ウマさ特盛り!まぜまぜごはん~おいしい日本 食紀行~

ライター&編集者&散歩の案内人・上村一真(カミムラカズマ)がいざなう、食をテーマに旅をする「食紀行」を綴るブログです。

広島戦跡てくてくさんぽ4

2015年02月20日 | てくてくさんぽ・取材紀行
広島での最終ミッションは、広電の車庫の訪問。さながら路面電車博物館で、全国で走っていた車両が未だ現役なのはすごい。嵐山や鞍馬などの愛称がつく京都市電、ピンク色の西鉄の連接車、車体が社内最古といわれる神戸市電などなど。こりゃ男子はたまらない眺めである。

広電には「被爆電車」という、原爆を受けた車両が二両、現役で運行している。651型は市役所前、652型は宇品で被爆し、652は8月末には運行を再開している。車内は壁も床も木造なのも、懐かしいたたずまいである。電車以外にも、車庫裏の赤レンガの発電所と変電所も被爆。社員も176名が亡くなっており、車庫入口右手に慰霊碑がある。

本社ビル前に被爆敷石の碑があり、被爆した相生橋の花崗岩の敷石188枚に、平和を願う婦人像を彫ったもののひとつ。線路を模したオブジェに、菩薩のような婦人像が刻まれた石がはめ込まれ、前を通る電車の運行を見つめている。

キング軒の汁なし坦々麺@広島

2015年02月20日 | 旅で出会った食メモ
3日目広島ステージのお昼は、汁なし担々麺。ここ数年の広島名物で、人気店の「キング軒」を訪れた。

辛さ2が普通のところ3をセレクトし、食べ方の流儀に従いぐるぐる30回混ぜる。たぐると最初は程良く強めな辛味が、ある段階からグワッと炸裂。鼻と脳に辛さがダイレクトにヒットし、額からバッと発汗するほどだ。途中で山椒をまぶすと、味覚が痛みに変わる。舌から唇がジンジンし始め、痛さと辛さと熱さで訳が分からない中、箸はいっこうに止まらない。

麺をひとしきりたぐったら、タレを残してご飯を入れるのもお約束。麺よりは辛味が友好的で、締めご飯として穏やかに食べられる。あたりがかなりきつい麺料理だが、これは中毒になること請け合いの、多重なアラートが鳴りまくる辛麺である。

広島戦跡てくてくさんぽ3

2015年02月20日 | てくてくさんぽ・取材紀行
このたびの広島の旅はほぼコンプリートしかけてるが、広島でのもう半日も濃い内容なのでまとめておきたい。題して被爆に耐えた建物と、生き残った人たちのストーリー。

平和公園から本川の向かいにある本川小学校には、被爆した校舎の一部が資料館として残されている。市内の小学校で初の鉄筋コンクリート製だったため、爆心地付近では数少ない倒壊を免れた建物である。生徒がひとり生き残っており、登校して地下の下駄箱に靴を置き階段を上る途中で被爆したため、爆風の直撃から逃れたという。この方はまだ横浜でご健在で、爆発当時のことは未だショックでよく覚えていないという。

平和公園にあるレストハウスも、爆心地から170メートルと近いながら倒壊しなかった。呉服屋として造られた建物には当時は燃料組合が入っており、店主が唯一生き残った。爆発当時に地下の資料を取りに行っていたからで、さっきの生徒といい生死は紙一重と深く思い入る。爆心地から平和公園周辺の生存者は、ほか被爆まもなく亡くなった本川小のもうひとりだけ、計わずか3人だけだった。

旧日本銀行広島支店も、原爆の倒壊を逃れた建物。30センチ以上ある壁に太い柱の造りは、当時外国にも類例がないといわれた頑丈さだった。被爆時に2階にいた支店長は、衝撃で1階の営業室までとばされたが、心配する行員にすぐに「金庫を確認せよ!」と指示を出した。地下金庫は堅牢で中の紙幣は燃えることはなく、8日には営業を再開。おかげで経済や金融の混乱が、最小限で済んだそうである。ちなみに焼け出された客は通帳も印鑑もなく、顔を覚えていた担当行員が口約束で貸し出し、後の会計の際に狂わずピタリと合ったとか。

本川小の案内人によると、生き残れた人の理由は様々だが、被爆時に自分で考えて行動を決めたおかげもあるのでは、と話す。危機に際してとる行動こそ、人の生き方を決め人間の本質が現れるものかもと、それぞれのストーリーを拝聴して思い入るところがある。