話題が次から次へと継ぎ足されていくので、ちょっと立ち止まって「前から気になっている事」について書いておこうと思う。前作『Fantome』収録の『荒野の狼』の事だ。
同曲のクォリティーについては文句のつけようもない。アルバムでも屈指の名曲である(そんな曲だらけのアルバムだけどな)。位置付けとしてはアルバム後半の華。シングルカットはされないものの、(ファン以外にとっては)"隠れた名曲"としてヒカルのメロディーの泣き成分をストレートにぶつけたアップテンポの曲、という事で役割としては『First Love』でいう『Another Chance』(同時はシングル候補曲だった)、『DEEP RIVER』でいう『嘘みたいなI Love You』に近い―そう表現すれば長年のファンには共感が得られるのではないだろうか。
『Another Chance』では無自覚だったが、余りにストレートに切なさと青さを封じ込めたメロディーな為バランスをとる為に『嘘みたいなI Love You』ではデジタル・ロック風のヘヴィ・リフを、『荒野の狼』では華やかなホーンセクションとファンキーなベースラインをそれぞれフィーチャーしている。ヒカルの真っ直ぐな泣きメロを求めるのはどちらかといえばコアなファンであり、そちらをターゲットにした名曲群だといえる。
さて。そんな『荒野の狼』の何が気になっているかというと『高揚感の欠如』である。これは楽曲から直接的に感じ取った感覚というよりは、どちらかといえば間接的に"読み取った"感覚であると思ってうただきたい。曲を聴いてリスナーが高揚できない、という意味ではなく、曲から"作曲者の"高揚感が感じられないのである。
普通の作曲者なら、いや、一流の作曲者であっても『荒野の狼』のサビのような"一撃必殺のメロディー"が思い付けば&完成すれば興奮する筈なのだ。俺だったらする。天狗になる。「もしかして自分天才なんじゃないの? いや間違いないでしょ」って浮かれぽんぽんちきになる。人の人格や性格を破壊しかねない程のフックラインだと思う。しかし、恐らくヒカルは微塵も(は言い過ぎかもだが)そう感じていない。極端な書き方をすればまるで「私ならこの程度のメロディーいつでも書ける」という風に思っているように聞こえるのだ。アレンジの節々から、どこかそう醒めた感覚が伝わってくる。
なんてメロディーだ!と興奮した作曲者はアレンジにことのほか気をつかう。もっといえば「大事にする」のだ。「もう一生こんなメロディーは書けないかもしれないから最高のものにするぞ」と。それが感じられないのだ。ヒカルの仕事にやる気がないとか雑だとかそういう話ではない。そういう「一期一会の緊張感」みたいな方向性にそもそも進んでいないのですよ、「いつもみたいにまた書けたから今回はどうすりゃいいんだろ?」という方向に全力で悩んだ気がする。結果、ああいう風に変化球と豪速球のコンビネーションみたいな曲になった、と。
で本当に気になるのは次の点なのだ。これは「いつでもこういうのが書けるから曲毎の独自性を見いだすのに腐心している」のか、それとも「そもそもこういうメロディーに飽きてきた」からなのか。この種のストレートなメロディーは究極的にはヒカルに最も求められてきたものだ。時を超え土地を超えこの切ないメロディーを味わえるのが「核」なのだと特にコアなファンは信じてきた。いやさもう無意識レベルでそう思っているんじゃないか。
今のヒカルがそういう"無意識の期待"に応えるような切ないメロディーの曲を作るのに興味を失いつつあるとすれば一大事だ。能力がなくなったのではなく、興味がなくなった。それは能力を失う事より絶望的かもしれない。ここは本当にわからない。しかし、踏まえておいた方がいいだろう。ピカソほど極端じゃなくても、音楽家だって作風は変わる。いつまでも同じである保証はないし、変わる保証だってない。どちらに転ぶかなんてわからないが、今の私はこういう懸念を抱えて毎回新曲を迎えている、と思って貰っておいていい。それでもいい歌ならいいんだが。
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