blog Donbiki-Style

筆者:どんびき(地域によりカエルの意)

チャレンジね~。

2015-07-23 21:01:04 | 日記
今年もすでに半分が過ぎ、いろいろな新語や流行語が誕生しています。
年末にかけてはまたそんな話題も多くなると思いますが、ごく最近は、新語ではありませんがイヤ~な言葉も登場しました。
粉飾決算(と言い切っていい)で揺れる東芝問題での「チャレンジ」です。
本来の意味からはかけ離れ、通常の企業活動では成し得ない利益計上を強要することがチャレンジだというなら、東芝内部ではずいぶんおぞましい意味合いを帯びていた言葉ということになります。
高い目標を経営が掲げることは悪いことではありませんが、100mを15秒で走る人にいきなり12秒でと言っても無理でしょう。
無理な要求を重ねて現場が疲れ果ててしまったら、ラクなほう(不正)に流れることが分からなかったとは思えません。

東芝とはまったく話は変わって、最近はスポーツの世界でも「チャレンジ」という言葉が使われだしました。
これもまた本来の意味合いとは違って、これまで人間が行ってきた判定に対する異議申し立てのことを言います。
大相撲のように行司の軍配に対して審判委員から「物言い」がつくのはチャレンジではありません。
土俵下にいる審判委員は勝負の当事者ではありません。
最近出てきたチャレンジは、監督なり選手なりの「勝負の当事者」からの直接の異議申し立てができるようになってきたことを指します。
競技によってマチマチですが、一試合の間に何回かチャレンジの機会が与えられていて、ビデオ判定等を経て人間の判定が覆ればチャレンジ成功、そのままなら失敗ということです。
選手同様、厳しい訓練を経て競争にも勝ち抜いて大きな舞台に立つことができる審判ですが、うまくやって当たり前、間違えば時には世界中から非難されます。
その上にチャレンジと来れば、この先々、審判のなり手がいなくならないかと心配です。
時代の流れと言われればそれまでとはいえ、審判の権威を保つためにもチャレンジの対象は可能な限り少なくあるべきとは思います。

チャレンジの日本語訳は「挑戦」であることは誰でも知っています。
本来、挑戦というのは長い長い時間がかかり、その先に達成という喜びがあるのかないのかも分からないがなお継続されるもの、くらいのイメージを持っていましたが、最近はやや意味合いが変わってきたようです。
東芝のチャレンジも、スポーツ界でのチャレンジも、目先の有利不利にこだわっている点では共通しています。
想定外の使い方をされ、言葉自体が気分を悪くしていないか聞いてみたい気もします。