スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

思惑の一致&特殊な形態

2014-06-14 19:17:13 | NOAH
 馬場と木村はタッグを結成してすぐに仲間割れしました。ラッシャー・木村の立場からすればそれは自然で,国際血盟軍を結成して馬場と対峙する方が,自身のプライドも守ることができたものと思います。でもこの仲間割れは,馬場にとっても渡りに舟のような出来事だったと僕は思っています。ある意味では,双方の思惑が一致した上で,仲間割れが生じたと解釈するのが妥当だと思います。
 この当時の馬場はPWF王者ではありました。超獣はこの直後に新日本に移籍してしまうこともあり,実質的にライバルであったのは不沈艦。ただ,全体の状況として,ジャパンプロレスとの対抗戦時代に突入することが目に見えていて,リング上の主力はそちらに移行することが分かっていました。つまり主役を務めるにはそこに参戦する必要がありましたが,たぶん馬場にはその気はなかったものと思われます。また,PWFの方も,ハンセンを相手にいつまでも防衛を続けるほどの力がすでに自分にはないということも,40代半ばを超えた馬場自身が心得ていたのではないかと思います。つまり全日本プロレス所属の選手としては,主役は鶴田や天龍に本格的に移行させる必要があり,しかし同時に馬場自身も何らかの形でリング上での仕事を続ける必要はあり,客観的にいえば非常に難しい状況に置かれていたといえると思います。そういう状況に立たされた馬場にとって,木村というのは,まことに適したライバルになり得る存在でした。戦いが全日本の中心軸を形成することはなくても,自分のリング上での役回りはきちんとこなせる相手,そういう相手が,このときの馬場にとって木村であったように思います。
 想像ですが,馬場は自身のパートナーとして木村を用意したとき,すでに仲間割れしてライバルとして戦っていくことまで視野に入れていたのではないかと思います。そしてそれが実現することにより,馬場は自身の立場を失うことなく,スムーズに鶴田と天龍の時代へと全日本プロレスを移行させました。この移行に際して,木村の役回りは,小さなものではなかったと僕は思っています。

 これら多くのテクストが示しているのは,永遠の相と持続の相は,数的に区別し得ない相であるということだと僕は結論します。確かに相としていうならば,持続の相というのは現実的に存在します。しかしそれは,語句としていうなら永遠の相と対義語的関係を構築するような相として実在するのではありません。むしろ永遠の相というのがなければあることも考えることもできないような相として実在します。解釈としては不適切であるかもしれませんが,持続の相というのは,永遠の相の特殊な形態であると理解する方が,まだ正確にスピノザがいわんとするところを捕えているように僕には思えます。ただこのことは,僕が有限であるということと無限であるということの関係をどのように考えるのかということと,同じ仕方で説明されます。これに関しては後で説明しますので,ここでは重複を避ける意味で,結論だけを示しておくことにします。
 永遠の相と持続の相が数的に区別不可能であるなら,当然のことながら因果性をこれらの相において数的に区別するということはできません。したがって松田がいうような意味において,また,ゲルーがいうような意味において,二種類の因果性が存在するということを,僕は全面的に否定します。そして前述の結論で述べたように,持続の相とは永遠の相の特殊な形態であるのですから,各々の因果性は同一であるということになります。さらにこのような仕方においてのみ因果性を数的に区別する解釈が可能であると仮定する限り,因果性は数的に区別することがいかなる意味においても不可能であるということも帰結します。つまり因果性は「唯一」であると解すべきだと僕は考えます。
 もう一点,僕が松田の論述に不満なのは,仮に因果性が二種類に区別可能であるとして,そのことが第一部公理三とか第一部定理一四系一となぜ齟齬を来さないのかの説明がないことです。永遠の相の因果性も持続の相の因果性も,必然性を含むということはさすがに松田も前提しているだろうと思います。しかしそれらふたつの数的に区別される必然性が,同じ意味で必然であるといわれる根拠は,そのことのうちには不在だと僕は思います。これに関する説明がほしかったというのが,僕の感想です。
コメント
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