第三章 御田村良弘たちの人間関係
◇ カスール・ベーラに初登攀した二人(?)の関係
話をカスール・ベーラの北壁に戻したい。
1999年9月。御田村良弘が初めてその頂を制してから、19年もの月日が過ぎていた。残念ながら、その快挙は山岳雑誌にしか掲載されなかった。
私は、たまたま山岳冒険小説を書き、その時に読んだ資料から、御田村良弘のその後について知っていた。だから、カスール・ベーラの北壁を刈谷修という日本人が初登攀してのけたというニュースに接したとき、驚きを隠せなかった。
まずは、彼のプロフィールを先に紹介しておきたい。彼は34歳。御田村良弘と同じく成稜大学山岳部の出身者だ。二人には17の歳の開きがある。彼は私の二度にわたるインタビューの間、殆ど表情を変えなかった。絶えず笑顔を心がけようとした御田村良弘とは好対照だった。私が感じた彼の第一印象は、岩、だ。高所での適応力には、肺活量がものをいうが、彼の胸囲は1.14Mもあるという。
大学3年の春、御田村良弘に見いだされて、御田村がカンチェンジュンガの無酸素単独登攀に挑戦したときの、サポート隊の一員として抜擢されたのである。その2年後にも、御田村に同行してナンガ・パルバットへ赴き、御田村が単独登頂を果たし終えた翌日に、大学の同僚と二人で、彼自身も頂上に立った。彼にとって、初めての8000M級高峰の初登攀だった。
刈谷修はその時まで、御田村良弘の最も優秀な愛弟子だったのである。だが、その翌年、刈谷修は突然大学を中退すると、御田村から敢えて距離を取るかのように、フリー・クライミングの聖地と言われているヨセミテへ向かった。
私は刈谷修にカスール・ベーラ北壁に登攀したときの模様を聞いた。
刈谷は、トモ・チェセンの岩壁登攀を参考に、雪の氷着が激しい6500M付近は雪崩の危険を避けるため、夜間登攀にチャレンジした。闇は自分が高所にいる事実を忘れさせてくれます。ライトの届く氷壁にだけ神経を集中すればいいのです。日中、僅かな岩の起伏に手を伸ばす時のほうが、私は恐怖を覚えました。
足元は3000M下へと断崖が伸び、風と粉雪が絶え間なく吹き付けてくる。その北壁に取りつき、骨の髄をも凍らせようとする寒さに耐え、かじかむ手足を動かして一歩ずつ距離を稼いでいった。3000Mの壁を登利斬るのに3日を費やした。そして、ほぼ72時間も眠らずに、ルート工作以外には何も考えずに、ただ登って見せると思っていただけですと言った。
北壁を制して頂上に立った時、胸によぎったものは何かと問うと、余裕は全くなく、生きて帰ることだけを考えていたと答えた。
刈谷の妻のゆきえは、ベース・キャンプから夫の挑戦を見守った。私は、彼女が今回の登攀に大きな影響をもたらしたと考えているので、敢えてここに記しておきたい。
二人の結婚は、1993年で刈谷が28歳、ゆきえが31歳の秋である。ゆきえは再婚で、前年、御田村良弘との8年の結婚生活に別れを告げたのである。その時、6歳になる長男がいた。
刈谷が御田村の許を離れてヨセミテへ行ったのは、ゆきえのことが関係していた。恩師の妻に思いを寄せ、刈谷は御田村の許を離れざるをえなくなった。そう考えると、突然の大学中退にも頷ける。ゆきえも3年後にヨセミテの刈谷のもとへ行った。
刈谷修は、クライマーとしての栄光のために、カスール・ベーラ北壁に挑んだのではない。私にはそう思えてならない。
彼には、南東稜のルートでカスール・ベーラの初登頂に成功した御田村良弘を一人の男として超えなければならない理由があった。御田村を超えるには、最も過酷なルートの北壁を始めて登る以外にない。それが一人の男として納得しやすいものだ。
世界に名だたる高峰をはさんで、一人の女を一途に愛した二人のクライマーが無言で対峙する。その姿が私には見えてくるように思えてならない。
◇ 御田村良弘の息子・和樹
もし許されるなら、刈谷修が残した写真のポジをすべて確認させてもらいたい。そんな勝手なことを考えていたが、刈谷ゆきえは私をヨセミテの家の中へ招き入れてもらえなかったので、手紙を書きますと言い残してホテルに帰った。
翌日、私は渓谷めぐりに出かけた。たった1100Mの遥かな壁を見上げて私は予想もしなかった感慨にとらわれた。刈谷修が妻のために挑もうと決めた北壁を一度この目で見てみたい。写真でなく、実物の北壁を見上げてみたい。ホワイト・タワーを目にすることで男達が命を懸けて燃やし尽くした思いの数パーセントでも、すくい取れるのではないか。40過ぎの素人の男が5000Mの高所に立てるものなのか、疑問は大きい。だが、私にはそうすべき理由があるのではないか。決意へと成長はできないまま帰国した。
帰国すると、妻から御田村和樹という方が訪ねてきたことを知らされた。訪ねてきたのは、御田村良弘の今年18歳になる一人息子だった。
私は、成稜大学の体育館に御田村和樹を訪ねた。彼はフリー・クライミングの練習をしていた。
挨拶の後、彼は、刈谷修さんが亡くなる前から決めていたことがあるのです。いつになるか分からないけど、絶対にあの北壁を登ってみせる。そう決めているんですと、クライミングのための人工壁を見やったまま小声で言った。
刈谷修は、難攻不落と言われたあの北壁を、御田村良弘を超えるためにも一人で挑みねじ伏せた。疑惑の登攀と呼ぶ者もいるらしいが、もし自分の力で登りきることができれば、それは、刈谷修を本当に超えたことになる。そう御田村和樹は考えているのだ。
その話をお父さんにしたことはあるのかなと問うと、父とは、殆ど話をしていませんと言われた。
私は、どうして君は山へ登るのかなと質問すると、「父たちが見た光景を僕もこの目で確かめてみたいのです。」迷いのない即答だった。
「なぜ、彼が死んだと聞いたことで、私を訊ねてきたのかね」と、話を核心に戻した。
すると、「あのノンフィクションを何度も読み返しました。父とあの人の間に何があったのか、父も母も何も話してくれませんでしたが、そのうち、父の成し遂げたこと、あの人が成し遂げたと言われていること、その挑戦に心を奪われてきました。その意味で僕は先生に心から感謝しています」と言われた。その後、彼から、あの疑惑を指摘した人が誰だったのか、教えていただけないかと言われて、それはできないと断ると、分かりましたと理解してくれて、話を変えて父の現況を話してくれた。
あの人が命を落とした直後から、父は56歳になるのに、なぜ急にトレーニングをまた始めたのか、父に訊ねても相手にしてくれませんと言うので、私は確認してみましょうと返事した。彼からお願いしますと言われた。
(次章に続く)