無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「顔色を窺うんじゃない、呼吸を合わせるんだ。」とは、他人と演奏する時などの合い言葉だが、スポーツなどの勝負事にも通じる考え方だ。

顔色を窺う、というのは相手の出方に合わせて動くという事で、出方を見てからこちらの動きを決めるので絶対的にこちらが遅れる。他人と合奏する時にこれでよい筈がない。同じタイミングで演奏する為には、最初から示し合わせて、予め同じつもりで事にあたり始めなくてはならない。

合奏では他人は味方同士だから、通じ合えば通じ合う程加速度的に成果は上がっていく。お互いが呼吸を合わせようとするのだからさもありなん。この考え方をスポーツに適用すると、味方同士ならチームプレイ、敵同士なら「先手の取り合い」となる。

スポーツの試合に「流れ」と呼ばれる何かがあるのはご存知だろう。実力が拮抗しているからといって必ずしも1点ずつを交互に取り合う訳ではなく、それぞれが有利な時間帯というものが形成される。その間に連続得点、連続失点も珍しくない。

自分に不利な流れになった時というのは、相手に先手を取られている。ラリーの展開がまず相手の意図から始まってしまい、こちらは相手方の出方を見てから動く事になり、何をするにも後手に回ってしまう。何とかして先手を、流れを奪い返さなければならない。

こういう時に、相手の顔色、相手の出方を窺うのではなく、「呼吸を合わせる」のが大事となる。勿論、相手は味方ではなく敵だから「予め示し合わせる」事は出来ない。やるべきなのは「相手の意図を読む」事だ。次に相手は何をやりたがっているか、何をやろうとしているかを読んで、それに基づいて動き始める事が出来れば勝負の流れが変わる。そこで先手を奪い返す事が出来るのだ。

先手後手というのは攻めと守りとイコールではない。相手の誘いにのって"攻めさせられて"いる場合なら、それはたとえ見た目は攻撃しているようにみえても後手なのである。向こうは守りながら反撃への流れを形作ったり、ミスを誘ってきたりする。"術中に嵌る"といヤツである。幾ら攻めても得点にならない。先手後手と攻守は等しい概念ではないのだ。

味方と協力する為の「呼吸を合わせる」というコツも、敵と対戦する競技において有用な訳である。相手が敵であれ味方であれ、顔色を窺うのではなく、つまり「この人何考えてるかサッパリわからないよ、次はどうしてくるのかな」と怯えるより、「きっとこの人は今こんな事を意図しているだろうから、こちらはこんな備えをしておこう」と一歩踏み込めた方が、色々とうまくいく。「顔色を窺うんじゃない、呼吸を合わせるんだ」とは、様々な局面で役に立つ合い言葉である。


無意識日記を読み返してみると、力んで力説した時より、さりげなくふとその時に思った事を徒然なるままに書き記しておいた時の方が"予想"としてよく当たっていたりする。私はどちらかというとヒカルに対しては「次は一体何をしてくるのだろう、全然わからないや」と思っていて普段はそれこそヒカルの顔色を窺うような気持ちで居ると思ってるんだけど、素に戻って、リラックスして、自然な感情を書いたらヒカルと妙に呼吸が合ったりする瞬間がある。そういう経験則に従って、この日記でも時に取り留めのないだけの事を書いたりもしているのだが、はてさてそれがいつどこでヒカルの気持ちと合う、いや、"逢う"のか、勿論今はわからない。しかし、言えるのは、兎に角こうやって何かを書き記しておかないと何も始まらないという事だ。的外れなのか的に当たるのか、まずは投げかけてみないと始まらない。日記を記すってのはそれだけで前進なのだ。

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「アプリ」という呼び方は、つくづく新しい文化だなぁ、と思う。そういう略し方がなかった訳ではなかったが、"公式な略称"として定着させた手腕は凄い。

PC世代はプログラムとかソフトウェアとかアプリケーションとか呼んでいた。ソフトやアプリという略し方もないではなかったが、スマートフォン世代のポップな"アイコン"を指す感覚は、なかった。フィジカルと連動している訳ではないので若干わかりにくいが、ファミコンのROMカセットに匹敵するインターフェースメソッドだと感じる。

ファミコンのカセットか。それまでのコンピューターのソフトウェアだって、フロッピーディスクやカセットテープといった"単位"は存在していた。しかし、ファミコンは「ROMカセットを抜き差しして入れ替える」というイメージで次々とゲームを楽しめる、というシステムを構築したのが大きかった。今の"アプリ"も「アイコンをタップする」というわかりやすい動作と連動したポップな呼称である。全体のイメージと親しみやすい呼称。原因と結果を考えると難しいが、事実としてそうなっている。


音楽ソフトも「CD」というフォーマットと呼称を手に入れて80年代末から大いに飛躍した。それ以前もアナログレコードやカセットテープは存在したが、あのキラキラとした薄い円盤は象徴的に光り輝いていたのだ。カセットテープの不便さや鈍重さとは一線を画すイメージと使い勝手。それこそ、ゲームだって94年にPlayStationが登場するが、CD-ROMが受け入れられ易かったのも音楽CDの普及が大きかった。

今の音楽ソフトは、どうにもその"入口"が不明瞭、不透明に思える。ファミコンカセットや音楽CD、そしてアプリアイコンのような一次的な接触機構が確立されていない。勿論ミュージックアプリを立ち上げて選べばいいだけなんだけど、ログインしたり検索したりとどうにも一手間二手間かかる。

配信のブランドとして一番定着したのはiTunesだが、CD並みに普及したとは言い難い。Androidユーザーだって多いしねぇ。今必要なのは、パッと聴いてパッと見て、すぐにアクセスできる親しみやすい何かなのだ。アプリアイコンをタップしたらもう何かが始まるその手軽さで音楽が始まるような。今のストリーミングにはその"最初の一歩"が足りないように思う。が、その話について語り始めると路頭に迷う気がするので、余り踏み込まないようにしておきますかね。悩みは尽きない。

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