ジュニアヘビー級の時代に金丸義信とタッグを組んでいた杉浦貴は,丸藤正道とともにNOAHを代表する選手のひとりです。
杉浦は入門は全日本プロレスだったのですが,まだ練習生のうちにNOAHの旗揚げがあったため,そのまま移籍。2000年の暮れにNOAHでデビューしました。杉浦は高校卒業後に自衛隊の体育学校に入学。アマレスでオリンピック出場を目指した上で全日本プロレスに入門していますので,そのときすでに29歳でした。なのでプロレスラーとしては高校卒業後にすぐに入門した丸藤が先輩ですが,年齢は杉浦の方が上です。ふたりは互いを丸藤さん,杉浦さんとさん付けで基本的に呼び合いますが,それはこの事情によります。
田上明の付き人でしたが,高山善廣に目を掛けられ,総合格闘技にも参戦しました。デビューしたときは無差別級で戦っていたのですが,その後に体重を落としてジュニアヘビー級でも戦うようになったという変わり種で,2003年にGHCジュニアヘビー級の王座を獲得したのが最初の戴冠。金丸と組むようになったのはこれより後で,2005年にこのチームでGHCジュニアタッグのタイトルを獲得しています。
ジュニアヘビー級での戦いに区切りをつけたのは2006年。2007年に丸藤と組んでGHCタッグの王者に就いたのが無差別級での初戴冠となりました。GHCヘビー級の王者を初めて獲得したのは2009年の12月。相手は潮崎豪でした。この年はプロレス大賞の殊勲賞を獲得しています。そして翌2010年は年間にわたってこのタイトルを防衛し続け,プロレス大賞のMVPを獲得しています。結果的に2011年7月に潮崎に敗れるまで防衛を続けました。この間に14回の防衛を果たしていて,これは現在でもGHCヘビー級王座の最大防衛回数となっています。
鈴木軍がNOAHで仕事をしている間にそちらのチームに加入していた時期はありますが,それを除けばずっとNOAH内のグループの主力として戦い続け,現在も丸藤とともにGHCタッグの王者に君臨しています。大きな怪我なくプロレスを続けているように,頑健な身体が支えているのだと思います。
僕は『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』は,かなり信用に足りるスピノザの伝記だと思っています。その理由のひとつが,著者であるナドラーSteven Nadlerの記述にあります。ナドラーは史実として確定させられる出来事に関しては断定的に記述するのですが,そうでない出来事に関しては断定的な記述はしません。とくにいくつかの説が考えられる場合は,それらの説をすべて記述します。もちろんナドラーにはナドラーの考え方はあるのですが,自説を強調するようなことはしません。たとえばナドラーは,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の草稿を見せたと考えているのですが,伝記の中ではその自説に固執するわけではなく,ライプニッツはスピノザと面会するまで『エチカ』の内容をほとんど知らなかった可能性にも言及しています。
しかし吉田の研究をみると,ナドラーが断定的に記述している事柄の中にも,まだ史実として疑い得る事柄が含まれているということが分かります。このことは僕にとって収穫のひとつでした。だからといって『ある哲学者の人生』の信頼性が僕の中で揺らぐというわけではないのですが,ナドラーが断定的に記述している事柄であっても,そのまま信頼するのではなく,ほかの資料にもあたって確認する必要があるとはいえるでしょうし,スピノザの伝記の中で史実として書かれている事柄の中に,今後の研究の成果によって書き換えられることもあり得るということは銘記しておかなければならないのだと思います。
吉田の論考に関してはこれだけですが,ことのついでですからここでコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにおいて,スピノザの死後の出来事として記述されていることをもう少し詳しく調べておくことにします。その中にはいくらかの疑問が残るところがあるからです。ただしこれは,あくまでも調査するということなのであって,史実に関して何らかの結論を求めようとするものではありません。というか,実際に歴史的にあった出来事が何であったのかということを確定させるのは無理だともいえます。ですから,ここでの中心は,コレルスの伝記の該当部分に書かれている事柄の中に,どのような疑問を発見することができるのかということになります。
杉浦は入門は全日本プロレスだったのですが,まだ練習生のうちにNOAHの旗揚げがあったため,そのまま移籍。2000年の暮れにNOAHでデビューしました。杉浦は高校卒業後に自衛隊の体育学校に入学。アマレスでオリンピック出場を目指した上で全日本プロレスに入門していますので,そのときすでに29歳でした。なのでプロレスラーとしては高校卒業後にすぐに入門した丸藤が先輩ですが,年齢は杉浦の方が上です。ふたりは互いを丸藤さん,杉浦さんとさん付けで基本的に呼び合いますが,それはこの事情によります。
田上明の付き人でしたが,高山善廣に目を掛けられ,総合格闘技にも参戦しました。デビューしたときは無差別級で戦っていたのですが,その後に体重を落としてジュニアヘビー級でも戦うようになったという変わり種で,2003年にGHCジュニアヘビー級の王座を獲得したのが最初の戴冠。金丸と組むようになったのはこれより後で,2005年にこのチームでGHCジュニアタッグのタイトルを獲得しています。
ジュニアヘビー級での戦いに区切りをつけたのは2006年。2007年に丸藤と組んでGHCタッグの王者に就いたのが無差別級での初戴冠となりました。GHCヘビー級の王者を初めて獲得したのは2009年の12月。相手は潮崎豪でした。この年はプロレス大賞の殊勲賞を獲得しています。そして翌2010年は年間にわたってこのタイトルを防衛し続け,プロレス大賞のMVPを獲得しています。結果的に2011年7月に潮崎に敗れるまで防衛を続けました。この間に14回の防衛を果たしていて,これは現在でもGHCヘビー級王座の最大防衛回数となっています。
鈴木軍がNOAHで仕事をしている間にそちらのチームに加入していた時期はありますが,それを除けばずっとNOAH内のグループの主力として戦い続け,現在も丸藤とともにGHCタッグの王者に君臨しています。大きな怪我なくプロレスを続けているように,頑健な身体が支えているのだと思います。
僕は『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』は,かなり信用に足りるスピノザの伝記だと思っています。その理由のひとつが,著者であるナドラーSteven Nadlerの記述にあります。ナドラーは史実として確定させられる出来事に関しては断定的に記述するのですが,そうでない出来事に関しては断定的な記述はしません。とくにいくつかの説が考えられる場合は,それらの説をすべて記述します。もちろんナドラーにはナドラーの考え方はあるのですが,自説を強調するようなことはしません。たとえばナドラーは,チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに『エチカ』の草稿を見せたと考えているのですが,伝記の中ではその自説に固執するわけではなく,ライプニッツはスピノザと面会するまで『エチカ』の内容をほとんど知らなかった可能性にも言及しています。
しかし吉田の研究をみると,ナドラーが断定的に記述している事柄の中にも,まだ史実として疑い得る事柄が含まれているということが分かります。このことは僕にとって収穫のひとつでした。だからといって『ある哲学者の人生』の信頼性が僕の中で揺らぐというわけではないのですが,ナドラーが断定的に記述している事柄であっても,そのまま信頼するのではなく,ほかの資料にもあたって確認する必要があるとはいえるでしょうし,スピノザの伝記の中で史実として書かれている事柄の中に,今後の研究の成果によって書き換えられることもあり得るということは銘記しておかなければならないのだと思います。
吉田の論考に関してはこれだけですが,ことのついでですからここでコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにおいて,スピノザの死後の出来事として記述されていることをもう少し詳しく調べておくことにします。その中にはいくらかの疑問が残るところがあるからです。ただしこれは,あくまでも調査するということなのであって,史実に関して何らかの結論を求めようとするものではありません。というか,実際に歴史的にあった出来事が何であったのかということを確定させるのは無理だともいえます。ですから,ここでの中心は,コレルスの伝記の該当部分に書かれている事柄の中に,どのような疑問を発見することができるのかということになります。