下町ロケット・ゴースト
「あらすじ」
「第八章 記憶の構造」
5.(末長との顧問契約解除。島津らは中川と末長の開発情報提供通話を手に入れる)
伊丹と島津は末長の事務所へ出かけ、訴状が着いたことを告げる。
末長は訴状が届いた日を尋ね、「もう少し早く来ていただかないと困ります。第一回の口頭弁論期日はいつなんですか」、そう言って、肝心の訴状を拝見したいと提示されるのを待つ。
催促した末長に、伊丹が返したのはよそよそしい視線であった。そして、
「末長先生。突然ですが顧問契約、今月をもって打ち切らせていただけませんか」そう申し出た。
「どういうことですか、それは」末長は今までの動きがバレたのかと、動揺する。
「検討した結果、ほかの弁護士にお願いすることにしました」と一方的に言って頭を下げた。
末長は顎を突き出し、「誰に頼むんですか、今度は」と問うた。
「神谷修一弁護士です」
伊丹が名を告げたとたん、大物へのくら替えに嫉妬の焔が燃えはじめた。
「大物ならこの裁判が勝てるとでも思ってんですか、あんたたち」
「勝てない裁判ならやらない方がマシ―――そう神谷先生に言われました」
「だったら止めたらいい」カッとして末長は言い放つ。
「どれぐらい前から、末長先生はこうなることをご存じだったのですか」
島津はさらに続けた。「先生は、中川京一ととても仲がいいんですってね。なんで、そうおっしゃらないんですか」
「何言ってるんですか」 核心をつかれ、末長は狼狽した。「親しいわけはないでしょう。下衆の勘ぐりだ、そんなのは」
伊丹と共に立ち上がった島津は改まって末長と対峙するや、
「今までお世話になりました。これは餞別です」
島津はカバンから出した封筒を差し出すと、さっさと辞去していく。
なんて失礼な連中なんだと、力任せにデスクを叩き、封筒の中味を確認した末長は、それを持つ手が震え出すのをどうすることも出来なかった。
手にした記事のコピーから、自分と並んで写真に収まっている中川京一の笑顔が、末長を見上げている。
はっと我に返った末長は、ズボンのポケットに入れていたスマホをとり出し、あたふたとある番号にかけた。
「はいどうも。いかがされましたか」
気取った中川の言葉は、末長とは正反対の余裕を漂わせていて、「買収に応じることになったのかな」と応じる。
「いや、顧問契約を打ち切られた。あんたとの関係がバレた。以前、業界紙で対談しただろ。そのときのコピーを突き付けて帰って行ったよ。大丈夫なんだろうな」
「大丈夫ってなんがです」
「情報提供の件、洩れたりしないだろうな」
「当たり前じゃないですか」 中川もまた苛立ち、思いがけない状況に少なからず衝撃を受けたのがわかる。「しかし、あんな廃刊になった業界誌の記事がなんで―――」
「神谷だよ。神谷修一だ」
末長は叫ぶように言った。「神谷が顧問についたらしい」
「神谷に頼めば負けないと思っているのかな。バカですね」
吐き捨てた中川は、「勝てるものなら勝ってみろ」、喧嘩腰のひと言を投げつける。
「神谷に言え」 すかさず応じた末長は、「とにかく」と続けた。
「私から情報提供した件、絶対に漏れないようお願いしますよ。それと、買収が決まったら、そのときは約束の成功報酬もらうからな」
「心得ています」 再び気取った口調になり、その電話は中川のほうから切られた。
会議のドアにノックがあったのはそのときだ。
「はい」 ぞんざいに答えた末長は、ドアの向こうから秘書が顔を出し、その後ろに島津の姿にぎょっとなった。
「まだ何か」
末長の問いに応えず、島津はずかずかと会議室に入ってくると、さっきまで自分が坐っていた椅子の足元から小さなトートバックを取り上げた。一瞬、バッグにプリントとされたクマが、小馬鹿にしたような顔を末長に向けた。
「忘れものです。もう二度と来ませんから」
言い捨てて消えた島津を、末長はただ唖然として見送るしかなかった。
6.(親子相互の情愛、300年続く農家の絆)
殿村が農作業を終えて自宅に戻ったとき、すでに陽は大きく傾いていた。
縁側にぽつんとひとり父が坐って外を眺めているのを見て、殿村は、「寒くないか」と声をかけた。
四月とはいえ、夕方になると気温は下がって肌寒さを感じるほどだ。
倉庫にトラクターを乗り入れて、何をするでもなく父親の横に坐った。
「疲れたか」
「いい運動になった」
そんな会話を交わしながら、ペットボトルの水を喉に流し込む。
―――体調いいから今年も田圃、やりたいって言っているよ。
母から、父がそんなことを言っていると電話がかかって来たのは、2月頃だったろうか。
「止めた方がいいんじゃないか」
そう言いながら、殿村は台所に立っている妻の咲子をちらりと見た。
昨年父が倒れれてからというもの、咲子は殿村について実家を訪れ、家事や農作業を手伝ってきた。
神保町にある税理士事務所の事務をしている妻からすれば、たまの休みまでこき使われるのだから、たまったものではなかったろう。
そのとき、背中を向けたまま、咲子は殿村のやり取りを聞いていた。
「私から言ってもダメだから、あんたから言ってくれないか」
母に頼まれ、殿村は困ってしまった。受話器を置いた殿村に、ようやく振りむいた妻が言った。
「またやるんだ。がんばるね、お父さん」
―――今年は手伝うけど、もし来年もって言われたら、私、やらないからね。
父が倒れたころの咲子の言葉だった。
「でどうするの」
「止めてくれとと言うしかないだろう―――」
「別にいいじゃないの」、そう咲子は言った。
「でもお前、今年は手伝わないってたよな」
「―――自然を相手にする仕事ってのもありだなって思うの。あなたもそうじゃないの」
鋭い質問であった。たしかに、最初は迷惑だと思っていたが、手伝ううちに、そんなふうに思えてきたのも事実だった。
「いいんじゃない、お父さんの気の済むまでやらして上げれば」
妻は言った。「もし途中で私たちも手伝えなくなってしまったときは、その農業法人の人たちに譲るなどしたらいいでしょ」
縁側には春の穏やかな夕陽が射していた。わたしは水で喉を潤していたが、父は缶ビールを呑んでいる。
「お前がまえに言ってた農業法人の話、考えてみるかな」
父のそんな言葉が耳に入って、殿村は振り返った。「友達の稲本?」
父は黙って頷く。「その話、詳しく聞いてきてくれないか」
「本当にいいのか」
「こんな半病人でできるほど米作りは甘くねえと思ってな。情けないよ」
しわがれた声が続く。「お前や咲子さんにも迷惑をかけっぱなしだ。かといって、ほったらかしにしたらご先祖様に申し訳ない」
「売るくらいなら、貸したほうがまだマシかな。万が一、田圃に出られるようになったら返してもらえるしな」
「もういいさ」
寂しげに父は首を横に振る。「潮時ってやつだ。こういうときは退き際が肝心。覚悟してたことだ」
「本当にいいのか、それで」
「十分にやった」
確かに人間なら誰もが限度を迎える年頃だ。しかし、そうした人間の摂理を親子の絆で守り続けてきたのが、殿村家の三百年だったのではないか。それにピリオドを打ってしまっていいのか―――殿村の胸に葛藤が渦巻いた。
「ひとつ頼みがあるんだけど」
タバコを吸っている父に言った。「米作りのこと、オレに聞かせてくれないか。オヤジの頭の中にしかない知識や経験を教えてくれよ」
殿村が考えいることを覚った父は、「農業はそんな簡単なものじゃないと、その横顔が告げている。「止めとけ。サラリーマンなら安定してるじゃないか」
「安定なんかしてないよ」と殿村は思わず反駁(ばく)した。
「第八章の7」に続く
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