私が日蓮宗の寺で生まれ育ったことは、このブログで何度も申し上げたとおりです。
およそ仏教ほど、経典の多い宗教もありますまい。
キリスト教であれば、新約・旧約の聖書があれば事足りますし、イスラム教においてはコーランがあれば良しとします。
しかるに、仏教にはどれだけ仏典があるのか、偉いお坊さんも、仏教学者も分からないのではないでしょうか。
多分1,000や2,000はあるのではないかと思います。
一方、わが国において仏教と深く結びついた神道には、そもそも経典にあたるものが存在しません。
したがって、体系立った教学のようなものがありません。
自然崇拝と、ただ清浄と言い、清き明き心と言い、おそらくは生活規範のような物を旨としてきたように思います。
そして、八百万の神々なんていうとおり、何柱の神々がおわしますのか、誰にも分かりません。
およそありとあらゆる自然物や偉人が神であると考えられ、八百万というのは、無限というのと同義かと思います。
これらは、多くの多神教に見られることです。
それだけの神々がいながら、じつは神道には一神教的な側面が存在します。
天照大神を最高神とし、何よりも天照大神を尊ぶこと。
ただし、古事記に最初に記載が見られる神様は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)であり、平田篤胤の復古神道などでは、この神様を最高神としています。
天照大神を最高神とするか、天之御中主神を最高神とするかで、論争が起きたこともあったやに聞き及びます。
どちらが最高神でも良いですが、多神教にも最高神という存在があって、そこに一神教的な考えが生まれる余地があるのだろうと思います。
神道と仏教については、用明天皇の態度が、仏法を信じ、神道を尊び給うということだったそうで、この辺りから神仏習という考えが起こったのでしょうね。
一方、仏教においては、大日如来であったり、阿弥陀仏であったり、久遠実成であったり遍照金剛であったりと、宗派によって本尊が異なりますが、これは大体同じようなものと考えてよいと思います。
わが国においては、信仰というほどのものではなくても、なんとなく、仏教も神道も尊ぶべきものだということが、常識のようになっています。
しかしだからこそ、わが国では宗教が根付かず、宗教的倫理が育たないものと思います。
神仏習合という考え方は、わが国で1,000年以上も続いてきたもので、両者が平和的に共存してきたということは、この考えに依るところが大であり、日本人の知恵かと思います。
今でこそ皇室は神道の親分みたいになっていますが、奈良時代から江戸時代まで、葬式はずうっと仏式。
天皇家は天照大神の子孫ということになっていますが、仏教を信じてきた歴史のほうが長いことになります。
明治にいたって、突如として皇室は神道の庇護者になったわけです。
そして神道も仏教も魂を抜かれた置物のような存在になってしまいました。
多くの人が食える時代になったからこそ、宗教は敗戦直後の食えない時代よりも重要になってきたと言えるでしょう。
食えてこそ、精神の安寧を求めることができます。
今、仏教にしろ神道にしろ、わが国の伝統ある既成宗教は、食えるようになった、しかし複雑化した日本社会に住む人々の救いになることができるでしょうか。
あるいは全く新しい宗教、もしくは思想が必要でしょうか。
お寺で生まれ育った者としては残念ですが、仏教が明治維新以前のような、信仰の対象になることはないだろうと感じています。
神道も。
日本人の倫理規範を形作ってきた仏教と神道、それに武士道やら儒教やら。
それらが混然一体となってわが国を覆ってきました。
それは当分変わらないでしょう。
しかし時代の変化とともに、倫理規範は変わっていきます。
その時、わが国は何をもって倫理規範の存在を担保するのでしょうね。