無意識日記
宇多田光 word:i_
 



スクール・カーストなんていう耳障りな言葉が定着しているのも、それが普段使うに相応しい状況に遭遇するからだろう。クラスの中心的な存在はリア充と呼ばれ、最下層・窓際族にヲタクが居る。

まぁそれぞれに棲み分けてそれぞれに楽しくやっているならそんなに問題はなかろう。勿論現実にはそれだけでは済まないから"カースト"というインドの身分制度の名前を持ち出す訳で。

そっちは難しいので立ち入らない。さてミュージシャンをやっている皆さんは、学生の頃どこらへんのカーストに居たのか。数十年前は「モテたくてバンドを始めた」というのが定番になっていたから、バンドをやっていたらモテてたんだろう。つまり、ミュージシャンなんてやってる人達はリア充側の人間なのだろう、と。

ただ、シンセサイザーの登場以降、デスクトップミュージックが隆盛になって"音楽ヲタク"ともいうべき人種も出てきた。見るからにモテなそうなカースト最下層の…と思っていたら結局ミュージシャンになれてしまったらモテるんだよねぇ。


さて我らが宇多田ヒカルさんはどこらへんのポジションに?というのがこの流れでは当然の疑問になる訳だが、色々な話を総合すると、クラスの中でそんなに目立った存在でもなく、どのグループにも属さないタイプの生徒・学生だったという。テトリス好きも隠していたらしいから友達とヲタクトークで盛り上がるでもなく、クロカンやバスケ等運動部に所属しつつもキャプテンやリーダーになって皆を引っ張る、とかでもなかったらしい。まさに一匹狼、荒野の狼だったのだろうか。幼い頃の表情をみてると羊みたいに心根の優しい表情をしてるけどな。でも現実の羊って飼われて大人しくなってる、ってだけで別に優しい訳でもないような…。

という訳でヒカルはリア充でもヲタクでもない、リア充でもありヲタクでもあるポジションに居た、という感じで、ファン層もまさにそのまんま、というかどちらでもない人やどっちかの人も全部引き受けているような、あれだやっぱり国民的歌手だわな。


さて日本のミュージシャン。海外に目を向けてみるといちばん成功したのはヒカルによるカバーでお馴染み、全米で大ヒットした"Sukiyaki"になるだろうが、これは坂本九がどうのというより楽曲自体がワン・ヒット・ワンダーだっただけで、であい頭の衝突事故みたいなもんだろう。海外で最も成功した"ミュージシャン"となればやはりBABYMETALだわな。

BABYMETALこそは日本のヲタクのハイブリッドといえるだろう。いや本人たち3人はリア充かもしれないが、バックアップしているのは間違いなくアイドルヲタクとメタルヲタクなんだから。日本のヲタク文化の粋を集めたリーサル・ウェポンといえる。

ここが今の日本のいびつなところなのだ。日本のリア充系ミュージシャンは海外ではさっぱりである。これは当たり前で、スタイル的には"猿真似"レベルで欧米を不完全に追従しているに過ぎない。国内では「海外でも見劣りしない」のは大きな看板になるかもしれないが当地では「またこういうのか、飽きてるんだこっちは」というものに過ぎない。後から追い掛けて真似してるんだから常に時代遅れなのです。

ヲタクは違う。寧ろ音楽以外のジャンルの方がわかりやすいだろう。マンガやアニメには日本独自のオリジナリティがあり、海外が日本に憧れる、日本の真似をするレベル。日本でアニメが放送されると翌日には英語字幕、フランス語字幕、スペイン語字幕がスーパーインホーズされて出回るくらいだ。日本のミュージシャンが日本で新曲をリリースして翌日に訳詞のついた動画が出回っているか? 少なくとも私は知らない。

そう、日本ではリア充の文化はいつも時代遅れで、ヲタクの文化は最先端だ。世界的にみると三流リア充と一流のヲタクで構成されているのが日本の文化なのである(言い切った(笑))。しかし、スクール・カースト下では相変わらずリア充が幅を利かせてヲタクは日陰モノのまま。本来ならこんな話はラノベの中だけの筈なのだがことミュージシャンにスポットを当てるとある程度あてはまりそうで怖い。そんな中、ヒカルさんの海外進出は今後どうなっていくんでしょうという話は長くなるからまたいつか。KH3はいつになるのやら。

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シリアスとジョークのせめぎ合いは本質的な乖離を含んでいる。自己の芸風を批判的に捉えれた方が成長を促すからだ。米津が体育に凌がれるのも本質的な乖離に基づいたものに過ぎない。結局シリアスはいつも怒ってたり嘆いていたりする。

ヒカルはその本質的な乖離を壊した。ジョークを介在させずにクォリティーの頂点に立ったのだ。それは特殊な生態系の出現である。ミュージシャンたちやジャーナリストたちに愛されているのも、シリアスな取り組みが報われるモデルケースとなったからだ。カリカチュアライズし過ぎて自嘲の域にまで達する事態から救ってくれた。語る手書く手に熱を帯びるのも当然の事だった。

昨年の『Fantome』への、送り手側たちの異様なまでの肩入れにはそういう背景があった。邦楽市場に対するシリアスなアティテュードが報われる瞬間。ただでさえこの10年、CDの売上の数字が秋元康によってギャグの領域に追い込まれ更にそれを「ビジネスだから」「資本主義だもん」とシリアスの偽装まで見せられて忸怩たる思いで来ていたのだ。"シリアスの復権"の象徴として最強の存在が6年半ぶりにシーンに帰ってくるとなっては力が入らない筈もなかったのだ。そして『Fantome』は結果を出した。

ヒカルは母と向き合っているうちはシリアスにならざるを得ない。「運命は斯くも過酷か」と言わざるを得ないが『You are every song』と歌ってしまった以上、歌えばそれは母になってしまうのである。

しかしこどもが出来た事で事態は一変するかもしれない。何も出来ない存在との幸せの日々は、笑顔に包まれているかもしれないからだ。物事がうまくいかなくても「あらあら困った子ねぇ」と笑顔で対処できているうちは幸せであって、とても冗談の通じる空間である。

『ぼくはくま』は童謡ではあるが冗談ではない。一時的とはいえ作者自らが『最高傑作』との冠を与えた存在感は伊達ではない。ひとえにそれは『ママ』の一声に集約されるのだが、R&Bの歌姫とか何とか持て囃された存在がこども向けの童謡を歌う姿は、シリアスにシーンと向き合ってきた業界人たちからすればギャグである。ジョークか何かか? ヒカルは全くそんな風に捉えていなかった。冗談や気の迷いで2万通以上の塗り絵の審査に自ら乗り出せるとは思えない。ある意味シリアスの極致、それは『Prisoner Of Love』から『テイク5』へと、自らのアイデンティティを賭した楽曲のアウトロをカットアウトした更にその先にある存在だったのだから。

まぁヒカルはアルバム『HEART STATION』の曲順決めに関わっていないのだが。

その乖離の象徴もまた『ママ』であるのなら、信じてついてきた方は自嘲するか飛び込んで一緒に『ぼくはくま』を歌うしかない。歌ってしまえば問題ない。ただ、そこまで行ってしまうと最早冗談の入り込む余地はどこにもない。

こんな芸当が出来るのも、ヒカルの自己批判能力が異様に強いせいである。自らを批評や諧謔の対象にする為に冗句を駆使する必要もなかった。その願意についてはまた稿を改めて。できれば『あなた』をフルコーラス聴いてから続き書きたいんだけどいつになるやらだね。

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