暇人詩日記

日記のかわりに詩を書いていきます。

落鳥

2021-10-27 | 心から
ただひとつ私の恥のせいで
あなたを殺してしまったのだ

いつか地獄へ行った時には
どうか私の前に現れて欲しい
いくらでも
いくらでも糾弾を受けるから
いくらでも断罪を受けるから
どうか私の前に現れて欲しい

だって醜いもの

2021-10-25 | つめたい
誰にだってなりたくない
誰でもない何かでいたい
路傍の小石にでもなって
人知れず風化していたい

今日も人波はさざめいて
右に、左に、右に、左に
心許なくゆらゆら揺れる
風もないのに揺れている

ぼんやり上げた眼差しに
映らぬ誰かでいてほしい
少しでも揺らがないよう
じっと耐えしのんでいる

おおきな生き物の細胞に
なるくらいならわたしは
小石になりたい、路傍の
変哲もない石くれがいい

洗脳

2021-10-21 | 明るい
目を塞がれている
私は幸せです
覆いが外れた先の未来は
どうせ見えやしませんから
安寧のベールに包み込まれて
胎児のごとく眠るしあわせ
何もせず
何も見ず
何も食わずに
ただ、ただ呼吸をして
肉の塊に限りなく近い
けれど生きた細胞の蟻塚
私は、私は
幸せです

悪辣の山羊

2021-10-09 | 心から
よせばいいとわかっているのに、火種を探しては絶望をする。同時にほくそ笑むのだ。私は、悪質な人間だと知っている。
我聖人でござい、と言いながら彼らは素知らぬ顔で誰かの足を踏みつける。
私は願わくば、願わくばそれに明確な悪意があって欲しいと願うのだ。少なからずそこには原理がある。原理があるなら納得もいく、たとえ、たとえ承服出来ずとも。
自らを善き人と名乗る哀れな子羊たちは、悪意そのものを厭うらしい。だからこう言うのだ、
「そんな所に足があるとは思わなかった」と。
反吐が出る、反吐が出る。本心であるからこそ怖気も走る。
羊たちに紛れるくらいならば、私は悪辣の山羊となりたい。私の悪意は私のものだ。おのれの発言に責任すら負えぬ者が、めえめえ鳴いてこのはらわたをほじくり返すことに我慢がならない。
そして同時に安堵もしている。ああ、彼らは、いつまで経っても私に悪意の理由を与えてくれる存在なのだと。
角を落とすな。切っ先を磨け。
お前は子羊でも聖人でもない。お前の悪意は、いつになれば芽生えるのか。
泣いてみせる。傷ついてみせる。
お前が無自覚に踏みつけた者どもの涙を見もせずに。

あるいは、確かに幸せだろう。一個の生命体としては正しくもあろう。皆健やかな一生を過ごしたいと願う。悪意などあるより無い方が良い。
誰かの気持ちを、慮ることの方が、苦痛なのだから。
みんな仲良く手を繋いで、繋がぬ者はかわいそうだけど行き。羊、羊よ、今日も元気に群れをなす、誰かの足を尻尾を頭蓋骨を踏み割りながら。
雑食の羊よ、聖人よ。食いもしない誰かのはらわたを、掻き回していくのは楽しかろう。
それで良い、それで良いとされている。なんと素敵な世界だろう、何と、何と悪意に満ちた世界だろう。
人々は善良だ。
ただ、残酷なだけで。