T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

1381話 [ 自分史「―温故知新―」 9/? ] 11/6・月曜(晴)

2017-11-06 14:05:11 | 日記・エッセイ・コラム

                                        

4. 四国電気通信局時代

(3)「営業部調査員の仕事」

 特別営業係長を3年担務した後、現場の課長へ異動するものと思っていたところ、昭和44年(1969)2月、同じ営業部に新しくできたデータ通信システム担当の調査員に任命された。

 この時期は、通信線の端末にデータ入出力設備があって中央に電気計算機が組み込まれたデータ通信網が世の中に出てきた時代で、代表的なものとして全国地方銀行協会の地方銀行為替交換システムが出来上がった時代である。

 本社ではデータ通信という言葉が一般化され、それらの設備を設営する業務を担当する組織がつくられつつあった。

 私が専用線担当の係長をしていたこと、それに37歳と年が若かったことから適任者となったのだろう。

 私の仕事は外部的には四国内の企業、特に地方銀行、相互銀行、信用金庫の金融機関を訪問し、データ通信に対する意向(将来に向けてのバンキングシステム構築についての計画)を調査し、需要動向をまとめる仕事をしていた。内部的にはデータ通信の基礎知識をまとめた資料を作成して配布するなどして知識の普及に努めた。また、本社のデータ通信営業部門との連絡を取ることもわたしの仕事で、設備の見学を含めて、度々東京に出張した。

 そのため、私は独学で電算機とデータ通信の基礎ついて勉強した。

 そのほか、この期間は部下もおらず、時間外は自由だったので、先輩の誘いで、半年ほど夜間に微積分を利用した経営数学の教室に通ったこともあった。これは私の能力の無さから長続きはしなかった。

 調査員の担務は1年間で、本社のデータ通信本部へ転勤することになった。

 通信局での勤務は、現場でのそれと同じ、計6年間であったが、その大部分を、私が早くから希望していた営業の管理業務を楽しく勤めることができた。

 電報局に勤めていた25歳ころ、高等部は何回も不合格になるし、望んでいた現場管理機関にも転勤できずに、私は自信を失っていた時期であった。

 そんなあるとき、昼の休み時間に、占い師が私の手相を見て、「貴方は30歳代から大きい素晴らしい運が向いてくる」と告げられた。そのときは、遊びの占いだと馬鹿にしていた。

 しかし、本社への辞令が出た時は、ほんとに、占いも当たるときがあるのだと吃驚した。

 31歳のときに、先輩に先んじて現場の係長になる。32歳ののときに、管理者任用試験に合格して通信局の係長(管理者)になる。38歳のときに本社の主任データ通信員(調査員相当)になる。といったように次々に昇進し、本社で勤務できるようになった。私にとっては、まさに夢のようなものだった。

 本社勤務は通信局での苦労の何倍にも及んだが、今もその苦労は大きな記憶として残っている。12年間に及んだ本社での勤務については事項に記述する。

     「5. 本社時代」に続く

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