『生き抜くためのドストエフスキー入門』で汎悪霊論が触れられている直後に,チホンとスタヴローギンの信仰に対する考え方の比較が考察されています。
チホンとの対話の中でスタヴローギンが,チホンに神を信じているかと尋ねます。もちろんチホンは信じていると答えます。するとスタヴローギンは,山に向かって動けといえば山を動かすことができるかと尋ねます。山に動けといえば動くのが信仰の証のようなものであって,チホンもそこには同調しています。ただしチホンは,神の言いつけであれば山は動くという主旨の返答をします。これはスタヴローギンを納得させるものではありませんでした。それだと山を動かすのは神であって,チホンではないように思えたからです。そこでスタヴローギンは重ねて,チホン自身が山を動かせるのかと尋ねます。するとチホンは動かせないかもしれないと答えます。自身が山を動かせると自信をもっていえないことについては,チホン自身の信仰が不十分だからだとしています。
この答えにスタヴローギンは驚きます。チホンほどの人でも信仰が不十分であるということに,スタヴローギンは率直に驚いたのです。
信仰のゆえに山を動かせるのかという質問したとき,スタヴローギンはばかげたことを聞いて申し訳ないという意味のことを言っています。しかし実際には,信仰心の中に含まれているエネルギーを集中させれば山を動かすことができるということについては,チホンよりもスタヴローギンの方が信じているのです。だからチホンは山を動かせないことについて自分の信仰心を理由にしたのですし,その答えにスタヴローギンは驚いたのです。
チホンはキリスト教の熱心な信仰者であって,スタヴローギンは無神論者です。そしてそれは,信仰心がもっている力をスタヴローギンの方がチホンよりも過大に評価しているがゆえなのかもしれません。スタヴローギンは信仰の力をあまりに大きく評価しているがために,神を信じることができなくなり,無神論者になってしまったという解釈も可能でしょう。
ここまでの事情からすると,キュラソー島に移住したレベッカが,自分はエステルの娘であると自称したら,キュラソー島でレベッカと共にユダヤ人共同体を構成していた人びとは,レベッカがいうことを信じるほかなかった可能性があります。レベッカの詳しい出自を知っている人が,そこにはいなかった可能性があるからです。また,レベッカが仮にそう自称していたとして,なぜそのような嘘をレベッカがつかなければならなかったのかということは問題として残るでしょうが,何らかの事情のために人が自分の年齢を若く偽るということは,絶対にあり得ないということではないのであって,レベッカはそのようなことをいう筈がないと断定することができるというものではないでしょう。
ナドラーSteven Nadlerがいっている通り,また吉田がそれに従っている通り,キュラソー島に住んでいた人びとがレベッカはエステルの子どもであると思っていたのは間違いありません。しかしキュラソー島に住んでいた人びとがそのような印象をレベッカに対して抱いた原因が,レベッカ自身にあったのだとすれば,そのことをもってレベッカはスピノザの妹であったといえるわけではありません。レベッカが自分はエステルの娘であると自称するのであれば,エステルがスピノザの姉であろうと妹であろうと,同じだけの可能性があるからです。なので,吉田が積極的理由といっているものが,絶対的なものとなるとは僕は思わないです。もちろんそれは,レベッカがスピノザの妹であったということを否定するものではありません。単にスピノザの妹であったということの大きな理由を構成することはできないのではないかということです。いい換えれば吉田が提出している積極的理由は,定説を覆すほどのものとなっていないのではないかと僕は思います。
なのでレベッカがスピノザの姉であったのか妹であったのかということについては,僕はここでは結論を出しません。イサークがスピノザの兄でガブリエルは弟であったこと,そしてミリアムMiryam de Spinozaがスピノザの姉だったことは間違いありません。レベッカは定説ではスピノザの姉とされていますが,吉田のいう通り,妹だったかもしれません。
チホンとの対話の中でスタヴローギンが,チホンに神を信じているかと尋ねます。もちろんチホンは信じていると答えます。するとスタヴローギンは,山に向かって動けといえば山を動かすことができるかと尋ねます。山に動けといえば動くのが信仰の証のようなものであって,チホンもそこには同調しています。ただしチホンは,神の言いつけであれば山は動くという主旨の返答をします。これはスタヴローギンを納得させるものではありませんでした。それだと山を動かすのは神であって,チホンではないように思えたからです。そこでスタヴローギンは重ねて,チホン自身が山を動かせるのかと尋ねます。するとチホンは動かせないかもしれないと答えます。自身が山を動かせると自信をもっていえないことについては,チホン自身の信仰が不十分だからだとしています。
この答えにスタヴローギンは驚きます。チホンほどの人でも信仰が不十分であるということに,スタヴローギンは率直に驚いたのです。
信仰のゆえに山を動かせるのかという質問したとき,スタヴローギンはばかげたことを聞いて申し訳ないという意味のことを言っています。しかし実際には,信仰心の中に含まれているエネルギーを集中させれば山を動かすことができるということについては,チホンよりもスタヴローギンの方が信じているのです。だからチホンは山を動かせないことについて自分の信仰心を理由にしたのですし,その答えにスタヴローギンは驚いたのです。
チホンはキリスト教の熱心な信仰者であって,スタヴローギンは無神論者です。そしてそれは,信仰心がもっている力をスタヴローギンの方がチホンよりも過大に評価しているがゆえなのかもしれません。スタヴローギンは信仰の力をあまりに大きく評価しているがために,神を信じることができなくなり,無神論者になってしまったという解釈も可能でしょう。
ここまでの事情からすると,キュラソー島に移住したレベッカが,自分はエステルの娘であると自称したら,キュラソー島でレベッカと共にユダヤ人共同体を構成していた人びとは,レベッカがいうことを信じるほかなかった可能性があります。レベッカの詳しい出自を知っている人が,そこにはいなかった可能性があるからです。また,レベッカが仮にそう自称していたとして,なぜそのような嘘をレベッカがつかなければならなかったのかということは問題として残るでしょうが,何らかの事情のために人が自分の年齢を若く偽るということは,絶対にあり得ないということではないのであって,レベッカはそのようなことをいう筈がないと断定することができるというものではないでしょう。
ナドラーSteven Nadlerがいっている通り,また吉田がそれに従っている通り,キュラソー島に住んでいた人びとがレベッカはエステルの子どもであると思っていたのは間違いありません。しかしキュラソー島に住んでいた人びとがそのような印象をレベッカに対して抱いた原因が,レベッカ自身にあったのだとすれば,そのことをもってレベッカはスピノザの妹であったといえるわけではありません。レベッカが自分はエステルの娘であると自称するのであれば,エステルがスピノザの姉であろうと妹であろうと,同じだけの可能性があるからです。なので,吉田が積極的理由といっているものが,絶対的なものとなるとは僕は思わないです。もちろんそれは,レベッカがスピノザの妹であったということを否定するものではありません。単にスピノザの妹であったということの大きな理由を構成することはできないのではないかということです。いい換えれば吉田が提出している積極的理由は,定説を覆すほどのものとなっていないのではないかと僕は思います。
なのでレベッカがスピノザの姉であったのか妹であったのかということについては,僕はここでは結論を出しません。イサークがスピノザの兄でガブリエルは弟であったこと,そしてミリアムMiryam de Spinozaがスピノザの姉だったことは間違いありません。レベッカは定説ではスピノザの姉とされていますが,吉田のいう通り,妹だったかもしれません。