T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

[ 山本一力著「ジョン・マン2 大洋編」を読み終えて!! 5/6 ]

2014-11-25 10:31:51 | 読書

16ー 1841(天保12)年7月25日。ジョン・ハウランド号。

     水夫たちが不味いと食しなかった大型魚シイラを、

     筆の丞たちが日本的に料理して外人水夫に美味いと褒められる

 甲板での手術以来、重助の足の容態は日を重ねるごとに回復を見せていて、肩を貸している五右衛門は、肌身で感じ取っていた。

 筆の丞と寅右衛門が右舷の手摺に寄りかかっていた。筆の丞が真下に目をやったとき、見慣れた魚影が見えた。大型魚のシイラの群れだった。ところが水夫たちはシイラに目もくれず甲板での作業を続けていた。

 筆の丞はわしらでシイラを釣って、みんなに食べてもらおうと、寅右衛門に万次郎を呼んで来いと言った。

 急ぎ足で上がってきた万次郎に、レイさんに頼んで、道糸と釣り針、それに疑似餌を作る鮮やかな布を用意してもらってくれと注文した。

 レイに付いてボースンも甲板に来たが、ボースンは、この魚は不味いと言って下に降りていった。

 筆の丞は、醤油が無いけど、切り身にして塩とニンニクの薄切りを散らしてから焼いたら美味いはずだと考え、寅右衛門と五右衛門を連れて櫓のほうへと移った。

 疑似餌の細工が功を奏したのだろう。2時間のうちに、いずれも1メートルもある大物が7本も釣れた。万次郎に、シイラを夕食のおかずにさせてくれと、レイさんに頼んでくれと言った。

 どうにか料理人のイリヤが試食を受け入れてくれた。試食の結果は良好で、夕食には水夫たちが上手いと褒めてくれた。

 

17ー 1841(天保12)年9月1日。ジョン・ハウランド号。

    一獲千金を夢見て捕鯨船に乗った銛作り職人・ガイズたちは、

    クジラが取れないことを筆の丞らの所為にして罵っていた。

 

18~21ー 1841(天保12)年9月16日。ジョン・ハウランド号。

        万次郎が発見した巨大マッコウクジラを仕留める

 9月9日から16日の今朝まで、8日連続の凪にまとわりつかれた。

 風が無いと母船が動けないので、ホエールボートだけでは、クジラに追いつけず捕鯨が無理なので、風が吹くのを待たなければならなかった。

 しかし、今朝、船長がボースンに、3本のマストの帆を解いて、いつでも帆が張れるようにスタンバイしておけと命じた。ボースンが水夫たちに、そのことを伝えて15分が過ぎた時、風が頬を撫ぜた。早速に船長の指図を受けて、ボースンは帆を張ることを命じた。

 ジョン・ハウランド号は前進を始めた。水夫たちは帽子を放り上げて喜んだ。

                                                

 万次郎が水平線を見詰めていたら、マッコウクジラの潮吹き(ブロー)を見つけた。

 (ここから、約21メートルのマッコウクジラをホエールボート5杯が連携しながら銛と槍で仕留める西洋式捕鯨が描かれていく。

 何本もの銛を身体に浴びながら、尾びれで海面を叩いてボート一隻を横転させたり、麻綱の付いた銛を打ち込まれ、ボートを引っ張ったまま疾走したりと、死力を振り絞るクジラと熟練の捕鯨師が死闘を繰り広げる状況が詳細に記述されている。)

 

22~24ー 1841(天保12)年11月20日。ジョン・ハウランド号。

        万次郎は日本人で初めて朝日に照らされたオアフ島を目にした

 

25ー 1841(天保12)年12月1日。ホノルル港。

    ホノルル港でのマンジロウとデロ(筆の丞)たちとの別離

 冬場のホノルル港の捕鯨船出向は、時間帯の風が船出に適していた午前9時が決まりだった。

 港の突端の巨大な時計塔の鐘が午前8時を告げていた。(筆の丞たちは、捕鯨船の暮らしを続ける中で、時計の見方と時刻の呼称法を学んでいた。)筆の丞が、あとワン・アワーしかなくなった。こっちのことは、わしが引き受けるので心配いらないと、万次郎に強い口調で請け合った。

                                                       

 万次郎のマッコウクジラ発見に加えて、万次郎が揚げパンを食べすぎての下痢騒動。この2つの出来事で筆の丞ら5人と捕鯨船乗組員たちとの溝は埋まった。

 水夫たちは、万次郎を除く4人の名前が呼びにくいので、ニックネームを付けてくれと、ボースンからの頼み事をレイはマンジロウに伝えた。

 筆の丞はデロ、重助はジュシカ、五右衛門はグイモ、寅右衛門はトレモ。万次郎はそのままのマンジロウということになった。

                                                      

 ホノルルの港で下船しようとしたとき、カメハメハ王国の官吏は、5人の入国許可を出し渋った。格別の漂流民を受け入れても王国発展の役に立たないとのことだった。

 マンジロウはホイットフィールド船長に、魚を取るのを見せたらどうだろうと言うと、それは名案だということで、デロ、グイモ、トレモの3人が小舟を漕ぎだして、舟の上から交替で投げ網を打った。羽衣を広げるかのように網が開いた。見物人から拍手が起こり、官吏は、この男達を雇いたいとレイに伝えた。船長は、少なくともマンジロウは手放したくなかったので断った。しかし、結果は船長のたっての頼みで入国を許された。

 デロは、地元民から、ホノルルからシャンハイ経由で琉球に行く船が出ていることを知ったが、船賃が独り80ドルと知ってがっかりした。

 数日して、マンジロウは4人に、昨日、船長に会って俺が捕鯨船に戻ることの許しを貰った。何度か捕鯨船乗りを繰り返して、皆の船賃を必ず稼ぐつもりだと決意を告げた。他の4人はジュシカの足の不自由のこともあり、とくに船大工を目指していたトレモは、性に合わないのか捕鯨船に戻ることは嫌っていたので、デロがみんなの意見をまとめて、マンジロウの決意に従うことにした。

 

 12月1日の朝、大時計の針が8時45分の位置に進んでいた。

 タラップの下で残留する4人がマンジロウを見送っていた。「行ってきます」とのマンジロウの短い言葉に、デロが、「何年かかってもいいから、身体に無理をするなよ」と言い、その言葉にはマンジロウへの感謝の心が込められていた。トレモも、「せっかく5人がみんな助かったのだから、ぜひまた、5人がここで会って、宇佐浦まで一緒に帰ろう」と、珍しく多くを喋った。マンジロウは無言のまま頭を下げた。その後、向きを変えて一気に40段のタラップを駆け上がった。

                              次章に続く

 

 

    

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