スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

丸藤正道&2023年11月の通院

2024-08-12 18:58:35 | NOAH
 KENTAはパートナーとしても対戦相手としても,丸藤正道と名勝負を数多く戦っています。丸藤について改めて詳しく紹介しておきましょう。
 丸藤は全日本プロレスでデビューした選手。1998年8月のことで,相手は金丸義信でした。馬場は翌年の1月に死んでいますので,馬場が生きていたときに全日本プロレスでデビューした最後の選手です。入門はこの年の3月,高校を卒業した時点でしたので,短期間でのデビュー。これは高校時代にアマレスの経験があったことが関係していて,三沢光晴と似通っています。その後,三沢の付き人になりました。
 2000年7月のNOAHの旗揚げで移籍。初の戴冠は2001年の12月で,GHCジュニアヘビー級の王座でした。ところが翌年に左膝の靭帯を負傷して欠場。このあたりの経歴も三沢によく似ています。
 2003年に三沢の付き人を卒業。同時にKENTAと組むようになりました。7月にKENTAとのタッグで新設されたGHCジュニアタッグの初代王者に。この翌年には秋山準に勝ち,GHCのハードコアクラウンの王者にもなっています。このタイトルはその後に封印されましたが,最近になってマンデーマジックのタイトルとして復活しました。
 無差別級の真の意味での初戴冠といえるのは2005年の6月で,これはGHCタッグ。パートナーは鈴木みのるでした。翌年の1月にKENTAに挑んだGHCジュニアヘビー級選手権で負けたのを最後に,ジュニアヘビー級の試合からは離脱。9月に秋山を破ってGHCヘビー級の王者に。この後,この年のプロレス大賞のベストバウトに選出されたKENTAとの防衛戦は勝ちましたが,2月に師匠にあたる三沢に敗れて失冠しました。
 丸藤はこの頃から現在まで,杉浦貴と共にNOAHの中心選手として戦い続け,他団体も含めて数々のタイトルを手中にしています。海外での評価もとても高い選手で,日本プロレス界全体の中でもその時代を代表する選手のひとりといえるでしょう。

 11月17日,金曜日。妹の歯科検診でした。右上に歯周病が発生するおそれがあると告げられました。
 11月19日,日曜日。妹をグループホームに送りました。
 11月20日,月曜日。妹の受給者証の申請書を区役所に送付しました。16日にコピーした妹のグループホームの家賃は,この申請書に必要な書類のひとつでした。
 午後は内分泌化の通院でした。
 病院に到着したのは午後2時25分でした。中央検査室では採血を待っている患者がいませんでしたので,すぐに採血をして,採尿をしてから注射針の処理をしました。
 診察が開始となったのは午後3時5分でした。HbA1cは7.5%でした。10月よりも上昇していたのはこの間の血糖値の平均値が高くなっていたからです。何度もいっているように,これはおそらく気候の変化の影響だったと思います。ただこの時点では対処しなければならないほどの高血糖はみられませんでした。ですからインスリンの注射量は変更せず,そのまま様子を見るということになりました。
 この日はこれ以外に,アルブミンの数値が3.8g/㎗と,下限値の4.1g/㎗を下回るという異常が検出されていました。この異常は9月の通院のとき以来のことでした。
                     
 帰りに薬局に寄って処方されたインスリンと注射針を持ち帰らなければならなかったのですが,10月の通院のときにいっておいたように,それまで処方されていた薬局が閉店,正確には移転のために,新しい薬局を利用しなければなりませんでした。新しい薬局を決めるにあたって僕にとって最も重要なのは立地です。みなと赤十字病院の周囲にはいくつかの薬局があるのですが,そこは僕には候補には入りませんでした。というのは,もしも処方された分の薬剤の在庫がないために,後に取りにいかなければならないというケースが生じ得るのですが,その場合にはみなと赤十字病院の近くまで取りに行くというのは大変だからです。したがって,薬局は僕の家の近くか,僕の日常生活の圏内にあるということが僕にとっては最も重要で,これまで根岸駅の近くの薬局を利用していたのはそうした理由からでした。なので今回も同様にしたいと思っていました。
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