スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡六&貧血

2024-08-10 18:57:19 | 哲学
 書簡十一は書簡六への返信でした。これは1662年4月にレインスブルフRijnsburgのスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに宛てられたもので,遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。ただこれは原書簡がロンドンの王立協会に残っていて,それは遺稿集に掲載されたものといくらかの相違があるとのことです。遺稿集に掲載されたものはスピノザが書き残しておいたもので,当然ながら遺稿集の編集者たちはそちらを利用しましたから,それが遺稿集に掲載される運びとなりました。オルデンブルクに宛てたものは,書簡の最後にスピノザの自伝的なものが数節含まれていて,それはスピノザが保管していたものには省略されていたので,その部分は遺稿集には掲載されていません。他面からいえば,スピノザは将来的に書簡を公開するつもりで保管しておいたのですから,その部分は公開の必要はないとスピノザが考えていたということの証明といえるでしょう。
                         
 オルデンブルクとスピノザがレインスブルフで会見したのはこの前年のことで,おそらくこの書簡が書かれるまでは1年が経っていません。その間にオルデンブルクとスピノザの間には文通があったのですが,その中でオルデンブルクがロバート・ボイルRobert Boyleの著書を送りました。同時にオルデンブルクはその本に対する講評を求めました。書簡六の内容はすべて講評に充てられています。硝石並びに,物体の流動性と固定性に関するロバート・ボイルの著書への批評を含む,というのがこの書簡のタイトルで,実際に原書簡はスピノザの自伝的なものも含まれていたのでそういう題名になっているのでしょうが,遺稿集に掲載されている部分,したがって『スピノザ往復書簡集Epistolae』に掲載されている部分は,そのすべてがロバート・ボイルの著書への批評になっています。
 批評といってもその中でスピノザはいくつかの疑問点をあげ,その疑問をオルデンブルクにぶつけています。もちろんオルデンブルクにぶつけるというのは,オルデンブルクを介してロバート・ボイルにぶつけるという意味です。書簡十一は,投げ掛けられたその疑問に対するロバート・ボイルからの解答ということになります。

 帰途に薬局に寄って帰りました。この日は注射針の在庫が足りませんでした。配達を依頼して帰りました。また,この薬局が10月一杯で閉店すると知らされました。厳密にいうと閉店ではなく移転だったのですが,移転先が屛風浦駅の近くでしたので,僕がそこで薬を処方されるには不便でした。なので僕がこの薬局でインスリンと注射針を処方されたのは,この日が最後になりました。11月からは別の薬局を利用しています。その薬局については11月の通院のときに詳しく説明します。帰宅したのは午後4時でした。
 10月26日,木曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。インフルエンザの予防接種の申込書が事前に郵送されていましたので,記入したものを妹の通所施設の担当者に渡しました。
 10月27日,金曜日。午前中にО眼科に行き,妹の目薬を処方してもらいました。いつもは妹を迎えに行った後,そのままО眼科に行くのですが,О眼科は木曜日は休診なので前日には行くことができず,この日に行ったものです。午後は本牧脳神経外科の通院でした。前回の通院のときに採血をしたのですが,貧血が進行しているとの指摘を受けました。妹は以前にも貧血の症状があり,鉄剤の処方を受けていました。ただ鉄剤は便を固くするので,みはりいぼ痔にはよくありません。このため,貧血の症状が一定程度まで改善した時点で,鉄剤の服用を中止したという経緯がありました。本牧脳神経外科の主治医はこうした経緯は知りませんでしたので,僕の方から伝えました。数値が悪化していたとはいえ,すぐに鉄剤を服用しなければないほどではないので,現状はこのままでいいだろうととのことでした。なお,後にさらに貧血を示す数値が悪化したら,鉄剤は本牧脳神経外科でも処方できるとのことでしたので,いずれは処方してもらうことになるかもしれません。
 10月29日,日曜日。この日の朝に注射針が配達されていました。注射針であれインスリンであれ,配達は薬剤師がその日の仕事が終わった後,つまり薬局の閉店後に行うものですので,実際に配達されたのは前日の夜だったのだと思います。午後は妹をグループホームに送りました。
コメント
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