T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

[ 「灰色の北壁→(表題同名短編)」を読み終えてー3/3- ] 3/21・土(曇)

2015-03-20 09:02:55 | 読書

第四章 明かされた疑惑

◇ 初登攀時の山頂からの写真の真偽

 ここに一枚の写真がある。刈谷修がカスール・ベーラ北壁の単独登攀に成功した後、その山頂で撮った写真の一枚として発表したものである。それは山頂でしか眺められない、世界の屋根の雄大さが切り取られ、ガスの奥から垣間見るに等しい写真でも大自然の壮大なパノラマが見るものに伝わってくる一枚だった。

 今回の取材を進めるうちに、ある人物から予想もしなかった指摘を受けた。その人物は匿名を条件に私に連絡を取ってきた。私は説得を試みたが、その人物は最後まで表舞台に出ることを拒みとおした。

 その人物に言わせると、かって、これとそっくり同じ写真を見た記憶があるという。それは、御田村良弘が初めてタワーを制して撮ったうちの一枚なのである。

 私は編集者の協力を得て、19年前に御田村が初登攀に成功したときの記事を集めてみた。ある山岳雑誌の中に、その一枚は小さく発表されていた。確かに似ているが微妙に違ってもいた。

 写真を撮った季節が8月と9月、時間が午後4時32分と午後4時6分と違っていて、問題は岩肌に映る影だと思い、気象学や写真学の専門家に鑑定してもらった。鑑定結果は同じ写真だとの断定はできないが、同じ場所から同じレンズで撮った可能性が極めて高いというものであった。

 私は本人の刈谷修に疑問をぶっつける他ないと、サンフランシスコまで行って、30分の話を聞く時間を貰った。

 彼は、「8000Mの山をその人たちは知らない。7000Mの高さに連なる垂直の壁にどういう影ができるものなのか、本当に計算だけで弾け出せるものでしょうか」と冷静に答え、「私は北壁を越えてタワーに立った。その事実は、誰より私自身がよく知っています」と言った。

 私は、本稿で疑惑を投げかけた人がいることを示しておくべきだと考えたにすぎず、実を言うと、私は、彼の登攀を信じているのである。彼には「灰色の北壁」を越えなければならない理由があった。偽りの登攀をでっち上げたのでは、御田村を超えたことにならないし、妻のためにも、その必要があったはずだ。また、あの山に嘘をついたのでは、刈谷修が築き上げた実績だけでなく、彼ら夫婦二人の行為までが汚れてしまうことにもなるからである。

 私は、あの北壁を制する次なるクライマーが早く現れてくれることを強く祈っている。

 必ず、その時は来て、彼の登攀は証明されると私は信じている。

◇ 御田村良弘の告白

 私は、御田村良弘がマネージメントを委託している会社の広報部に電話して御田村の所在を尋ねると、休暇をとっているとのことで、もしかとヨセミテのホテルを順に問い合わせの電話をして、宿泊先を突き止めた。しかし、取り次いでもらえなかった。

 それから5日後に、御田村良弘が、我が家を訪ねてきた。

 私は地下の書斎に案内した。御田村は書棚から、彼の1年後にカスール・ベーラの頂に立った米人のリック・スタインが書いた回顧録を見つけ、私の了解を求めて手に取った。その本の表紙には、山腹から見上げたカスール・ベーラの頂の写真が使われていた。

 御田村はその表紙を撫ぜながら、「刈谷修が、あの果てしなく続く壁を一人で登りきったなんて、私には信じられない。もし本当なら、ゆきえを奪われた時よりもっと激しい嫉妬を、刈谷に抱く以外にはありません」と、5年前には決して口にしなかった思いを、今はっきりと語った。だから、私は、ファンの一人だという者から寄せられた手紙に飛びついて、あなたに匿名という条件を付けて疑惑をほのめかしましたと、1通の封書を私に差し出した。

 その封書には、御田村がカスール・ベーラの初登攀に成功した直後の記事等をスクラップしていた中の写真と、刈谷が北壁を登攀後に発表した写真が、あまりにも似すぎている事実に気づき、ペンを執った次第だと書いてあった。

 私は御田村からその話を聞いたとき、疑念を抱いているのなら自らの声で主張すべきだと何度か説得を試みた。しかし、彼が刈谷の登攀に異議を唱えでもすれば、それは妻を奪われた嫉妬心と復讐心から難癖をつけている冷血漢だと思われる危険性があると思い、私が、御田村に代わり疑惑が存在する可能性があることを指摘しておこうと考えた。但し、私自身は、刈谷の登攀を本心から信じていた。

 ではなぜ、刈谷は、命を懸けた登攀に疑いをかけられても、怒りのそぶりも見せなかったのか。それは、御田村が登攀に成功していなかったことを、どうしても口に出すことができなかったのであろうと思った。

 何故なら、御田村から妻を奪った男だったからで、とても御田村から輝かしい栄光までをむしり取るような真似はできないと、刈谷は考えるに至ったのだ。彼は古き良き時代の思想を大切にするクライマーだったのだ。

 私は、リック・スタインの回顧録を読んで、カスール・ベーラの初登攀はリック・スタインともう一人のパートナーだったと確信していた。

 御田村も、話の終わりに、「リック・スタインの回顧録を1年前に読んで、私が頂上と思って突き刺した日の丸がそこに無かったことを初めて知りました」と、おし出す声がくぐもっていた。

 そして、「男としても、クライマーとしても、私は彼奴に負けていたんだ。それが悔しくて、悲しくて……」と言った後、「今度は私が、行動で示していかなければならないんだと思います」と言葉を続けた。

第五章 私が刈谷ゆきえさんに宛てた手紙

 前略 今もカスール・ベーラの山頂は、人見知りの性格そのままに、雲の中へ姿を隠したままです。きっとその姿を目にできる者は、神によって許された一握りの者だけなのでしょう。山の素人にも等しい私が、タワー北陸の一端をこの目にできただけでも幸運なのだと思っています。

 また、我が目でタワー北壁のスケールを確認するたび、無謀な挑戦にしか思えなくなってくるのです。私はここへ来て、貴女という人の強さを実感する日々です。

 彼と和樹君の体調は万全です。但し、彼の場合は57歳という年齢ですか、無理をさせるつもりはありません。無酸素単独は最初から狙っていません。チームの誰かがピークに立てばいい、我々は考えています。そして、北壁の最上部で6年前にあなたのご主人が残したに違いないものを必ずや見つけて帰るつもりです。

 我々チームの全員はだれ一人の例外もなく、みな信じています。わざと疑惑の矢面に立つような行為をした以上、刈谷修というクライマーは必ずこの北壁を制した証拠を何処かに残しているはずだ、と。

 ただ、これだけは言わせて下さい。チームの仲間は、刈谷修のために登るのではありません。彼らには登攀という彼らの夢があり、その夢を果たすために彼らは挑戦します。

 今朝、御田村良弘をリーダーとする先発隊が第2キャンプまでのルートを拓くために出発しました。和樹君は第2隊の一員として、いま私の横で準備を進めています。

 我々は雲に包まれた北壁を越えてピークに立ち、一人残らず生還します。そして、刈谷修の足跡を見届けてくるつもりです。遠いヨセミテの地からどうぞ我々を見守って下さい。

                                                  草々

                                              

                                             終

  

 

 

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[ 「灰色の北壁→(表題同名)」を読み終えてー2/3- ] 3/20・金(曇・晴) -1070回-

2015-03-18 16:40:51 | 読書

第三章 御田村良弘たちの人間関係

◇ カスール・ベーラに初登攀した二人(?)の関係

 話をカスール・ベーラの北壁に戻したい。

 1999年9月。御田村良弘が初めてその頂を制してから、19年もの月日が過ぎていた。残念ながら、その快挙は山岳雑誌にしか掲載されなかった。

 私は、たまたま山岳冒険小説を書き、その時に読んだ資料から、御田村良弘のその後について知っていた。だから、カスール・ベーラの北壁を刈谷修という日本人が初登攀してのけたというニュースに接したとき、驚きを隠せなかった。

 まずは、彼のプロフィールを先に紹介しておきたい。彼は34歳。御田村良弘と同じく成稜大学山岳部の出身者だ。二人には17の歳の開きがある。彼は私の二度にわたるインタビューの間、殆ど表情を変えなかった。絶えず笑顔を心がけようとした御田村良弘とは好対照だった。私が感じた彼の第一印象は、岩、だ。高所での適応力には、肺活量がものをいうが、彼の胸囲は1.14Mもあるという。

 大学3年の春、御田村良弘に見いだされて、御田村がカンチェンジュンガの無酸素単独登攀に挑戦したときの、サポート隊の一員として抜擢されたのである。その2年後にも、御田村に同行してナンガ・パルバットへ赴き、御田村が単独登頂を果たし終えた翌日に、大学の同僚と二人で、彼自身も頂上に立った。彼にとって、初めての8000M級高峰の初登攀だった。

 刈谷修はその時まで、御田村良弘の最も優秀な愛弟子だったのである。だが、その翌年、刈谷修は突然大学を中退すると、御田村から敢えて距離を取るかのように、フリー・クライミングの聖地と言われているヨセミテへ向かった。

 私は刈谷修にカスール・ベーラ北壁に登攀したときの模様を聞いた。

 刈谷は、トモ・チェセンの岩壁登攀を参考に、雪の氷着が激しい6500M付近は雪崩の危険を避けるため、夜間登攀にチャレンジした。闇は自分が高所にいる事実を忘れさせてくれます。ライトの届く氷壁にだけ神経を集中すればいいのです。日中、僅かな岩の起伏に手を伸ばす時のほうが、私は恐怖を覚えました。

 足元は3000M下へと断崖が伸び、風と粉雪が絶え間なく吹き付けてくる。その北壁に取りつき、骨の髄をも凍らせようとする寒さに耐え、かじかむ手足を動かして一歩ずつ距離を稼いでいった。3000Mの壁を登利斬るのに3日を費やした。そして、ほぼ72時間も眠らずに、ルート工作以外には何も考えずに、ただ登って見せると思っていただけですと言った。

 北壁を制して頂上に立った時、胸によぎったものは何かと問うと、余裕は全くなく、生きて帰ることだけを考えていたと答えた。

 刈谷の妻のゆきえは、ベース・キャンプから夫の挑戦を見守った。私は、彼女が今回の登攀に大きな影響をもたらしたと考えているので、敢えてここに記しておきたい。

 二人の結婚は、1993年で刈谷が28歳、ゆきえが31歳の秋である。ゆきえは再婚で、前年、御田村良弘との8年の結婚生活に別れを告げたのである。その時、6歳になる長男がいた。

 刈谷が御田村の許を離れてヨセミテへ行ったのは、ゆきえのことが関係していた。恩師の妻に思いを寄せ、刈谷は御田村の許を離れざるをえなくなった。そう考えると、突然の大学中退にも頷ける。ゆきえも3年後にヨセミテの刈谷のもとへ行った。

 刈谷修は、クライマーとしての栄光のために、カスール・ベーラ北壁に挑んだのではない。私にはそう思えてならない。

 彼には、南東稜のルートでカスール・ベーラの初登頂に成功した御田村良弘を一人の男として超えなければならない理由があった。御田村を超えるには、最も過酷なルートの北壁を始めて登る以外にない。それが一人の男として納得しやすいものだ。

 世界に名だたる高峰をはさんで、一人の女を一途に愛した二人のクライマーが無言で対峙する。その姿が私には見えてくるように思えてならない。

◇ 御田村良弘の息子・和樹

 もし許されるなら、刈谷修が残した写真のポジをすべて確認させてもらいたい。そんな勝手なことを考えていたが、刈谷ゆきえは私をヨセミテの家の中へ招き入れてもらえなかったので、手紙を書きますと言い残してホテルに帰った。

 翌日、私は渓谷めぐりに出かけた。たった1100Mの遥かな壁を見上げて私は予想もしなかった感慨にとらわれた。刈谷修が妻のために挑もうと決めた北壁を一度この目で見てみたい。写真でなく、実物の北壁を見上げてみたい。ホワイト・タワーを目にすることで男達が命を懸けて燃やし尽くした思いの数パーセントでも、すくい取れるのではないか。40過ぎの素人の男が5000Mの高所に立てるものなのか、疑問は大きい。だが、私にはそうすべき理由があるのではないか。決意へと成長はできないまま帰国した。

 帰国すると、妻から御田村和樹という方が訪ねてきたことを知らされた。訪ねてきたのは、御田村良弘の今年18歳になる一人息子だった。

 私は、成稜大学の体育館に御田村和樹を訪ねた。彼はフリー・クライミングの練習をしていた。

 挨拶の後、彼は、刈谷修さんが亡くなる前から決めていたことがあるのです。いつになるか分からないけど、絶対にあの北壁を登ってみせる。そう決めているんですと、クライミングのための人工壁を見やったまま小声で言った。

 刈谷修は、難攻不落と言われたあの北壁を、御田村良弘を超えるためにも一人で挑みねじ伏せた。疑惑の登攀と呼ぶ者もいるらしいが、もし自分の力で登りきることができれば、それは、刈谷修を本当に超えたことになる。そう御田村和樹は考えているのだ。

 その話をお父さんにしたことはあるのかなと問うと、父とは、殆ど話をしていませんと言われた。

 私は、どうして君は山へ登るのかなと質問すると、「父たちが見た光景を僕もこの目で確かめてみたいのです。」迷いのない即答だった。

 「なぜ、彼が死んだと聞いたことで、私を訊ねてきたのかね」と、話を核心に戻した。

 すると、「あのノンフィクションを何度も読み返しました。父とあの人の間に何があったのか、父も母も何も話してくれませんでしたが、そのうち、父の成し遂げたこと、あの人が成し遂げたと言われていること、その挑戦に心を奪われてきました。その意味で僕は先生に心から感謝しています」と言われた。その後、彼から、あの疑惑を指摘した人が誰だったのか、教えていただけないかと言われて、それはできないと断ると、分かりましたと理解してくれて、話を変えて父の現況を話してくれた。

 あの人が命を落とした直後から、父は56歳になるのに、なぜ急にトレーニングをまた始めたのか、父に訊ねても相手にしてくれませんと言うので、私は確認してみましょうと返事した。彼からお願いしますと言われた。

                                  (次章に続く)

 

 

 

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[ 梅見 ] 3月18日・水曜(曇・雨)

2015-03-18 09:40:20 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                                             

 昨日、遅めの梅見に故郷の郊外に出かけた。

 今日の彼岸の入りは雨との予報だったので、

  昨日は兄のように慕っていた従兄の墓参にも行ってきた。一年振りの故郷だった。

 一昨日、昨日、今日と3日続きの濃霧。 

 海・陸・空の交通機関の乱れで事故もあったようだ。

 特に昨日は、午前中、酷い濃霧で午後に出かけることとなった。

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[ 灰色の北壁→(表題同名短編)を読み終えてー1/3ー ] 3/19・木曜(雨・曇) 

2015-03-17 08:51:25 | 読書

◎ 灰色の北壁

<概要>

 (裏表紙より)

 世界のクライマーから「ホワイト・タワー」と呼ばれ、恐れられた山がある。

 死と背中合わせの北壁を、たった一人で制覇した天才クライマー。

 その偉業に疑問を投じる、一編のノンフィクションに封印された真実とは……。

<作品構成・感想> 

 小説の構成が、スポーツ雑誌の原稿という文体のノンフィクション形式でこの小説に関連する山とその登攀記録などを描き(黒色で記述)、その山への登攀に関連する人間模様を一般的なフィクションの小説形式で描いて(青色で記述)、その二つのパートを各々の章に収め、最後の章だけは手紙形式(オレンジ色で記述)で纏めている。

 私にとってこのような形式の小説を読むのは初めてのことであり、山頂まで登攀したのかどうかの疑惑を解いていく展開は、絵と言葉で楽しむ紙芝居のように面白く読ませてくれた。

 しかし、この作品も推理小説で、しかも、主人公が一人称の「私」で主語が不明のところがあり、私には欲づらい作品でもあった。

<登場人物> 

 私      主人公。小説家。

 刈谷 修  登山家で山岳写真家。成稜大学山岳部出身者。御田村良弘の愛弟子。

 刈谷ゆきえ 御田村良弘の妻で、和樹を生んだのち離婚。刈谷修と再婚。

         成稜大学山岳部出身者。

 御田村良弘 成稜大学部出身者。

 御田村和樹 良弘と刈谷ゆきえの息子。成稜大学山岳部所属。

<作品の文章抜粋による粗筋> 

   ※ 「タイトル」は私が付けてみました

第一章 カスール・ベーラ(7981M)の北壁と初登攀者の死

◇ 「灰色の北壁」(カスール・ベーラの北壁)

 ここは山ではありえなかった。世界の重力が異常をきたし、天と大地が90度の歪みを起こしている。見渡す限りの大岩壁が、神の悪戯で垂直にそそり立ち、天に貫く高峰の頂きを支えて聳える。何かの間違いでしかありえなかった。そう考えでもしないと、この世に存在すること自体が素直に頷けない地形とスケールを誇る山だった。

 その山はヒマラヤ山脈に位置する「カスール・ベーラ(7981M)」で、別名「ホワイト・タワー」と呼ばれ、その北壁は、約3KMに渡り垂直に立ちはだかっており、まるで「この世界の端を遮る壁」であった。

 彼(刈谷修→推測)には、どうしても、この北壁を越えて頂きに立たねばならない理由があった。

 あれが目指す頂上だ。あとたった数百メートル。小さな一歩を繰り返していけば、必ず山頂に辿り着ける。焦るな。慎重に手を足を動かして山をねじ伏せていけ。ゴールは近い。聞こえる声は、自分の声だ。そして彼女の声でもある。

 彼は世界のクライマーがまだ叶えたことのない夢に向かって、果てしない高みへと続く壁を一歩ずつ這い登っていった。

◇ 「灰色の北壁」の初登攀に疑惑をもたれた日本人クライマーの死亡

 一面識もない記者から、私の自宅に、「12日の未明に刈谷修さんが亡くなられた旨、ベースキャンプの奥さんから無線が入りました。7800M付近に設けた最終キャンプを出発した直後に、頭部に落石が直撃して、ほぼ即死のことだそうです。刈谷さんを悼む言葉をいただけないでしょうか」との電話があった。

 私は数年前にスポーツ誌の創刊記念特集号に「灰色の北壁」というタイトルで、刈谷修にまつわる一編のノンフィクションを勝手な憶測を交えて執筆した。彼のことは、それ以前に、ある山岳雑誌に、「20世紀の課題の一つ」と言われ続けたカスール・ベーラの北壁をたった一人で、それも誰もが驚く短時間で初登攀して除けた日本人クライマーとして紹介されていた記事を通じて、強く私の記憶に残っていた。

 執筆した後、編集部から、原稿の一部に手を入れてくれないかとの相談をもちかえられた。私としても、憶測の部分や、ある関係者へのインタビューで口が重たかったこともあって、編集部の意をくみ手を入れ、原稿はもどかしい表現が多くなって、登攀に成功したかどうかについて疑惑を追及するものとも取れるものになっていた。

 そんなことから、当該記者は、「刈谷さんは、いずれ自らの行動を疑惑への答にしていくと言われていたが、できなくなりましたね」と、私を疑惑の究明者の先鋒であるかのように話しかけてきた。記者の目論見は、最初から読めていた。本当は、疑惑の的となった登山家の死を派手に煽って紙面をにぎわせたいし、自らの卑しき好奇心を満たそうとしているのだ。

 刈谷修の死は、彼(御田村良弘→推測)のもとへもマスコミ関係者から報告されているはずだろうが、彼は何をまず考えたろうか。刈谷の死を願っていたわけはないと信じている。彼には決して人に語れない苦しみが広がっているに違いなかった。

第二章 灰色の北壁を制したクライマーの死の遠因

◇ カスール・ベーラに初登攀した二人(?)の日本人クライマー

 世界四位の高峰ローツェ(8516M)の南壁も壁の長さが2200Mに及ぶ超難関ルートで名を馳せていたが、1990年5月、トモ・チェセンによって驚くべき手法のソロによる初登攀を許した。

 ソロでの登攀は、無酸素登攀なので、鍛え抜かれた体力と卓越した技術さえあれば、チームを組んで少しづつ距離を稼いでいく組織的な旧来の登攀スタイルよりはるかに安全で短期間での成果も期待できるのである。

 残るホワイト・タワーの北壁も時間の問題だろうと、当時は言われた。しかし、その後もクライマーの挑戦を拒み続けた。これには、地理的な条件が大きく影響していた。日射しの当たりにくい北面の壁であること、タワーの西側が開けているため、ヒマラヤ上空を駆け抜ける偏西風がまともに吹き寄せて天候が安定しないことにより、人を寄せ付けない最後の砦となった。神の最後の抵抗だったのかもしれない。

 だが、その時は訪れた。1999年9月22日、ホワイト・タワーの北壁は34歳の日本人クライマーの前に初めてひれ伏した。

 1980年に、南東稜からホワイト・タワーの頂に初めて立ったのも、実は日本人なのである。

 いや、立ったというのは正確ではない。 彼は頂を抱きしめたと言いかえたほうが実情に合っている。

 その日本人は、当時32歳の御田村良弘で無酸素単独の登攀であった。しかし、予定より長い時間をかけて翌日の午後に戻ってきた。その原因は7800Mの東チンネのピーク付近で落石を受け滑落して、右足首と左肩を骨折したためで、それでも彼は諦めずに、片手と片足でロープをたぐり、壁を乗り越えて、ホワイト・タワーを力任せにねじ伏せたのだ。

 だから、御田村は山頂に立っていない。立つことはできなかった。ガスに巻かれた中、日本の国旗をピークの一角に刺して這いつくばる自分の姿を、カメラに収めている。

 御田村は、もう一つの北壁制覇の夢は叶わなかったが、ホワイト・タワーを初めて制したクライマーとして、彼の名前はひときわ輝かしい光を登山史の中で光を放っている。

◇ 刈谷修を死亡させた遠因

 私の書いた原稿と、それを読んで疑惑を煽ったマスコミが、刈谷修を、さらなる挑戦に駆りたてたようなものだった。

 5年前、非難の矢面に立たされた刈谷は、すべては今後の私の行動が答になるはずだと、疑惑に対する正式なコメントを、当時から住居としていた米国のヨセミテで発表している。

 その後、そのコメント通り、2年の準備期間を経て、彼は2冊の写真集を刊行して資金を作ると、新たな挑戦へ動き出した。それは、8400Mを超える世界の五座を、全て無酸素単独で、できれば新ルートを拓いて登攀するという計画だった。

 一昨年夏のK2、昨年のマカルートと新たなルートからの登攀に成功し、計画は順調に進んでいた。だが、一個の落石が彼の命と名誉を道連れにした。

 私は、「灰色の北壁」を掲載した雑誌社に連絡を取り、編集者からの情報で、刈谷の亡骸はカトマンズで荼毘にふされ、妻の刈谷ゆきえは日本には帰ってこないだろうとのことだったので、ヨセミテに飛んだ。

 1週間後に、私の予想通りに、彼女とヨセミテのお宅で会うことができた。

 私は玄関先で、、「どうしてもお悔やみを述べたくあなたを待っていました。すぐに帰りますが、私は、ただ、あの雑誌にも書いたように、私は本心から御主人の登頂を信じていました。それだけを貴女に言いたくて待っていたのです。私は、刈谷修という男の不器用すぎる生き方に惹きつけられてやみません。貴女への想いをもっと多くの人に知ってもらいたい、どうしても、そう考えてしまうのです」と言うと、彼女は、「やめてください。あの人を死なせたのは、私です。私が刈谷修という素晴らしいクライマーを……。」後は、ドアにもたれかかって声にならず嗚咽に絶えていたように思えた。

                                  (次章に続く)    

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[ 北陸新幹線開業・金沢出発 ] 3月14日・土曜(雨・曇・晴)

2015-03-14 09:07:06 | 日記・エッセイ・コラム

 北陸新幹線、今日からスタート。

 もう少し若かったら行ってみたいと思う。

 50数年前、本社への転勤で大阪から東海道新幹線に乗ったことを思い出す。

 

                                    

 

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