スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ハンセンとサンマルチノ&墓参り

2013-04-11 18:58:41 | NOAH
 馬場は1999年1月31日に死にました。その後,5月2日に東京ドームで引退試合が行われました。もちろん死後の引退試合ですから,セレモニー色の強いものでした。
                       
 試合形式はタッグマッチ。馬場のパートナーを務めたのは白覆面の魔王ことザ・デストロイヤー。反対側のコーナー,つまり名目上の対戦相手には荒法師ことジーン・キニスキーと人間発電所が選ばれました。
 この3人の選手が入場するとき,全日本プロレスの選手たちがリングサイドに整列して出迎えました。これは所属レスラーだけでなく,当時の全日本プロレスにレギュラー参戦していた外国人レスラーも含まれていました。馬場が全日本プロレスをひとつのファミリーとみなすとき,広い意味では参戦しているすべての選手が含まれていたわけで,いわば大家族が総出で出迎えたということになります。
 このとき,サンマルチノがリングに上がろうかというとき,何か声を掛けた選手がいました。それが不沈艦でした。日本テレビの中継シーンにばっちりと映っていたので僕はそのことに気付いたのですが,瞬間的に思わず声を上げてしまったシーンでした。
 首折りというアクシデントが生じた後,ハンセンとサンマルチノとの関係がどんなものであったのか,僕は知りません。ただ,可能性としてだけいえば,顔を合わせたことすらなかったかもしれないのです。馬場はそのふたりと,ライバルとして戦い,またタッグを組み,友情を結んだ選手でした。
 このシーンはただ映像として流されただけで,そのままスルーされてしまいました。あのとき,実況アナウンサーや解説者が,サンマルチノにハンセンが声を掛けたという事実に,何の言及もしなかったことを,僕はとても残念に思っています。ふたりの間の経緯を知らないファンの方が,ずっと多い時代になっていたと思うからです。

 家を出たのは11時少し前のことでした。昨秋の彼岸の墓参りのときは,家からタクシーで日野公園墓地まで行きました。僕はこの日も同じようにするつもりでした。しかしが,一旦はバスで屏風浦まで出て,そこからタクシーに乗っていく方がいいのではないかと言いまして,僕も同意してそのようにしました。日野公園墓地には家よりも屏風浦の方がずっと近いですから,タクシー代が節約できます。ただ,このことはこのような行き方をする結果として生じることであり,主目的ではありません。母が重視していたのは,タクシーの乗りやすさです。家の近くで空車のタクシーを捕まえるのは,実は意外と大変なのです。屏風浦まではバスで1本。バスは概ね時刻表の通りに運行しますから,それに合わせて家を出ていけばよいことになります。そして屏風浦の駅にはタクシー乗り場がありますので,そこからならばタクシーには簡単に乗ることができます。ということで,この方法を採用することにしました。実際にやってみると,明らかにこの方が優れていると思えましたので,今後も墓参りの際にはこの方法を用いることになるでしょう。秋は帰りにファミリーレストランで外食しましたが,この日はどこにも寄らずに帰宅しました。これは日野公園墓地から自宅の近くまでタクシーで帰ったもの。墓地の敷地の中で空車のタクシーを捕まえることができました。帰ったのは正午過ぎ。先述したように僕はこの日の午後は長者町でした。
 この週末も妹には何の予定も入っていませんでした。体調の方はもう完全に回復していて,問題はありませんでしたが,ゆっくりと休養することができたのはよかったと思います。
 予定があったのはその翌週末。これは月末ですが,3月30日の土曜日がピアノレッスン。この日は午後5時半という時間が予定されていました。レッスンを再開するようになってから,必ず土曜か日曜になっていますので,もっと早い時間に設定されていましたが,以前は平日にレッスンをするというケースもままありました。その場合は妹が作業所から帰った後でのレッスンということになりますので,こういう時間もあったのです。ただし,この日も先生から連絡があり,午後5時に早まっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする