スピノザの哲学では,努力と能動は直接的に結びつくわけではありません。努力conatusはコナトゥスconatusを意味するので,現実的に存在する人間は能動的であろうと受動的であろうと常に努力をしているといえるからです。ただフロムErich Seligmann Frommが『人間における自由Man for Himself』の中で,こうした人間の働きと目標は,人間以外のあらゆる事物と異なるものではないというとき,これは完全に正しいといわなければなりません。フロムは人間の働きactioと目標を第三部定理六に訴えて規定していますが,この定理Propositioは現実的に存在する人間にだけ適用されるわけではなく,現実的に存在するすべての個物res singularisに適用されるからです。
この後でフロムは第四部定理二四を援用し,スピノザが到達した徳virtusの概念notioは,一般的規範を人間に対して適用したものであるといっています。実際にはこの定理は,単に自己の利益suum utilisを求める原理に基づいて自己の有esseを維持するということを,理性ratioの導きに従ってなすという点が重要ではあるのですが,コナトゥスを原理としていることは間違いないのであって,確かにスピノザは人間の徳というのを規定するときに,一般的な規範を人間に対して適用しているといえるでしょう。いい換えればこれが人間の徳であれば,現実的に存在するすべての個物にとって,このことは徳であることになるでしょう。
さらにフロムは,人間がその現実的存在を維持するということは,人間が可能性としてもっている姿になるということであるとスピノザはいっているといっています。僕はこの点についてはいくらかの補足が必要だと思います。
まずフロムは,このこともまた人間にだけ適用されるのではなくて,現実的に存在するすべての個物に適用されるといっています。これは正しい解釈です。馬が人間になるということは,たとえば馬が昆虫になるというのと同じ意味において,馬にとっての完全性perfectioの喪失を意味します。いい換えれば馬が人間になるのであれば,それは馬にとっての悪malumです。馬が現実的存在を維持するというのは,馬が人間や昆虫になることを意味するのではなく,馬が馬としての現実的存在を維持することです。このことが人間にも妥当するのであって,たとえば人間が神Deusになってしまうなら,それは人間にとっての完全性の喪失であり,悪なのです。
これは『国家論Tractatus Politicus』を巡る考察です。
スピノザは『国家論』の第二章の第六節の冒頭で,多くの人びとは,愚者は自然の秩序ordo naturaeに従うのではなく自然の秩序を乱すのであって,自然における人間は国家の中の国家imperium in imperioのようなものと考えているという意味のこといっています。
この部分を理解する前提として理解しておかなければならないのは,スピノザは国家というものを,ひとつの有機体であるかのように考えているということです。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においてもみられる図式ですが,『国家論』では顕著にみられる図式であるといえます。つまり国家をひとつの身体corpusと喩え,それがひとつの精神mensによって導かれていくかのように国家論を展開していくのです。もう少し具体的にいうと,国家というものを複数の個物res singularisによって構成されるひとつの個物とみなし,かつその個物がひとつの生物であるかのようにみて論述を展開していくのです。ではそれがどのような生物としてみられるかということを國分は探求しています。たとえば身体と精神が合一した人間のようなものとして,国家をみるべきかというのが具体的な問いで,それを解明する鍵として,『国家論』の第二部第六節の冒頭を示しているのです。
この部分は一読すると,現実的に存在する人間を,国家と同様に理性的であるとみなす謬見を糾そうとしているように解せます。国家というのは理性的であるけれど,人間は理性的であるわけではないのだから,人間というのを国家の中の国家であると考えてはいけないと主張しているようにみえるからです。しかしこの解釈は,この部分は確かにそのように解釈することができるというだけなのであって,『国家論』の全体からみると,適切といえない解釈になります。むしろスピノザが糾そうとした謬見というものがあったとすれば,それは別のものであったと國分は指摘しています。それはそもそも,人間を国家のようなものとして喩えること自体を批判しているというのが國分の見解opinioです。あるいは同じことになりますが,国家の中にあるもの,つまり国家の中の人間が,その外枠である国家と同じような仕方で存在していると考えることを批判しているのです。
この後でフロムは第四部定理二四を援用し,スピノザが到達した徳virtusの概念notioは,一般的規範を人間に対して適用したものであるといっています。実際にはこの定理は,単に自己の利益suum utilisを求める原理に基づいて自己の有esseを維持するということを,理性ratioの導きに従ってなすという点が重要ではあるのですが,コナトゥスを原理としていることは間違いないのであって,確かにスピノザは人間の徳というのを規定するときに,一般的な規範を人間に対して適用しているといえるでしょう。いい換えればこれが人間の徳であれば,現実的に存在するすべての個物にとって,このことは徳であることになるでしょう。
さらにフロムは,人間がその現実的存在を維持するということは,人間が可能性としてもっている姿になるということであるとスピノザはいっているといっています。僕はこの点についてはいくらかの補足が必要だと思います。
まずフロムは,このこともまた人間にだけ適用されるのではなくて,現実的に存在するすべての個物に適用されるといっています。これは正しい解釈です。馬が人間になるということは,たとえば馬が昆虫になるというのと同じ意味において,馬にとっての完全性perfectioの喪失を意味します。いい換えれば馬が人間になるのであれば,それは馬にとっての悪malumです。馬が現実的存在を維持するというのは,馬が人間や昆虫になることを意味するのではなく,馬が馬としての現実的存在を維持することです。このことが人間にも妥当するのであって,たとえば人間が神Deusになってしまうなら,それは人間にとっての完全性の喪失であり,悪なのです。
これは『国家論Tractatus Politicus』を巡る考察です。
スピノザは『国家論』の第二章の第六節の冒頭で,多くの人びとは,愚者は自然の秩序ordo naturaeに従うのではなく自然の秩序を乱すのであって,自然における人間は国家の中の国家imperium in imperioのようなものと考えているという意味のこといっています。
この部分を理解する前提として理解しておかなければならないのは,スピノザは国家というものを,ひとつの有機体であるかのように考えているということです。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』においてもみられる図式ですが,『国家論』では顕著にみられる図式であるといえます。つまり国家をひとつの身体corpusと喩え,それがひとつの精神mensによって導かれていくかのように国家論を展開していくのです。もう少し具体的にいうと,国家というものを複数の個物res singularisによって構成されるひとつの個物とみなし,かつその個物がひとつの生物であるかのようにみて論述を展開していくのです。ではそれがどのような生物としてみられるかということを國分は探求しています。たとえば身体と精神が合一した人間のようなものとして,国家をみるべきかというのが具体的な問いで,それを解明する鍵として,『国家論』の第二部第六節の冒頭を示しているのです。
この部分は一読すると,現実的に存在する人間を,国家と同様に理性的であるとみなす謬見を糾そうとしているように解せます。国家というのは理性的であるけれど,人間は理性的であるわけではないのだから,人間というのを国家の中の国家であると考えてはいけないと主張しているようにみえるからです。しかしこの解釈は,この部分は確かにそのように解釈することができるというだけなのであって,『国家論』の全体からみると,適切といえない解釈になります。むしろスピノザが糾そうとした謬見というものがあったとすれば,それは別のものであったと國分は指摘しています。それはそもそも,人間を国家のようなものとして喩えること自体を批判しているというのが國分の見解opinioです。あるいは同じことになりますが,国家の中にあるもの,つまり国家の中の人間が,その外枠である国家と同じような仕方で存在していると考えることを批判しているのです。