留学中の漱石の知り合いに、エッジヒル夫人がいました。漱石はしばしばお茶に招かれたようです。
日記に最初に登場するのが1901年2月16日。お茶の招待がありました。続けて、行かねばならぬ、厭だなーとあります。つまり漱石にとって、あまり会いたくない人物だったのです。会うたびにキリスト教の説教を聞かされていたからだと思います。
4月17日付に、また招待のことが書かれています。このときはノット夫人も同席していました。エッジヒル夫人からキリスト教の説教を承ったので、仕方がないから自分の思うことを述べたとあります。あるいは船内での論争と同じようなことがあったのかもしれません。
断片と思われますが、内容も記されています。エッジヒル夫人は祈る気にならないかと問いました。漱石は祈るべき対象は存在しないと答えます。夫人はその答えに、この至福を知らないとは情けないといって泣きました。漱石は気の毒に感じました。夫人が漱石のために祈ろうと言ったので、漱石はよろしくとお願いしました。夫人はその代わりに約束をしてほしいと言います。漱石は夫人が自分のことをそこまで思ってくれるのだから約束すると答えました。夫人の申し出は、漱石が福音書を読むことでした。漱石は、気の毒だから読みましょうと答えました。別れ際に夫人は約束の念押しをします。これからゴスペルを読むんだ、という文章でこの日の日記は終っています。
漱石にとって福音書を含め、聖書を読むことは、そんなに苦ではなかった筈です。ノット夫人からもらった漱石の聖書に多くの書き込みがあったという事実がそれを裏付けるでしょう。ただ、ノットは聖書をあげても、説教をすることはありませんでした。だから漱石とノットは良好な関係を築けました。エッジヒル夫人は説教をするので、漱石にとってはあまり付き合いたくない人物であったのでしょう。つまり漱石のキリスト教に対する印象は、こういった説教によって、むしろ悪化したといえるように思います。
2月5日、水曜日。母がI歯科へ。クリーニングです。
2月7日、金曜日。妹の三者面談。年度末に向けての総括と、来年度の予定を話し合うため。作業終了後の午後4時から予定されていて、母がそれに合わせて出掛けました。といっても僕は伊勢佐木町に行っていましたので、母が出掛けたのを見たというわけではありません。ふたりが帰宅したのは午後5時50分頃。このときには僕が先に帰宅していました。とりたてて特別の内容はなかったようです。
2月8日、土曜日。ピアノのレッスンが予定されていましたが、こちらから断りました。大雪でしたので、先生が来るのに大変だろうと判断したため。関係ありませんが、僕はこういうことを書く場合に、「予定通りに雪が降る」といいたくなるのです。「吹雪」でいった枕詞とか結語というのは、たぶん意味不明だったと思いますが、具体的にはこういうことです。
2月9日、日曜日。母と妹が美容院に。午後3時過ぎには帰ってきました。あまり早く帰ってきますとまた具合でも悪くなったのではないだろうかと心配になりますが、この日はふたりを同時にカットしてもらえたので早くなったとのこと。あるいは前日の雪の影響があり、予約を取り消した方がいらっしゃったのかもしれません。
2月10日、月曜日。こども医療センターへの通院。午後1時から。この日は脳波の測定も行いました。帰ってきたのは午後3時半頃。土曜日に降った雪の影響があり、この日は僕は午後はずっと家にいました。母によると、行くときに乗った神奈中のバスが故障してしまい、途中で降ろされるというハプニングがあったようです。医療センターを経由するバスは、横浜駅から戸塚駅へ向うものは30分に1本。ですが井土ヶ谷より先まで行けば、東戸塚行きが出ています。そちらに乗り換えることができたので、予約時間に遅れてしまうということはありませんでした。
2月11日、火曜日。ESTAの申請を行いました。翌月に母と妹が渡米することになったため。前回の申請から時間が経過し、期限が切れていたようです。相変らずクレジットカードはありませんので、伯母のものを使うことになりました。
日記に最初に登場するのが1901年2月16日。お茶の招待がありました。続けて、行かねばならぬ、厭だなーとあります。つまり漱石にとって、あまり会いたくない人物だったのです。会うたびにキリスト教の説教を聞かされていたからだと思います。
4月17日付に、また招待のことが書かれています。このときはノット夫人も同席していました。エッジヒル夫人からキリスト教の説教を承ったので、仕方がないから自分の思うことを述べたとあります。あるいは船内での論争と同じようなことがあったのかもしれません。
断片と思われますが、内容も記されています。エッジヒル夫人は祈る気にならないかと問いました。漱石は祈るべき対象は存在しないと答えます。夫人はその答えに、この至福を知らないとは情けないといって泣きました。漱石は気の毒に感じました。夫人が漱石のために祈ろうと言ったので、漱石はよろしくとお願いしました。夫人はその代わりに約束をしてほしいと言います。漱石は夫人が自分のことをそこまで思ってくれるのだから約束すると答えました。夫人の申し出は、漱石が福音書を読むことでした。漱石は、気の毒だから読みましょうと答えました。別れ際に夫人は約束の念押しをします。これからゴスペルを読むんだ、という文章でこの日の日記は終っています。
漱石にとって福音書を含め、聖書を読むことは、そんなに苦ではなかった筈です。ノット夫人からもらった漱石の聖書に多くの書き込みがあったという事実がそれを裏付けるでしょう。ただ、ノットは聖書をあげても、説教をすることはありませんでした。だから漱石とノットは良好な関係を築けました。エッジヒル夫人は説教をするので、漱石にとってはあまり付き合いたくない人物であったのでしょう。つまり漱石のキリスト教に対する印象は、こういった説教によって、むしろ悪化したといえるように思います。
2月5日、水曜日。母がI歯科へ。クリーニングです。
2月7日、金曜日。妹の三者面談。年度末に向けての総括と、来年度の予定を話し合うため。作業終了後の午後4時から予定されていて、母がそれに合わせて出掛けました。といっても僕は伊勢佐木町に行っていましたので、母が出掛けたのを見たというわけではありません。ふたりが帰宅したのは午後5時50分頃。このときには僕が先に帰宅していました。とりたてて特別の内容はなかったようです。
2月8日、土曜日。ピアノのレッスンが予定されていましたが、こちらから断りました。大雪でしたので、先生が来るのに大変だろうと判断したため。関係ありませんが、僕はこういうことを書く場合に、「予定通りに雪が降る」といいたくなるのです。「吹雪」でいった枕詞とか結語というのは、たぶん意味不明だったと思いますが、具体的にはこういうことです。
2月9日、日曜日。母と妹が美容院に。午後3時過ぎには帰ってきました。あまり早く帰ってきますとまた具合でも悪くなったのではないだろうかと心配になりますが、この日はふたりを同時にカットしてもらえたので早くなったとのこと。あるいは前日の雪の影響があり、予約を取り消した方がいらっしゃったのかもしれません。
2月10日、月曜日。こども医療センターへの通院。午後1時から。この日は脳波の測定も行いました。帰ってきたのは午後3時半頃。土曜日に降った雪の影響があり、この日は僕は午後はずっと家にいました。母によると、行くときに乗った神奈中のバスが故障してしまい、途中で降ろされるというハプニングがあったようです。医療センターを経由するバスは、横浜駅から戸塚駅へ向うものは30分に1本。ですが井土ヶ谷より先まで行けば、東戸塚行きが出ています。そちらに乗り換えることができたので、予約時間に遅れてしまうということはありませんでした。
2月11日、火曜日。ESTAの申請を行いました。翌月に母と妹が渡米することになったため。前回の申請から時間が経過し、期限が切れていたようです。相変らずクレジットカードはありませんので、伯母のものを使うことになりました。