ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

わが国とインドの諸行無常

2018年02月14日 | 文学

   ここ数日、暖かい日が続いています。
 おかげで体がずいぶん楽です。
 職場の庭の梅も、ずいぶんと咲きました。

 季節は着実に移ろっているのですねぇ。

 平安末期から中世のわが国の文学では、盛んに諸行無常ということが言われます。
 わが世の春を謳歌した平家が滅ぶまでを描いた「平家物語」しかり。
 隠遁の文学、「方丈記」しかり。

平家物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
角川書店

 

方丈記(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
武田 友宏
角川学芸出版

 権力も生命も、あらゆるものは移り変わり、いつかは儚くなってしまう、という無常感。
 そしてそういった考えは、今も日本人の多くに、心中深く、根付いている感覚でもあります。

 諸行無常は、もともと仏教用語ですが、わが国においては、仏教本来の意味よりも、ずいぶんと詩的というか、情緒的、感覚的に使われているように感じます。

 原始仏教での使われ方を見ると、わが国の文学で使われる諸行無常という語感とは異なっていることが分かります。

 諸行は、あらゆる物事、行い、と言う風に思われますが、原始仏教では、もともと存在しないものを作り上げてしまう作用、と解されます。
 つまり、諸行は、人間が自分の思い込みで勝手に作り上げている世界認識、といった意味になろうかと思います。

 そうなると、諸行無常は、自己が作り上げた世界認識は、確かなものではなく、実態が無い、というのが原始仏教に近いものと思います。

 諸行無常という語に比べると、無味乾燥というか、文学的香気が無くなりますね。

 さらに、自己が作り上げた世界認識が苦の根源であり、これを消滅させれば、苦は無くなる、と言われます。

 また、なぜ自己が勝手に世界認識を作り上げてしまうのかと言えば、その原因は無明(ありのままの世界に対する無知)にあるとされます。

 無明のままに、自分が作り上げた世界認識で世の中を見ていれば、生は思い通りに運ぶはずもなく、それゆえに苦が生じるのだから、自分が作り上げた世界を消滅させれば苦は無くなる、という。

 これに、縁起だの諸法無我だの涅槃寂静などが加わり、仏教は精緻な論を作り上げていくわけですが、ここではわが国の文学と諸行無常についての関連のみを考えたいと思います。 

 また、お釈迦様が生きた時代のインドでは、輪廻転生ということが常識みたいなもので、ですからいわゆる諸行無常は、滅することもそうですが、生じることも同様に重要視されているものと思います。

 わが国の文学では、諸行無常という語感から、もっぱら滅び行くものを想起させるように感じます。
 しかしインドでは、滅びては生じ、生じては滅びる輪廻の思想を表す言葉であったであろうと思います。

 一般に、日本語は詩歌に適した言語であり、哲学などには不向きと言われます。
 学生の頃、西洋哲学の先生が、日本語で西洋哲学を講義するのは無理があるので英語で講義したい、などと言って、大ブーイングになったことがあります。
 西洋哲学を専門とする学者からみて、日本語は厄介な言葉であったようです。

 一方、わが国の詩歌や物語を偏愛する国文学ヲタクを自認する私にとって、日本語はかけがえのない、美しい言葉です。
 その日本的美意識が、仏教用語を、知ってか知らずか、詩的な言葉に変化させてしまったようです。

 もちろん、わが国が受け入れたのはサンスクリット語の仏教ではなく、漢訳仏教でしたから、漢民族の美意識からも、相当の影響を受けたであろうことは想像に難くありません。

 いずれにしろ、本来難解であったはずの仏教用語を、わが国の文学における趣深い言葉に変化せしめた所以のものこそ、わが民族の優れた美意識であったろうと思います。

 そのことを重視して、わが国で進化を遂げた諸行無常の解釈を尊重したいと思っています。

 
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