と人間の尊厳を掲げて納得や妥協を引き出せるまで議論すべき問題であって、力の非対称が存在する以上、第三者が「表現に問題はない」等と発言するのはそれだけで力の非対称を利用した、民主的な議論を封殺する不適切な発言となる。言い換えれば、権力側は力が大きければ大きい程マイノリティに対して細心の配慮を求められるのであって逆ではない。権力側及びそるに与する者が、相手の主張を封殺する形で「それは問題ではない」と発言する事こそ民主的かつ文化的な相互理解と共存の福祉に反する行為であって、これこそが咎められなければならない。議論の本質を見誤らない事である。

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