(利根川の東遷図)
「第一話 流れを変える - あらすじ」
天正18年(1590)夏、秀吉は、相州石垣山の山頂に登り、放尿を始めた。そして、横に付き合った家康に、「いまの所領の代わりに、関八州をやろう」と申し出た。
後日、家康は、反対する家臣に、
「わしは、この国替えに応じようと思う。ここは初志を貫かせてくれぬか。関東には未来(のぞみ)がある」と述べた。
家康は、このとき49歳。(この時代であれば、)普通なら未来どころか過去の生涯を振り返り、清算すべきを清算し、そうして、子々孫々のため、良き死の準備をすることをこそ意識すべき年齢だろう。
家康は、石垣山の陣中に戻り、秀吉に、
「国替えのお沙汰、ありがたくお受けつかまつる」と返答する。
秀吉は、邪魔者を僻地へ追い払ったと、こ踊りし、
「城は何処に。関東の中心といえば、小田原じゃな。鎌倉も悪うないかの」と言うと、
「武州千代田の地の江戸城へ居住(いすま)おうかと」と家康は答える。
その江戸城は、百年以上も前、太田道灌が築城したが、いまは小田原の一支城で、ただの田舎陣屋に過ぎぬものであった。 秀吉は、狐につままれたような顔をした。
◆
小田原落城から一ヶ月もせぬ8月朔日(1590)、家康は、始めて江戸に足を踏み入れた。
お城は荒れ寺のようで、重臣の本多忠勝や、土井利勝、井伊直政が、それぞれ城の構想を申し立て、普請を申し付け下されと言うが、家康は、
「城は後でよい。いま必要なのは、江戸そのものの地ならしじゃ。この湿地帯を大阪にしたい」と言い、「伊奈忠次、まかり出よ」と命じ、
「そのほうに命じるのは、江戸の街そのものを築く基礎づくりじゃ。 城ひとつ建てるよりはるかに困難な名誉な仕事である。喜んで受けよ」と言う。
◆
伊奈忠次は14歳のころ、家康の家臣だった父・忠家が一向宗門徒の一斉蜂起に事態を静観していたことから領外追放となり、20年後、帰参が叶って甲斐国へ派遣されていた。
そのころ、山賊が跋扈していて、忠次は、山賊のある一族の首領の首を刎ねて、村人の生活の安心を取り戻した。
たまたま、家康が鷹狩りに来ていて、忠次は、事の次第を報告すると、「そなたも一統の指揮者であろう。自ら賊とわたり合うは血気の勇」と言われた。
忠次の頭脳は、この瞬間、おのが立ち位置を正確に知った。(おれは、武人であることを望まれていない、武人など家康の家臣団には有り余るほど存在する。但し、その反面、文人というか、有能な民政長官の能力をもった人間はほとんどいない。家康は、それを見込んで直参にしたのであろう)
「殿さま、申し訳ありませんでした。拙者は臆病者になりまする」と忠次は平伏し、以後、二度と刀を抜かぬことを心に誓った。 以後、そのように振る舞った。
これが、民の政事に専念するため、戦場へ引っ張り出されぬようにするために、殿に申し出た忠次の戦略だった。
◆
伊奈忠次は、田畑の調査などをしつつ、二年かけて関東平野をくまなく歩いたあげく、ある秋の日、床几に腰を下ろして、「やはり、利根川じゃな」と言った。
長男の熊蔵が、なぜと聞くと、
「利根川こそが、江戸の地を水浸しにしている元凶なのだ。流量が多く、江戸湊(東京湾)に注ぐ河口が広すぎるからだ」と、忠次は説明した。
そもそも利根川は、上野国の北部、水上(群馬県みなかみ町)の山深くを水源としている。 はじめ南東へ、やがて南へ流れて東京湾に注ぐというのが大ざっぱな流路だった。
「河口は、江戸城の北東方・関屋(足立区千住関屋町)にある。周囲は、一面湿地となり、海の水と混じり合い、人の歩みを拒んでいる。米も実らぬ。畑にもならぬ。江戸で雨が降らずとも、北関東で降れば手のつけられぬ水が押し寄せる。この問題を解決せねば、江戸は永遠に未開のままじゃ」
忠次の話に、熊蔵は「ならば、河口を移せばいい。大きく東へずらしてしまうのです」という。忠次も、
「川が江戸に入る前に、まだ武蔵国(埼玉県)辺りを南流しているうちに、藁しべを折るように、川そのものを東に折る。そうして加工を上総へしりぞけてしまう。 そうすれば、江戸の地ならしは、極めて容易になるじゃろう」と語る。
◆
忍城(おしじょう:埼玉県行田市)城主・松平忠吉様と付家老・小笠原様がお出でになりましたと、従者から報告があり、忠次は、「利根川東遷の端緒が来たか」と、地に伏して迎えた。
「拙者としては、この「会(あい)の川」の南へ曲る本流(本来は支流)を締め切り、川全体を東西の一本道としてしまうのです」と、忍城城主へ申し上げる。
この川は、Tの字なりに南へ支流をのばしている。この支流は本流より川幅が広いので、本流といわれるべきだろう。東へながれる本流は、もう一度、南へ流れるようになる。
「したがって、南へ流れは水源を失い、廃川となり、いわば長大な沼になるようようなものですから、それを利用して周辺地域に水路を開き、網の目のように張り巡らすのです。そうすれば、田が開ける、人が住める。舟を使っての運搬も容易ですし、洪水の心配もなくなります。若君、小笠原殿。ご允可いただけますや?」と続けた。
◆
締切工事が始まった。
そして、(工事は1954年完了し、)南への流れは締め切られた。 残ったのは、西から東への一本川。これが利根川となった。
しかし、川は緩やかにカーブし、栗橋辺りで南へと流れ、以前と同じく、水は元と同じく東京湾へ注いでいた。
「忍領の領民にとっては大きな利益だったけれども、江戸の民には、何の利益もなかったのでは?」と、熊蔵は、父に疑義を呈した。
忠次は、「あの締め切りは、ものの試しに過ぎぬのだ」と、子供っぽく笑って、「要するに、土木技術のテストだ」というのだった。
「なにしろ、あそこは砂洲があり、良質の意志も手に入りやすいし、水深も比較的に浅く、作業員の事故死も抑えられる。そのくせ、成功したら、家康公四男の知行地をみどりの沃野に変えたという大きな評判が、関東はおろか、全国に広まるだろう。となれば、次の治水も遣り易くなるだろう。わしはな、そういうところまで考えて、始めに会の川を選んだのじゃ」と。
熊蔵が、石橋をたたいて渡るような話ではありませんかと言うと、忠次は、
「家康さまも同じじゃよ。決して急がず、確実を期す。時には回り道をも辞さぬ。上様を見習ったのじゃ。今度は利根川じゃぞ」と言う。
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ところで、関東平野には利根川と並ぶ大河川がもう一本あって、利根川のさらに東を、やはり南北に走っている。
渡良瀬川だ。あたかも、二本の平行線のごとき地相を呈しているのだが、忠次の構想は、利根川をぐいと東へ曲げて渡良瀬川へ合流させてしまおうというものだった。
そうすれば、利根川の中下流はまるまる廃川となって河口は干し上がる。江戸の可住面積は広がる。むろん、その代わり、渡良瀬川の河口へは、大河二本分の膨大な水が殺到することになるけれども、そこは、もはや江戸ではない。江戸から東へ四里も離れた下総国の猫実村(千葉県浦安市)だ。
この構想は、ちょうど利根川の河口を、北千住からディズニーランドに移すようなものだ。
なお、利根川と渡良瀬川が合流してから、その下流は、新たに利根川と呼ばれるようになった。
工事は規模があまりにも大きく、秀吉の死から大阪の激変で、工事は幾たびか中断し、実際の工事は、江戸幕府開府の数年後で、利根川と渡良瀬川の合流工事の完成は、元和7年(1621)、あの会の川の締め切りから27年も経ってからだった。
関屋の河口は無くなったわけではなかった。他に水源を得て、ほっそりと東京湾に注ぎ続けた。江戸城東部を南流するこの細い流れは、隅田川と呼ばれることになる。
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伊奈忠次の後を継いだ次男の忠治は、合流工事完成の翌年、11年前に亡くなった先代(忠次)と4年前に34歳で病死した兄・熊蔵(長男)の墓参に赴いた。
熊蔵は先代が亡くなった後、家督を継ぎ、遺領一万石を継承し、代官職も踏襲した。実名は忠政。
もちろん、先代から期待されて代官の仕事の帝王学を授かった。
将軍職を秀忠に譲った家康は、この26歳の忠政を側近として駿府へ呼んだ。
4年後に、家康は、大阪へ出陣した。世にいう大坂冬の陣である。熊蔵とその一党の姿も、そこにあった。
民政長官が、軍事作戦の一翼を担うこととなったわけだった。家康としては、先代からの功績にも報いるための大抜擢であった。 家康は、大阪の長柄川を水源近くで堰き止めて、大阪城下への生活用水を止めることを、熊蔵へ命じた。
家康は、一ヶ月かけても完了しないことに激怒して本人を呼び付けた。 熊蔵は近隣村へ水が溢れることを防ぐための長い水路を一本作ってから、堰き止めようとしていたと陳弁した。
家康は、「ここは戦場だ。近隣村への水の溢れを防ぐ必要はさらさらない。ここでの、川の堰き止めは、代官の仕事でなく、武将の仕事だ」と一喝した。 (しかし、家康の人材適所の失策でもあった)
それからは、家康からの声掛けはなく、熊蔵も何をしていいか判らず、惑乱して病床の人となった。
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忠治は、利根川工事は終わったと判断した。
家康の関東入府から、30年経っていて、大名同士の戦争はなくなり、人々は農業に集中できるようになり、江戸は多くの人が住むようになった。
そのため、米を作ることよりも、米を運ぶことのほうが重要になった。 つまり、生産よりも流通へと社会の発展が一つ先の段階へ進んだ。
具体的には、水路の整備だった。 江戸で消費する米や常陸のこんにゃく、上野の生糸、下野の石材、行徳(市川)の塩を運ぶためには、ぜひとも必要だった。
忠治は、これからは利水の時代であり、利根川を鹿島灘へ注がせようなどという巨大開発は、もはや人々の支持を得られるはずがないことを知っていた。
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利水工事がほぼ終わったと思われたころ、忠治は、51歳になった寛永19年(1642)、第3代家光時代の幕府の許しを得て、赤堀川を完成させることになる。
これは、利根川東遷という大事業の最後の一手に他ならなかった。 渡良瀬川と合流した後の利根川から落とし堀(人口の支流)をひとすじ東へ掘り進み、7キロほど先の常陸川という自然河川に接続しようというものである。
9年後に忠治が死亡した翌年の1654年、家康の先見の明で、先代・忠次が調査しだして64年経って利根川東遷は完成した。
「第三話 飲み水を引く」のあらすじに続く