夢でも野望でも大志でも、言葉はどれでも構いませんが、夢を諦めないで的な歌謡曲はあまたあります。
少年の頃は私も人並みにそれらの言葉に魅力を感じていましたが、年を取ると白けてくるというか、じつにどうでも良いことのように感じます。
夢や野望や大志というものは、要するにそうでありたいという自己実現欲求かと思いますが、それはまさしく執着というものです。
そう、お釈迦様が戒めた執着です。
最近では、何かにこだわることを、「こだわりの逸品」などのように、まるで一つの道に精進しているかのような使い方をしますが、本来の意味から言えば誤用です。
本来は、「~にこだわってはいけない」というように、こだわりを、一つのことに執着する悪い意味で使っていました。
いつから本来の意味が誤用に転じたのか分かりませんが、私が子供の頃にはそういう使い方はしていなかったように思います。
他にも、本来は自分には軽すぎる役目という意味の「役不足」という言葉を、自分には重すぎる役目という意味に使ったり、「不言実行」のパロディであったはずの「有言実行」という言葉が元々あった言葉であったかのように使われるようになりました。
言葉は変わっていくとはいうものの、真逆の意味で使われるのは気持ち悪いですねぇ。
夢や野望や大志という言葉に白けるようになったのは、精神の衰えもしくは怠惰と考えるべきなのかもしれませんが、自己弁護かもしれないですが、それらはもともと胡散臭い物言いなのではないかと感じています。
どんな冒険や夢を求めても、飯食って糞して眠るという人間生活の本質は変わりません。
そしてその生活を維持せしめるためには、収入を求めてつまらぬことでもやるのが生活というものだと思います。
そのつまらぬ生活のなかに人間本来の幸福があるのだろうと感じています。
長いこと、日本人の圧倒的多数は農民で、汗水たらして重労働に明け暮れ、一生を終えるというのがむしろ当たり前の生き方でした。
今はサラリーマンが多くなりましたが、その本質はお百姓さんのそれと変わりありますまい。
それを奴隷の幸せと呼ぶのは、あまりにも酷というものです。
三島由紀夫は、破滅の美学を美しく謳いあげ、ある評論家は「破滅を美とせず」と喝破しました。
浪漫主義的美学に彩られた三島由紀夫は、自らの生涯さえもおのれが信じる美の世界に昇華させましたが、破滅を美とせず、淡々と日を生きる一般庶民にこそ、生活の美を認めるべきなのかもしれません。
変わったところでは、指揮者のニコラウス・アーノンクールが、「究極の美は破滅の一歩手前にこそ宿る」と、言い放ちました。
なるほど。
破滅の美でもなく、生活者の美でもない、破滅一歩手前の美、なかなか説得力がある考えです。
いささか浪漫主義的傾向がある私にはたいへん魅力的な言説です。
破滅的美=私にとっての野望に白けながらも、生活の美を求めることに物足りなさを感じる私にとって、破滅一歩手前の美とは、なんとも甘美な香りが漂います。
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