"素を見せる"チャレンジのきっかけがUnplugged。とすれば2005年2月23日のNY Showcase Gigはその対極であった。
"舞台パフォーマとして"重厚な衣装をその身に纏い、Dark Princess~闇姫様を演じるその異様な威容の一旦は、Utada United 2006でも3曲で垣間見る事が出来るが、そこでのポイントは"誰にも見られていない"という感覚であったのだ。
結局その時の映像は、撮影はされたもののリリースには向かないという事でお蔵入りになっており、その様子を知るには想像に頼るか念力で送って貰うしかないのだが、聴くところによれば観客はさしてUtadaを気にもとめず談笑していたという。ショウケースとは元来そんなものでさして珍しい事でもないのだが、光にとっては初めての体験だった。
宇多田ヒカルとしてデビューして以来、いやデビューする前から彼女は衆目の注目の的であり続けた。常に人の視線に晒され、その中でどう歌うかが課題であった。スケールの違う重圧の中、それでも表現者として如何に誠実に自らの姿を打ち出していくか。その答えがFINAL DISTANCE以降の流れであった。如何に見せるか、である。
翻ってNYギグでは、"見られていない"状態においてパフォーマとして開眼する。そこでは、想像に過ぎないが、自分でない何者かを"演じる"コツを掴んだともいえる。Utada UnitedのUtaDAパートの光はコンサートホールの空気を一変させる非日常的な感覚をあの衣装と立ち居振る舞いで表現してみせた。選曲もそのコンセプトに沿ってEXODUSの中でもヘヴィ・サイドの3曲が選ばれた。
ここに奇妙な捻れがある訳だ。ひとは好奇の目に晒されると、自分を飾ったり取り繕ったり見栄を張ったりして自分以上の、自分以外の何かであるように振る舞おうとする。誰も見ていない所で一息ついて素の自分に戻る。
しかし光は"見られている"場所では等身大を見せようと奮闘し、"見られていない"場所では何者かを演じる事でパフォーマンスのコツを掴んだ。何れも結果論ではあるものの、果たしてこれはどういう事なのだろうか。以下、次回に続く。
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